特集の傍流

2017.9.6

わたしたちに何かを伝えにやってきた〝縄文の女神〟とは。

2017年10月号(156号)やまがたと縄文人。
撮影協力・監修/山形県立博物館、山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館
山形市、高畠町

 突然だが、「山形の宝」と聞いたとき、あなたはまず何を思い浮かべるだろう。
 自然? 食べ物? それを生み出す風土? はたまた歴史や文化? 受け継がれてきた優れた技術? 果ては〝人〟そのもの?
 それぞれ様々なイメージがあるだろうが、それはどれも古くから、人がいたからこそ現代にまで受け継がれてきたもの。人によって文化が育まれ、そこから生まれた多くの「宝」は今日、「文化財」と呼ばれている。
 この山形県にも文化財指定を受けているものが数多く存在し、「山形の宝」と呼ばれることがあり、実は気づかないだけで「これも文化財だったのか!」などというものも存在する。

 

いにしえの〝山形人〟が今に残す「山形の宝」といえば?

 さて、そういった「宝」を紹介しようとすると、とある問題が浮上する。量が多いために全てを紹介することができないのはもちろん、ただ紹介するだけでは面白くなくなってしまう。
 何か一つに絞るべきか……そんなことを考えていたときに、ふと思い浮かんだのが「縄文の女神」。
 そうだ。せっかくなら、山形が誇る国宝「縄文の女神」を紹介し、女神を緒(いとぐち)に、縄文と山形を結んでみてはどうか?
 そこで見えてきた、いにしえの暮らしから、いまの暮らしや生き方のヒントを考えてみてはどうか?
 ……という感じで出来上がったのが、今回の特集である。

 

 前置きはさておき。今回の特集の緒となった「縄文の女神」は、日本のあけぼのと言われる縄文時代に作られた土偶である。
 ちなみに土偶とは、人間(女性ではないかという説が有力だが、定かではない)あるいは精霊を表現して作られたと考えられる土製品のこと。日本では縄文時代に、沖縄県を除く地域で制作された。破損した状態で出土するものがほとんどで、意図的に壊された説と、埋められてから破損した説がある。

 

 さて、縄文の女神は、道路工事のための調査によって発見された西ノ前遺跡(舟形町)から、平成4(1992)年に出土した。直径5〜6メートルの範囲から5片に分かれた状態で見つかったのだが、このように比較的狭い範囲から全身が出土するのは珍しいことなのだという。
 女神は、高さ45センチメートル、重さ3.155キログラム(復元重量)と、全身の分かる土偶の中では現在国内最大である。通常、土偶というのは手で持つことのできる大きさがほとんどなのだが、女神はもはや両手で『ライオンキング』のシンバのように掲げなければならないレベルの大きさだ。しかも、新生児の平均体重には少し届かないものの、掲げるには結構大変そうである。表面を見ても分かる通り、焼きむらがあるが、むらを抑えるための工夫として、実は脚部の底面がくり貫かれている。また、現代アートと言われても信じてしまいそうな造形もさることながら、腕や目鼻の省略、頭部の穴など、謎が多いのも特徴だ。
 そんな女神は、その造形美、考古学的価値の高さなどから、当時の美術工芸の技術水準を示す優品として、同時に出土した土偶残欠とともに、平成24(2012)年、国宝に指定された。

 

国宝附(つけたり)土偶残欠47箇


 

女神が作られた時代の遺跡が、各地に残る山形。

 女神が発見された西ノ前遺跡の他にも、山形には縄文時代の遺跡が広く各地に見られる。県内最古のものでは高畠町の日向洞窟から、草創期の人々の暮らしが解明されている。

 

日向洞窟(高畠町)での生活の様子を再現したジオラマ(山形県立博物館)。それまでの旧石器時代は、マンモスを追いかけるといった移動しながらの生活を送っていたが、縄文時代草創期には既に定住が始まっていたと考えられている。


 

 縄文時代は、食料となる植物や、動物が生きるのに最適な、自然豊かな東日本が栄えていた(弥生時代になるとそれが逆転し、西日本が栄えるため、県内をはじめ、東北地方には弥生時代の遺跡は少ない)。そのため、山形にも規模の大きな遺跡が多いのだ。
 とはいっても、
「縄文時代ってよく分からない」
「授業でもさらっと流されて、テストにもほとんど出なかったような」
「竪穴住居という文字しか書いた記憶がない」
「あれでしょ? 毛皮を着てマンモス追いかけてた時代?」
(↑いえいえ、そのイメージは旧石器時代のものです)
 というような印象はないだろうか。

