特集の傍流

2017.1.16

「雪害」に挑んだ先人と「雪調」のこと。

2017年2月号(148号)雪国の暮らしと雪調。
雪の里情報館 館長 斎藤秀二さん
雪の里情報館(新庄市)

新庄駅から車で10分もかからない場所に、ノスタルジックな雰囲気を醸すトンガリ屋根の建物が建っている。旧農林省「積雪地方農村経済調査所(以下「雪調」)」の庁舎の一部を保存・復元したものだ。現在は新庄市「雪の里情報館」の展示室として、当時の膨大な資料の保存・公開を行っており、平成26年4月25日には、国の登録有形文化財にも登録されている。

 

img_bo_148_1239g

 

しかし、かつての「雪調」がなぜ新庄市に設置され、どのような功績を残したのかを知る人は、今や少ない。
今回『gatta!』では、「雪の里情報館」館長である斎藤さんの案内のもと、「雪調」の歴史と、現在、我々の生活に息づく功績を紐解いてみた。

 

「雪調」は、克雪の時代を生き抜く光明でした。

雪下ろしの必要がない急勾配の切り妻屋根と、光が入りやすい三角のドーマ窓。昭和12年に、雪国の住宅改善や民家研究で知られる今和次郎により設計、建築された庁舎は、明らかに「克雪」を考えてデザインされている。

 

「雪の里情報館」内に展示されていた、上棟式の写真。

「雪の里情報館」内に展示されていた、上棟式の写真。

 

「雪調」の庁舎は、今和次郎が設計した数少ない現存建物の一つ。普段は立ち入ることの出来ない、旧庁舎の2階に上がらせていただいた。

「雪調」の庁舎は、今和次郎が設計した数少ない現存建物の一つ。普段は立ち入ることの出来ないが、昭和12年当時の構造をそのまま遺す、旧庁舎の2階に上がらせていただいた。

 

ドーマ窓を指さす斎藤さん。

三角形のドーマ窓を指さす斎藤さん。真に美しいものは、ながい時を経ても新しさを失わない。

 

窓から直接差し込んでくる光によって、室内は十分に明るい。

窓から直接差し込んでくる光によって、室内は十分に明るい。

 

雪をよく知らない人は、どうしても雪に対してロマンチックで幻想的な情景を先行させがちだ。雪は文学や歌でもそのように語られるだけでなく、冬のスポーツや、イルミネーションの引き立て役として無くてはならない〝道具〟にさえなっている。
今でさえ「利雪」や「親雪」と、雪の恵みを活かしたり、雪に親しんだりするといったことがされているが、積雪地に住む人にとって、雪はより良い生活を阻み、時には命さえ奪うもの。雪国が今よりもはるかに苦しい生活を強いられていた時代、積雪の苦と繰り返す凶作によって、雪国の農村経済は疲弊しきっていた。

 

それにもかかわらず、大正末から昭和の初めは、皆が「雪が降るのは当たり前」という考えであり、雪の降らない場所の生活と自らの生活を比較することも少なかった。もちろん、雪による害という〝仕方がないもの〟に挑もうという気力も無かったのである。
そんな時流が変化し、「雪調」が建てられたのは、雪が与えるマイナスの側面を宿命として諦めず、生活を向上させようと果敢に「克雪」に向かって活動した人々がいたからだ。

 

昭和初期、積雪に苦しむ農村を救うべく、政府を動かした山形県人がいました。

「雪調」を語る上で欠かせない人物が、日本で初めて「雪は災害なり(雪害)」と唱え、雪害克服運動を積極的に展開した松岡俊三代議士(1880〜1955)だ。
松岡が初めて雪害問題を公表したのは、昭和2年12月、北村山小作人組合の総会の席上。当時、小作人と地主の対立が激しく、その総会も地主側に突きつける要求を協議する場だった。そのような場での突然の雪害演説であったにもかかわらず、聴衆は演説に聞き入り、終わると盛んな拍手が送られたと言われている。

