特集の傍流

2017.6.7

米沢牛、現在に至るそのルーツとは。

2017年7月号(153号)モウっと知りたい、米沢牛。
歴史監修/株式会社米沢食肉公社
出典/尾﨑世一著 『米沢牛の恩人 チャールズ・ヘンリー・ダラス小伝』
   尾﨑仁著『まぼろしのブランド牛 米沢牛物語』
山形県米沢市

今や、米沢という地名を聞けば思い浮かぶのが「米沢牛」。とろけるような霜降り肉と、赤身の旨さが特徴だ。観光で米沢を訪れた際に食べる人が多く、内陸や県外の人々にとっては、なかなか食すことのできないブランド牛でもある。
しかし、米沢地方は古くから牛の生産地だったわけではない。時は藩政時代、東日本で牛を生産している地域は少なく、南部地方(現在の岩手県)が東日本最大の産地だった。置賜地方での牛の飼育は、1681(天和元)年、当時の米沢藩主が南部地方から牛を導入し、農耕、運搬、採肥を目的として飼育を奨励したのが始まりと言われている。

 

米沢牛は岩手県南部から、鉄とともにやってきました。

当時、南部地方では鉄が産出しており、この鉄は南部牛の背に乗せられ、牛方(牛を専門に扱う人々)たちによって越後三条の金物屋に売られていた。北上山地を越える険しい山道を輸送するのには、馬よりも牛の方が体型や能力が適しており、また、牛は順応性があり、粗食に耐えることができ、寒暖にも強い。特に、蒙古牛の系統を引き継いでいる南部牛は体高が低く、荷物の積み下ろしに便利だったという。
こうして、仕事が終わった牛方たちは、背の荷が空になった牛を、米沢地方を通る越後街道沿いの村々に売っていったのだ。こうして後に「米沢牛」となる牛は、米沢地方に定着して飼われるようになり、牛たちは厳しい四季の寒暖の中で使役に従事しながら、豊かな自然の中で育まれ、じっくりと良牛へと成長していった。

 

取材にご協力いただいた、株式会社米澤佐藤畜産(次記事にて紹介)の牛舎にて撮影した米沢牛。

 

役牛として牛を育てていた米沢で、その肉を初めて公に食した記録が現れるのは1868(明治元)年。長手村(現在の米沢市上郷地区)の庄助という人が、牛2頭を官軍に献上し、医師や負傷兵に調理して出したという記載が米沢市史にある。
日本では明治初期まで肉食が禁止され、仏教の影響もあって「肉食は避けるべきもの」という風潮があったが、その一方で、肉の美味しさに魅了された人も少なからずおり、それまでにも「薬食い」といって肉を薬になぞらえて人々は牛肉を食べていた。特に当時の医師や文化人は牛肉の高い滋養効果に気づいており、肉食を広く推進していたことが知られている。また、米沢の病院では蘭学者が牛肉を薬として導入した背景もあり、米沢では藩政末期から明治初期に牛のセリ市が公開で行われ、特に飯豊町旧豊川村の「手の子のセリ市」は有名で、祭りのように賑やかであったという。
さらに遡れば、上杉鷹山公が刊行した「かてもの」の中で、肉類の保存についての記述があることからも、この地での長い歴史があることがうかがえる。

 

明治期に入ると文明開化により、「牛鍋食わぬは開化不進奴(ひらけぬやつ)」(=牛鍋を食べないとはなんて時代遅れな奴だ)と言われ、食用牛の需要が高まっていった。かの福沢諭吉は牛肉の普及に貢献した一人でもあり、明治維新前に、すでに「牛肉は滋養にいい」と人に進めていたという。また、牛肉の栄養価は軍隊食としても注目され、役牛から肉用牛へと、産牛会にも変化が起き始めた。その後続く戦争の影響もあり、牛肉の需要はますます高まる一方だった。

 

後に恩人となる人物が、英国から教師として訪れます。

米沢牛の歴史を語る上で忘れてはならない人物が、お雇い外国人教師のチャールズ・ヘンリー・ダラスだ。彼こそが、米沢牛を文明開化期の世に広く紹介してくれることになった、〝米沢牛の恩人〟なのである。
横浜の外国人居留地でその人柄や教養、才能を認められていたダラスは、1871(明治4)年10月に、上杉茂憲公が設立した、旧上杉藩校興譲館洋学舎に教師として招かれた。そんな彼が故郷・イギリスへの望郷から、「牛肉が食べたい!」と思うのは必然なこと。ダラスは、米沢を訪れる際に横浜から連れてきていた自分のお抱えコックの万吉に牛肉料理を作らせることに。すると、その美味しさに大変感激することになった。

