特集の傍流

2018.2.8

羽黒山出羽三山神社の門前町に息づいてきた、人々の祈りの心を見る。

2018年3月号(161号)やまがた冬の農村文化。
いでは文化記念館
山形県鶴岡市

「3年見ないと分からない」。そう言われるほどの複雑さと奥深さをもつ、羽黒山出羽三山神社の「松例祭」。羽黒山三大祭の一つであり、毎年、大晦日から元旦にかけて、夜を徹して行われる、天下泰平・五穀豊穣・家内安全などを祈願する祭事だ。
 松例祭は、手向(とうげ)地区から選ばれた「位上」と「先途」と呼ばれる二人の「松聖」(行者)の、100日の修行(冬の峰)の成果(験力)の競い合いと、松聖に付き従う位上方・先途方の若者衆(上下各4町)の競い合いとして催行され、様々な神事が執り行われる。その神事のひとつに、農村にとって害となる「恙虫」をかたどった大松明を焼き払うというものがある。
 今回はその「大松明行事」について、出羽三山文化の学びの拠点である「いでは文化記念館」に詳しいお話をうかがった。

 

悪鬼に擬した恙虫を焼き払い、悪疫退散・五穀豊穣を祈る。

 松例祭の起源は諸説あるが、修験者の験競べ(げんくらべ)や、地元住民の歳夜祭として継がれてきたものが源だという。
 また、中世末に著された『拾魂集(しゅうかいしゅう)』によれば、704〜708年頃、麤乱鬼(そらんき)という悪鬼が、鳥海山・岩鷲山(岩手山)の山上から邪気を放ち、奥州2カ国に悪疫を流行させた結果、数百人の人々が亡くなり、田畑も荒れ果てた。この時、羽黒権現が郡司の娘に憑依して、神前に12人の験者をおき、悪鬼の形に擬した大松明を焼くように託宣したという。その通りにしたところ、悪鬼は北海の小島(現在の酒田市飛島)に退散し、悪疫はおさまったと伝えられ、以後、この故事に従って毎年行うようになったというのが「松例祭」であると記されている。

 

 この麤乱鬼(そらんき)に擬した「恙虫」をかたどった、2体の大松明を用いた神事が「大松明行事」だ。位上方・先途方の若者衆が競い合いながら、翌年の悪疫退散・五穀豊穣を祈願する神事であり、平成23年3月には国の重要無形民俗文化財に指定された。
 なぜ悪鬼として扱われる大松明が恙虫をかたどっているのかというと、それは約1400年前に、出羽三山の開祖である蜂子皇子が、恙虫の被害から農民を救おうと、山麓の聖山に籠って100日間の祈願をこめたところ、「悪魔を焼き捨てよ」との託宣を得、その通りにしたところ、たちどころに災難、病苦が除かれたため、人々はこれにならって祭祀を行うようになったという故事にちなむ(出羽三山神社の社伝より)。

 

 大松明は、月山の麓で採取したススキ、ヨシ、ササなどで作られる。事前に、大松明(恙虫)を作るのに用いる「背綱・節綱・追回し」、大松明を引く「引き綱」が関連地域または有志から奉納された後、大松明を覆う綱を漉く(編む)「綱漉き行事」が、手向の若者たちによって行われる。この日から若者たちの競争が始まり、ここでは、編む速度やその出来栄えを競う。以前は位上方、先途方、お互いの集落(地区)の伝統的な編み方などを知られないように別々の日にちで行っていたが、今は同日に行っているとのことだ。
 そして祭りの前日に、大松明をつくる「大松明まるき」が行われる。「若者の早上り」といって、若者たちが羽黒山頂に集まり、位上方、先途方に分かれてそれぞれつくる。大松明ができあがると、各綱を寄進した村々の名を記した横長の立て札「聖札」をたて、その前で松聖が祈念をする。

 

 祭りの当日、大晦日の15時ころになると、大松明の一部が切り刻まれる。これは麤乱鬼(恙虫)を切断することを表しており、ついに綱は解体され、これにより恙虫(悪鬼)は滅ぼされる。
 その後、切り刻まれた綱(切り綱)が、松聖によって一般観客に向かって撒かれる「綱まき行事」が行われる。これは恙虫が退治されることを象徴する行事で、切った綱を一箇所にまとめておくと麤乱鬼(恙虫)が生き返るため、方々に散らす。
 この切り綱は悪魔の一部であるため、これを手に入れて家に持ち帰り、家の軒先やひさしに掲げておくと火防けや家内安全のお守り・魔除けになると信じられており、観客は争ってこれを奪い合う。