 

帝国議会での雪害演説の様子。雪害のような自然災害を政治に取り上げるのは、日本政治上、初めてのことであった。

帝国議会での雪害演説の様子。雪害のような自然災害を政治に取り上げるのは、日本政治上、初めてのことであった。

 

「雪害」という言葉は、元々日本語にはなかった。しかし、昭和8年に文部省の「義務教育費国庫負担法施行に関する勅令」に雪害という二文字が加えられてからは公用語となった。この「雪害」の言葉が世に広まり、正式に認められた言葉となったのも、松岡の功績があったからである。
長く故郷・山形を離れていた松岡が、なぜ「雪害」に着目するに至ったか。それは、帰郷後に肺炎で山形市の済生館病院へ入院した際、風邪をこじらせて自分と同じように肺炎にかかり、次々と命を落としていく子どもたちの姿を目にしたからだった。
「こんな悲劇は、雪と寒さに対して何の対策もとられていないことが原因だ。雪害だ。雪害から救済せねばならない。元々収穫が少ないために人々の栄養状態も悪い。その上、税率は他地方と同じだ。支援制度を作り、税金を下げて生活を楽にするだけでなく、農村の技術を向上させて経営を安定させなければ。そのためには、雪国そのものの研究・指導機関が必要である」。
そう思いを決めた松岡は、雪害救済運動を一筋に進むことになる。

 

雪害問題は、政治的に解決せねばならない。

そう考えた松岡は、1930(昭和5)年、雪害への理解を広め、救済を求める民衆運動に高めようと、豪雪の各地へ「雪中行脚」に出る。県内は元より、東北・飛騨の高山・越後・北海道は根室・釧路・稚内まで、積雪の中を歩き続け、雪の量や質についてデータを収集し、資料を作成。雪に苦しむ農村の実情を明らかにし、訪問先では雪害の実態調査と、雪に対する諦念から人々を解放することに尽力した。また、「松岡俊三は都新聞の副社長だったこともあって、マスコミをうまく活用しました。新聞記者を呼び寄せて新聞に書かせ、雪害について広く知らしめたんですね」と斎藤さんは語る。

 

松岡による、雪国と暖国の比較統計図表。具体的なデータが、誰が見ても理解出来るように、分かりやすく整理されている。

松岡による、雪国と暖国の比較統計図表。具体的なデータが、誰が見ても理解出来るように、分かりやすく整理されている。

 

こうしたこともあり、運動は雪国全体に広まり、大きく盛り上がる。しかし、それでも政府はなかなか動こうとしなかった。
というのも、「戊辰戦争で、東北はいわば賊軍だったわけです。その流れで政府ができたため、要人は西の地方の人間ばかり。暖かい地方で暮らす彼らに、雪の恐ろしさや、それによる経済の疲弊について理解を得るのは難しいことだったんですね」。斎藤さんはそう説明してくれた。
確かに、賊軍だったという歴史的背景もあり、政府が東北や雪国を見放していたという事実は拭えないだろう。また、雪は「害」だけではなく、雪遊びや雪解け水の利用などの「利」ももたらすだろうという反駁もあったという。しかしながら、その雪の量が度を超えていたため、最早それは「利」ではなかった。その不利益は、台風や洪水などの自然災害と同じであったにもかかわらず、雪国の凶作に対し、政府は義援金などを送るだけ。南方の台風災害などに対しては、既に法的な支援が行われていたというのにである。
「雪害も国をあげて救済すべきだ」と宣言する松岡は、政府に対して雪害救済の必要性を実証的・実践的に訴え続けた。そして、昭和4年に起こった世界恐慌が農村を直撃したこともあり、悲惨さを増す農村救済と雪害運動の盛り上がりを受け、政府は昭和8年、ついに積雪地方農村経済調査所(雪調)の設置を決定するのだ。

 