 

ダラスは礼儀正しい典型的な英国紳士で、ダラス家は、第11代米国大統領ジェームス・ポークの副大統領になったジョージ・ミリオン・ダラスを輩出した、由緒正しい上流階級の家柄の一族だった。
彼は、洋学舎の学生や米沢の住民からも親しまれ、敬愛されており、授業のない時間や休日などは積極的に街に出かけては城下の庶民の人とも親しく付き合い、米沢弁で気軽に話しかけたりしていたといい、英語以外に数学や経済学、地理や歴史なども教え、クリケットや器械体操といった近代スポーツも紹介したという。
教授法を工夫し、ユーモアを交えての言動はまさに「いい先生、愉快な先生」。また、米沢の向学心に燃える青年を封建的な閉鎖性から脱却する道を拓いてくれたことは大きな功績だと評価されている。

 

また、よほど牛肉が好きだったようで、度々牛肉料理を作らせては興譲館の教師や学生を大勢自宅に招いて牛肉をご馳走し、栄養学の話や西洋人の牛肉に対する考え方などを話しながら、肉食を啓蒙していたと伝えられている。
そんな彼の功績を称えて、2007(平成19)年10月、米沢市の松岬第二公園に御影石で制作されたダラス顕彰碑が、米沢牛の生産者や食肉販売業者、食堂経営者、そして一般市民の有志など、多くの人からの協賛金によって建立された。米沢の人々がいかに彼に感謝しているかを窺い知ることができる。

 

さて、ダラスはなぜ、米沢の牛を美味しいと感じたのか。それは、米沢の牛の風味や味が、故郷のイギリス産の牛肉と似ていたからではないかと考えられている。イギリスでは牛を、その筋肉に脂肪がたっぷりとつくまで、長い時間をかけて育てる。その牛の食味と、米沢で使役に従事し〝長い間〟じっくりと育てられていた牛の食味が似ていても不思議ではない。
しかし、米沢の牛が美味しかったといっても、それらは決して食肉用として育てられていたわけではない。美味しい肉になるように意図して肥育したわけではなく、「厳しい気候風土の中での長期の飼育と、役畜も家族同様大切に扱うこの地方の人の気質が結びついて、いつしか優れた肉質の牛に仕上がるようになった」と言われている。今日でも、この伝統が米沢牛育成の基盤となり、飼育農家に受け継がれている。

 

横浜の外国人居留区で、米沢牛の美味しさが話題に。

明治8年3月、洋学舎での4年の任期を終えたダラスは、食べた牛肉の味がよほど美味しく気に入ったのだろう、横浜の居留区に戻る折り、米沢牛を自身の仲間にも食べさせたいと、お土産として牛を横浜まで曳いて持ち帰った。そして2、3日牛を休ませてから居留区内で調理し、仲間たちに振る舞うと、その美味しさに皆が驚嘆。「柔らかい肉で、味に深みがある!」と大好評を得たという。当時、横浜外国人居留地では牛肉の需要が高まっており、主に関西地方から馬喰に依頼して牛を調達していたが、関東や東北地方からの調達も期待されていた時だった。ダラスは米沢の牛の評価を居留地の人々に問いかけたい意図もあって、生きた牛を曳いて帰ってきたのかもしれないと推測されている。

 

このダラスの行いが横浜との結びつきになり、間も無くして、ダラスの伝手で西置賜郡添川村(現在の飯豊町添川)の佐藤吉之助という人が、横浜の牛肉問屋と契約し、米沢地区で生産された牛を販売できるようになった。こちらも好評を博し、米沢牛はその美味しさとともに、広く世間に知られるようになる。
ところが、不思議なことに、米沢の地方では米沢牛の美味しさを証明することも宣伝することもなかった。他の地方の牛肉と味を比べる人が少なかったこともあるだろう。横浜や東京の人に「美味しい」と言われ、そうなのか、とようやく確信していったという。東北人の宣伝下手な性格が出てしまっている……。

 