 

 日が暮れると、昼の綱まきで寸断され、解体された大松明を、位上方と先途方の若者たちがもう一度作り直す(大松明まるきなおし)。これは、日が沈み暗黒に包まれると、麤乱鬼(恙虫)が復活することを意味している。まるき直された大松明は、一度切り刻まされているのでその姿は小さいが、これは前ほどの生命力がないことを表している。ここでも、上・下の各四町がそれぞれ割り当てられた作業を行いながら、速さと出来栄えを競う。
 その後、大松明を引くための綱(引き綱)を、若者頭・副頭が申し出て競い合う。というのも、引き綱は大松明に取り付ける位置によって優劣がつけられており、より格の高い綱が自らの町に与えられるように、若者頭たちの熱弁がふるわれるのだ。
 そのころ三神合祭殿では、午前中から験競べ(げんくらべ)の神事が行われているが、そこで大松明を引き出す合図となる法螺貝が吹かれると、若者たちは綱を大松明に結びつけて、目印の榊の場所へ引き出す。

 

その人数からも、綱がいかに長く大きいものかお分かりいただけるだろうか。 写真提供/いでは文化記念館(羽黒町観光協会)

 

 大松明を大梵天に引きつけて、高く立てると同時に火をつける。こうして恙虫(麤乱鬼)は完全に生命を絶たれる。審判役の「大目付」が、どちらの大松明に早く火がついたか、どちらが炎の勢いが強かったかなどを審査し、より早く、より勢いよく燃え上がったほうが勝ちと判定される。位上方が勝てば翌年は豊作、先途方が勝てば大漁になるといわれている。

 

恙虫を引き綱で引っ張っている様子。この後、火にかけられて焼き払われる。 写真提供/いでは文化記念館(羽黒町観光協会)

 

 夜が明けると、手向地区の各町では綱延の家にそれぞれ集合し、軒下に「引き綱」を取り付ける。これは、大松明(悪鬼)を引いたということで、非常に力の強いものとされ、魔除けとして扱われる。
 手向地区では昔から「若者は嫁を取って半人前、綱をのして一人前」といわれるほど、綱をのす(=かける)ことは名誉なこととされてきた。こうしてのされた綱は、次の代の若者が綱をのすまで、その家の魔除け・守り神として飾られる。
 引き綱は「いでは文化記念館」にも寄贈されており、玄関口から仰ぎ見ることができる。

 

いでは文化記念館の「魔除けの引き綱」。中央の黒い麻糸は、羽黒山頂の鏡池の龍神を表している(綱全体を龍神と見立てているともいわれる)。龍神は火防の神でもあり、火災が起こらないようにという意味も含まれている。


 

 松例祭は、明治時代、新政府による神仏分離政策で「廃仏毀釈」が行われる大混乱となり、一時中断せざるを得なくなったが、地元の手向(とうげ)地区の人々によって、明治12年に現在の形となって復活した経緯がある。祭りの姿は多少変われど、人々の祭りへの思いは変わらなかったということだろう。
 地元民が一体となり、競い合いながら新年の豊穣を祈る。古来より受け継がれてきた人々の祈りの心が、大勢の手を経て、時間をかけて形をなしていく。松例祭の魅力は、こういったところにあるに違いない。

 