前人未到の領域に挑んだ、全国初の事業所。

「雪調」の設置には、雪国各地で誘致運動が繰り広げられたが、松岡の出身である山形県、中でも、彼の考えに強く共鳴し、民間で初の雪害規制連盟をつくるなど、熱心に雪害の現状を訴えた若者たちがいた新庄の地に建てられることとなった。
「雪調」の業務は、農村経済係、積雪研究係、副業及び農村工業係の三部署で構成された。それぞれの業務は、農業経済学の東畑精一や、低音物理学の中谷宇吉郎、建築学の今和次郎、民芸研究家の柳宗悦など、各界の第一線で活躍している研究者を呼び集め、実践的研究が進められた。また、各地から研究依頼も数多く出され、この研究成果を学ぶために全国各地から多くの人々が訪問。雪と雪国の調査・研究・指導は、もちろん先人が手をつけたことのない領域。「雪調」はそれに挑み、雪そのものの正体を知るための研究など、人々の生活を向上させる道を拓くことになる。
また、「雪調」は研究施設でありながら一大工場群でもあり、地域の実状に合わせて地場産業や農家の副業を起こすため、様々な製品開発と技術開発に取り組んだ。羊や馬の毛のホームスパン、雪による農産物の貯蔵、りんご、さくらんぼ、洋梨栽培の奨励、味噌、醤油の醸造、なめこの人工栽培、ジャム、トマトケチャップ、シロップ、わらび、まいたけ、ふき、しめじなどのびんづめや缶詰、果実酒など、農村工業や副業の対象とされたものは実に幅広かった。

 

農民の手仕事の業を、民芸運動に高めた人物。

「雪調」の開設とともに初代所長となったのが山口弘道だ。山口が積雪研究室の業務として結成した「雪の会」では、ざらめ雪、しまり雪など、正式な雪の分類と名称が決定された。民間で使われていた名称がそのまま学術の方面でも使われるのは珍しいことであり、この「雪の会」はその後、「日本雪氷協会」となり、現在の「日本雪氷学会」へと発展している。
また、北海道から広島までの各小学校と分教場に依頼し、積雪調査を実施。長年に渡って収集されたそのデータは、積雪期間や最高積雪深の分布状態・平均を知ることができる貴重な資料として現在も利用されている。世界的にも積雪の研究が進んでいなかった当時、「雪調」は多方面で現在に通じる大きな業績を残した。
そんな山口の仕事の中で忘れてはならないのが、民芸運動との関わりだ。山口は、農作業ができなくなる冬期の自給自足の手段として、農民の間に古くから伝わる伝統の業に着目し、民芸品づくりを奨励したのだ。

 

下段左から3人目が山口弘道。その右は柳宗悦。

下段左から3人目が山口弘道。その右は柳宗悦。

 

農民は農閑期に蓑や藁ぐつを編む。この技で都会向けの商品を作れないものかと考えた「雪調」。そんな折、柳宗悦の民芸運動に共鳴した山口は、柳は元より、陶芸家の河井寛次郎や濱田庄司、染色工芸家の芹沢銈介、さらに、ブルーノ・タウトなど、中央から多くの民芸家を呼び寄せ、「財団法人雪国協会」、「民芸の會」を結成。民芸品づくりの講習会や展覧会を開催し、東京の三越にも「東北民芸展」を開く。そこでは、出品した1万点のうち、実に3分の2に及ぶ品々が売れたと言われ、また、柳からも高い評価を受けたものに「新庄東山焼き」があるが、仙台の三越に土鍋や雪平を出したところ、たちまちに売り切れたという。この事実は、雪国の人々に大きな誇りと励ましを与えることにもなった。
こうした積極的な取り組みが、後のシャルロット・ペリアンの来所につながるのだ。

 

img_bo_148_1296

 

img_bo_148_1297

 

大勢が集まった、民芸品づくりの講習会の様子(昭和14年頃)。

大勢が集まった、民芸品づくりの講習会の様子(昭和14年頃)。

 