ではなぜ、米沢牛の名前と美味しさが、外国人のみならず日本全体に広まっていったのか。それにはどうやら、米沢牛を広めた2つの口コミルートがあるらしい。
尾﨑仁氏(登起波牛肉店 店主)による著書、『まぼろしのブランド牛 米沢牛物語』によると、口コミルートの一つは、1910年に創立された旧米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)の存在。この工業会の名門校は比較的裕福な家庭の子弟が多かったといい、米沢市民からも「学生さん」と慕われていた彼らは、学費を稼ぐために肉屋や飲食店でアルバイトをした。当然、そこでは米沢牛のまかないにありつける。また、入学や卒業の節目には牛肉屋で両親と食事をすることが多く、卒業までに米沢牛の美味しさに触れる機会が十分にあった。卒業した彼らは、ある者は郷里に帰り、またある者は東京をはじめとする大都会に就職していき、行く先々で米沢牛の忘れられない美味しさを伝えてくれたのだ。

 

米沢の老舗『登起波牛肉店』の名物、すき焼き。

 

そしてもう一つは、米沢市内の米沢織の、織元の旦那衆の存在。米沢織が広まると、京都や大阪からも取引先の問屋などが米沢織も視察や仕入れにくるように。そのときに織元がご馳走するのは、もちろん米沢牛のすき焼きだった。関西はすき焼きの本場だが、「関西以外にも、こんな美味しいすき焼きがあるのか!」との言葉をもらうことに。特に、現地のすき焼きのタレは、関西のすき焼きとは違い、割り下に味噌が入っているのが特徴で、ご当地米沢のすき焼きとして評判になった。基本的には牛肉自体が美味しいのだが、この食べ方が受けたようで、米沢を訪れて米沢牛を気に入った人々は遠路各地から米沢牛を注文し、その美味しさの噂は全国に波及していったという。

 

奥羽本線でも大量出荷を開始。あの駅弁も生まれました。

奥羽本線開通(明治32年)を機に、米沢の牛は米沢駅から貨車積みされ、横浜に大量出荷された。このことが、米沢からの牛=「米沢牛」の銘柄を確実なものにした。また、米沢駅構内では、現在も人気を博す松川弁当店の「米沢牛駅弁」が販売を開始。翌年には牛の本格的な品種改良が始まり、戦後に増産体制に入ると、飯豊牛・西川牛・天童牛・東根牛など、県下で秀逸な肉用牛が誕生していった。

 

こうしたこともあって、地域それぞれの名称で出荷するよりも、山形県産の牛肉ということで名称や規格、品質を統一するほうが有利になると考えた時の県知事の首唱により、1962(昭和37)年、県内産肉牛は「総称 山形牛」と命名されることとなった。
しかし、当然ながら反発があった。そこで、昔から慣れ親しんだ歴史ある「米沢牛」の銘柄を独立して確立し、生産と流通を振興させようと、1992(平成4)年に「米沢牛銘柄推進協議会」が設立される。協議会によって米沢牛の定義が明確に定められ、素牛や出荷基準など、生産方法と品質管理が統一されることとなった。

そして、米沢牛銘柄推進協議会は2015年9月、地理的表示保護制度(GI)への登録を申請。米沢牛は2017年3月に登録産品となり、さらなる品質へのお墨付きを得た。肉牛の登録は但馬牛、神戸牛、松阪牛に続いて4品目となった。

 

牛肉のおいしさを日頃から味わっている山形県民は、東日本一の牛肉好き?

さて、肉と聞いて真っ先に思い浮かべる種類は地域によって様々だ。牛肉の西日本、豚肉の東日本と言うように、牛肉の消費量は関西を中心に西日本で多く、東日本で少ない。しかし、山形県は東日本であるにもかかわらず牛肉消費量が多いことで知られる。
総務省家計調査(2016年)の牛肉消費量ランキング(一世帯あたり年間消費量)によれば、山形県は8,202グラムで全国16位。東日本の中ではトップに位置する。(ちなみに1位は京都府で10,061グラム。全国平均は6,567グラムとなっている。)
この理由として、県内の数ある地元ブランド牛の存在や、それを地元で食す、いわゆる地産地消の多さが挙げられそうである。

 

牛肉がランク付けされるのは、頭・内臓・尾・四肢端を取り除いた枝肉(えだにく)になってから。写真は米沢牛のセリの様子。

 

なぜ、米沢牛はこれほどまでに評価が高いのだろうか。それはもちろん、その美味しさのためであるが、その美味しさを育むには、美味な牛肉を生み出すのに理想的な、この米沢という豊かな土地、その環境を最大限に生かす生産者、その美味しさを最高の状態で提供する企業や店舗の、努力と真摯な想いがあることを忘れてはならない。

 

次の記事からは、実際に米沢牛を飼育、加工、販売している方々からご登場いただいた記事のレポートをお送りします。
(※トップ画像は、株式会社米沢食肉公社にて撮影)

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