農村文化に倣う、豊かな生き方や見習うべきところ、考えてみましょう。

 〜むかし、ある村に貧乏な男がおった。あんまり貧乏なのでこの家の天井裏には貧乏神が住み着いておったそうな。ある日、この家に和尚の紹介で嫁様がやって来た。嫁様はぼさぼさの男の頭を自分好みの髪型にして、そうして二人は夫婦になったんじゃと。
 この嫁様はなかなか働き者で、それからは朝早くから男は山に柴刈りに、嫁様は池にシジミ採りに行き、二人揃って町に売りに行った。夫婦は毎日本当によく働いたので少しずつ小銭が貯まるようになった。ところが、一方の貧乏神は心配で夜も眠れんようになったそうな。
 そうして明日はお正月という年越しの夜のことじゃ。嫁様が蕎麦を打って、夫婦は幸せな気持ちで年越し蕎麦を食べておった。すると何やら天井裏から泣き声がする。「泣いておるのは誰じゃ?」と男が尋ねると、汚い爺様がふわりふわりと降りて来た。
 爺様は自分は貧乏の神じゃと名乗り、この家の暮らし向きが良くなったので、今夜福の神がやって来ると言う。こんな年越しの晩に追い出されたら、どこに行くあてもないと、貧乏神はほろほろと涙を流した。夫婦は少し驚いたが、「心配せんでもええ。」と、きっぱりと言い、涙を流す貧乏神に蕎麦や魚を振舞った。
 やがて夜も更けた頃、大きな袋を担いだ福の神がやって来た。戸を蹴破って家の中に入ろうとする福の神を、男と貧乏神は必死になって入れんように踏ん張った。じゃがそのはずみで囲炉裏にかけてあった鍋の煮え湯が、福の神にざんぶりとかかり、福の神は悲鳴を上げて逃げて行ってしもうたそうな。
 じゃが福の神は一つ忘れ物をしていった。それは打ち出の小槌で、望みの物が何でも出てくるという宝物じゃった。夫婦と貧乏神は、小槌で米や酒を出して大喜び。こうして次の日、めでたいお正月を迎えて、嫁様は貧乏神の頭を綺麗に剃ってやり、男と貧乏神は朝風呂に入り、大いに正月を祝ったそうな。〜

 
※ 泣いたびんぼう神(原題:貧乏の神) 出典/まんが日本昔話〜データベース〜より/『山形のとんと昔』(高陽堂書店)より 大友義助 共著
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 上に紹介したのは、山形県最上地方に伝わる、全国でも珍しい形とされる「貧乏神」の話である。貧乏神が福の神を追い出し、最後には自らが福の神の立場になってしまうというオチとともに、煙たがられる存在であるはずの貧乏神を受け入れる夫婦の姿が描かれている。ここに、困窮しても、労りの心を忘れずに優しく生きる県民の姿が表れているように感じる。
 なぜ、夫婦は貧乏神を追い出さなかったのかと考えると、それは同情や思いやりもあるだろうが、夫婦にとってみれば、貧乏神がいたおかげで必死に働いたため、自分たちの暮らし向きが良くなったとも言えるからではないだろうか。現状を前向きに転化する民話の世界ならではの描き方だが、これを現実世界に置き換えて考えれば、たとえ貧しくとも、懸命に働けばいずれ貧乏も福に転じるという教え、あるいは願いが込められているのかもしれない。

 

 我々が昔の農村の暮らしを思う時、人々は貧乏のどん底にあり、暗い生活ばかり送っていたかのように考えがちだ。しかし、確かに当時は貧乏で悲惨な面もあったが、人々はそれを当たり前と受け入れ、生活の中から笑いや幸せを見つけ、前向きに暮らす面もあっただろう。それは、先に紹介した「炭焼藤太」や上の貧乏神の話、農村劇や農村歌舞伎などの民俗芸能、祭事からもうかがい知れる。それらは、農村の長い歴史の試練を物語るものだ。また、年中行事や集落の祭り、庚申講や観音講などの各種の講を思うと、困窮からくるマイナスの感情を、娯楽や信仰を拠り所として発散していた部分もあったはずだ。特に農閑期となる冬場には、豊穣を祈る神事も多く行われた。そのすべてが、困窮の中を生きる工夫だったのだ。

 

 そうした工夫の結果、個性ある農村の文化が花開いた。そこには、芝居や祭事に打ち込む熱意や、伝統を守り継いできた力が秘められている。また、農民たちがどのような点に幸福の価値を置いていたかを考えると、それは決して物質的な量だけでなかったのは明らかだろう。苦しくとも、着実に日々の暮らしを積み重ねながら、楽しむ時には楽しみ、羽を伸ばす時には伸ばす。振り返ると、人々は同じ時間を共有しながら切磋琢磨し、互いを労りながら何かを作り上げ、伝え続けていくことに重きを置いていたのではないかと思えてくる。それは農村の結束はもちろん、村人同士の精神的な成長にもつながり、自分の子や孫が役を継ぎ、果たしていく姿に幸福を感じる面もあったはずだ。こうした農村文化は、即物的な現代人に〝豊かさ〟とは何かを考えさせ、生き方のヒントを示唆するものではないだろうか。

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