農民の巧緻な手技に感動したフランス人。

 

ペリアンの来所(昭和15年)。新庄市では、晩年の女史との交流が実現している。

ペリアンの来所(昭和15年)。新庄市では、晩年の女史との交流が実現している。

 

シャルロット・ペリアンは、フランスの建築家、ル・コルビュジェの高弟で、今なお高い評価を得ている建築デザイナーだ。彼女は当時の日本の輸出振興の中、商務省の要請で家具等の輸出品のデザイン指導のために来日したのだが、この機会に彼女の指導を仰ぎたいと熱望していた「雪調」の願いが叶い、東北各地を訪問する行程で「雪調」にも来所することとなった。
稲藁等を用いた生活用具作りの副業化を進めていた「雪調」にとって、ペリアンの来所は具体的な助言を求めるまたとない好機であり、農民の手による各種の作品を目にしたペリアンは、その技術と芸術性にいたく感動したという。その思いは、当時の館長であった山口から紹介された新庄の農村の蓑を、寝椅子の掛布のデザインに応用しているところからもうかがえる。
また、その際のペリアンの助言に基づき、寝椅子やテーブル、スツール、クッション、円卓等が製作されているが、特に寝椅子は農民の巧緻な手技がペリアン自身のシェーズロング(長椅子)と融合し、機能性とデザイン性を兼ねたものとなっており、ペリアンファンにとってはぜひとも一度は直接お目にかかりたい逸品であるだろう。

 

ペリアンのシェーズ・ロング(長椅子)と、地元の材料と技術を生かしたクッションが合わさった「ペリアン指導の寝椅子」。現在は山形県立博物館にて所蔵。

ペリアンのシェーズ・ロング(長椅子)と、地元の材料と技術を生かしたクッションが合わさった「ペリアン指導の寝椅子」。現在は山形県立博物館にて所蔵。

 

住宅の除雪からの解放を試みた「実験農家」。

また、「雪調」が取り組んだ実践的研究の一つに、「実験農家」がある。それは、「雪下ろしと、その雪の片付けから解放されれば、その浮いた労力を現金収入のための労働に充てることができ、一家の家計は成り立つのではないか」という今和次郎の仮説を検証するため、今自身の設計により、昭和13年に「雪調」の敷地内に建てられた。

 

「実験農家」は、除雪、営農、衛生面と家の造りの関係について実験を試み、建てられた後も、実際に生活する住民の声を元に、何度か改良が加えられた。

「実験農家」は、除雪、営農、衛生面と家の造りの関係について実験を試み、建てられた後も、実際に生活する住民の声を元に、何度か改良が加えられた。

 

「実験農家」裏面。

「実験農家」裏面。

 

「雪調」が雪害地方の視察旅行の途上で発見した、新潟県の瀧澤素朗校長の克雪住宅設計をアイデアに建築されたそれは、高床式の3階建て、50度の急勾配屋根による自然落雪で雪落としの手間を省くという、当時にしては画期的なもの。また、ガラス窓を多く取って室内を明るくすることや、当時は居住スペースに牛や馬なども同居しているスタイルが一般的であったが、そういった家畜との同居を避けること、さらに、囲炉裏の煙で目を病んでしまう農民も多かったため、排煙機能をつけるといった、衛生面での課題も考慮されていた。

 

img_bo_148_1247

館内に展示されている「実験農家」の模型を説明する斎藤さん。

 

「実験農家」の模型。(断面図)

「実験農家」の模型。(断面図)

 