 
 旧石器時代と混同しがちで、歴史の授業でもさらっと流される時代、そんなイメージがつきまとう縄文。それは、「明確に分かっていることやものが少ないから」ということに尽きる。よく分かっていないものを授業やテスト問題で取り上げるのは難しい。
 明確に分かっていることが多い時代であれば、はっきりした答えが用意されているため、当然テスト問題も作りやすい。だが、分かっていることしか問題として取り上げられないのは当然といえば当然なのだろうが、あらかじめ答えの分かっているものしか問題として提示しないというのも何だかつまらないような気がしてきてしまう(と思うのは編者だけだろうか)。
 

「分からない」ことこそが魅力の縄文時代。
謎も想像も尽きない〝女神〟の生まれた時代に思いを馳せる。

 

「縄文の魅力は、確かなことが何も分からないところにあります」
 今回、撮影協力と監修、取材協力をいただいた山形県立博物館で、考古部門を担当されている原田俊彦さんはそう話す。

 

山形県立博物館 学芸課 考古担当の原田俊彦さん。〝縄文〟について幅広く話をいただいた。


 

 まさに、縄文時代は出土物からその世界を想像し、可能性を探ることしかできない。つまり、いくらでも想像を広げられることがロマンであり、魅力でもあるということ。確かなことが分からないからこそ面白く、現代の目線で角度を変えながら様々なアプローチの方法を模索することができる。近年、縄文好きが増えているというのも、その面白さから抜け出せなくなるからだろう。

 

 原田さんいわく、「(縄文の女神は)女神、女神と言われていますが、女神や女性ではない可能性だってあるんですよ。それを匂わせるものはありますが、そもそも土偶が祈りの道具に使われていたという証拠すらありません。想像するのは自由なんです」。

 そう、出土したものがそこにあるだけ。だから、想像は無限に広がる。
 もしも縄文のことが全て解明されてしまったら何だかさみしいような気もするが、女神は時を越え、我々に何かを伝えようとしているのかもしれない。

 

国宝「縄文の女神」(西ノ前遺跡出土土偶)


 

 女神が発見された縄文時代とは、どんな時代だったのか。発見されている遺跡や、出土品から明らかになっているのは、身分の差も争いもないということ。弥生時代になって稲作が行われるようになると、大勢で稲作に取り組む必要が出てくるため、「ムラ」という概念も生まれてくる。大勢を取り仕切るリーダーも現れ、縄文時代の食料事情とは違って「蓄える」ということができるようになったことで、そこから、蓄えの多いところ、少ないところ、といったように、貧富の差が生まれるようになるのだ。
 しかし縄文時代は、皆が皆、狩猟や採集などの同じような生活。多く獲れれば分け合い、少ない時には助け合うという気持ちを持っていた。作られる墓も、弥生時代や古墳時代のように誰かの権力を示そうという巨大なものではなく、皆平等に屈葬(手足を折り曲げた姿勢をとらせた埋葬方法)されている。

 

山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館の常設展示より。


 

 多くの縄文人たちは、4〜6棟の竪穴式住居がひとつの集落となり、15〜20人ほどで暮らしていた。多少の揉め事はあったにしても、戦争と考えられるものをここで起こすのは考え難いこと、出土する石器や土器に武器性の強い品物が見当たらず、石製の剣や刀もその大きさや重さから武器にはふさわしくない(祭祀用の道具として考えられている)ことから、縄文時代の暮らしは概ね平和だったと考えられている。
 山形県域における遺跡発掘・考古学研究のスペシャリストであり、山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館の館長である渋谷孝雄さんは語る。
「性格は一様におおらかだったと思います。逆らっても相手が自然ではどうにもならないわけですから。いまと比べたらだいぶゆったりとした暮らしぶりだったでしょうね。着るもの、家、道具もすべて天然の材料から自分たちで作り上げる。だから物質万能の現代とは違って、誰かを羨んだりもしない、ひとつあれば事足りるというような」
 必要なものは自分で作る。誰かがやってくれるという発想も存在しないのだ。
 また、「縄文時代には山間部と海岸部のような、かなり広範囲に亘る交易がすでにあって、互いの価値を認め合うことで物々交換する、利害のない交流があったと考えられています」と渋谷さん。モノや人、暮らしと丁寧に向き合い、対等である姿勢。縄文文化を通じてそれらを学ぶべき価値はきっと大きい。

関連記事

上へ