赤字が当たり前の小作農が一年で黒字に。

こうして建てられた家屋に、標準的な一家に通年で暮らしてもらったところ、家計の収支は見事黒字になった。小作農が決算で黒字を生んだことはとても珍しかったが、これは実際に生活した農家が、一年うちのほとんどの日を労働に費やすことができたため。それは元をたどれば、家の設計によって除雪の作業から解放され、その分の時間を労働に充てることができ、また、衛生的な住宅のつくりが、保健上の好影響を与えたということだ。この「実験農家」の設計は、農村家屋のあり方に大きな影響を与えるものと思われたが、農村の伝統的な生活習慣の固執性と、経済的余裕の無さ、その後の戦争の深刻化などが影響し、当時の普及はあまり芳しくなかった。しかし、このアイデアは現在、雪国の克雪型住宅の原型となっているのだ。

 

従順な山形県民が雪害から学んだ、「自ら考え判断し、行動する」こと。

このように、松岡俊三より始まった雪害救済運動と、そこから広まった「雪調」の取り組み。それは単に、助成金や法の整備、研究意欲の充足などが目的だったのではなく、「政府に見放された上、雪害で気力を無くしている雪国の人間の意識改革と、自立した人間性と地域力をつけることも目的だったんです」と、館長の斎藤さん。

 

斎藤さんが説明するように、「雪調」の活動は、保守的で従順な東北人に「自分で考え判断し、行動する必要性を浸透させる」こととなった。現在、東北地方では山形県が最多と言われ、県内では最上地方や置賜地方(豪雪地帯)で多く見られるピロティ式の3階建て住宅(※ピロティとは、2階以上を部屋とし、1階を吹き放ちにした建物のうちの、1階部分を指す言葉。現代では、家屋や飲食店で、1階に車庫や駐車場、2階に居住区や客席・厨房を配置した設計を、ピロティ形式と称することがある)や、50度の急勾配の屋根を持つ住宅などは「雪調」の理想を引き継ぐものだが、一度は普及しなかった「実験農家」に見られる住宅設計が今に生きているということは、現代人がその設計を雪国にふさわしいと判断したということ。これは「雪調」の活動が今でも雪国に生きる人々に様々な示唆を与えていることの証拠だ。
また、現在、新庄にある「雪氷防災研究センター 新庄雪氷環境実験所」では、雪氷防災実験棟(※天然の雪に近い人工雪を降らせる装置を備えた世界で唯一の実験施設)を用いた実践的な研究により、雪氷災害の発生のメカニズムを解明している。また、屋根の雪下ろしの判断材料となる積雪荷重などの情報発信や、雪崩などの災害調査、防災ドクターの派遣、屋根雪処理に関する技術相談などを行い、積雪地帯に住む人々の安全への貢献に努めている。こういった施設が存在することも、過去、新庄市に「雪調」が存在したことと決して無関係ではないだろう。

 

現在、我々が雪を楽しみ、親しむことができるのは、近年の気候の変化による降雪・積雪減少で、昔ほど不利益を被らなくなったことが確かに影響しているだろう。しかし、雪害を前に諦め、耐え忍ぶのが当然という風潮が、調査と研究により、「雪害は克服できるもの」と変化し、ついには自らの意志で雪に挑むまでに高まった。それが今に続いているという事実も、見過ごすことはできない。

克雪を雪国に示し、多方面に展開した「雪調」の仕事だが、戦争の勃発とともに日本が戦時体制に組み込まれると、活動も停滞を余儀なくされた。戦後も国も機構改革によって事業所は何度も分離や廃止、移転の道をたどり、最終的には上位部署に統合され、昭和57年度、その歴史に幕が下ろされることとなる。しかし、その存在が今も雪国に生きる我々の雪への向き合い方や、より良い生活の礎になったことには違いない。

 

img_bo_148_1322

 

「雪の里情報館」は、「雪調」が農村の救済・更生のために果たした業績を永く後世に伝えていくとともに、雪のふるさとづくりに関わる人々の思いをも守り抜いていくことだろう。
我々雪国住民の生活文化は今や、かつての伝統的なものではなくなってしまっているが、この暮らしの中でも人知れず、また違った雪への新しい向き合い方が生まれ、遠い未来にこんな風に語られるようになる日が来るのかもしれない。

関連記事

上へ