山形で感じる鬼の気配。地名の鬼「其の弐・鬼坂峠」

2023年3月号(221号)
特集|鬼さん、こちら
龍鬼山瀧泉寺、鬼坂峠(鶴岡市坂野下)

妖術をあやつる“鬼”と地蔵が力比べをした伝説が残る峠

新潟と山形県鶴岡市温海町を結ぶ小国街道こと「鬼坂峠」。その鶴岡側の峠口、坂野下地区にある「龍鬼山瀧泉寺」の境内に“鬼坂延命地蔵尊”が祀られている。その昔、どこからともなく鬼が来てこの峠に住みつき鬼が悪さをしていたが、ある時、怪力無双の坊主が現れ、石投げや相撲の勝負で鬼を打ちまかし、退散させた。この坊主こそ峠に祀られた地蔵尊の化身だったという。

かつて峠の鞍部にあった鬼坂延命地蔵堂は、村人たちが総出で瀧泉寺に移築し、もとの跡地には「鬼坂地蔵堂跡」の碑がひっそりと立っている。峠には「鬼清水」と呼ばれる清水跡があり、相撲勝負に敗れて喉の渇きを覚えた鬼が岩を割って、滲みた水を啜ったという伝説がある。今回話を伺った瀧泉寺の住職・伊藤さんによると、その清水のまわりにある岩には、鬼が水を啜った時に付けた爪痕や跪いた痕がいまも残っているのだという。また、鬼清水の近くには安産池と呼ばれる小さなため池があり、安産のご利益で知られた鬼坂延命地蔵尊ならではの習わしとして、年に一度タニシの放生をして子宝を願ったのだそう。だがその池もいまや、厚く積もった枯葉に埋もれている有様だ。

ここで語られている鬼の正体とは、別名「越後の鬼」と恐れられ、奥州の覇権を巡る源氏と安倍氏の抗争「前九年の役・後三年の役」で活躍した黒鳥兵衛だという説も。兵衛は鳥海山で天狗から妖術を習い、越後をねぐらに悪逆の限りを尽くした大悪党だったと説話等には現れている。その悪事を見かねた朝廷は、佐渡に配流されていた源義綱を呼び戻し、討伐に差し向ける。そして最期は義綱に首を刎ねられ、越後で果てたのだという。

伝説では悪党にされている兵衛だが、一方でこんな話も残っている。峠を落ち延びた兵衛は、その後越沢(旧温海町内)の鍛冶屋に宿を得たが、そこで食事の世話や傷の手当など手篤いもてなしを受けた。恩に感じた兵衛はそれに報いるべく、福の神となって同家を護ったのだそう。この話を聞く限り、兵衛がただの悪党だったとも思えない。前九年の役・後三年の役は、中央対地方の対立の構図を内にはらんでおり、東北の内紛に乗じて進出してきた中央に対抗して起ち上がった義勇の士。思うに兵衛は、そうした郷土の英雄だったとも考えられるのだ。

※参考資料:本名荒井webサイト『何とか庵』鬼坂峠の記事より引用、山形新聞社発行「やまがた地名伝説」第1巻、第5巻

鶴岡市田川地区の坂野下側から見た「鬼坂トンネル」。ここから温海地区の菅野代に抜けた先の越沢という集落には、地蔵との勝負に負けて退散した鬼を一晩泊めた鍛冶屋の家系がいまもあるという。
「瀧泉寺」がある坂野下の入口から「鬼坂峠」を望む。ここから少し北にある東目村の入口に「鬼石」と言われる場所があり、そこには地蔵との石投げ勝負で鬼が峠から投げた手形付きの岩が残っているという。
「龍鬼山瀧泉寺」の境内はところどころ雪で埋もれていたが、これでもまだ少ない方だという。坂から向かって左側にあるのが地蔵堂。
地蔵堂の扉上からは見事な一木造りの龍や狛犬が睨みをきかせていた。
地蔵堂の堂内。格天井に描かれた天井画が墨絵のようにも焼印のようにも見え、どこか呪術的な雰囲気。
鬼坂延命地蔵尊の御姿の写し。慈覚大師が湯殿山詣に来た際に像を刻み、峠の頂上に安置したという由緒がある。また後三年の役の際、八幡太郎(源義家)がこの地蔵尊に戦勝祈願したとも伝わる。
御堂の中にはたくさんの子供用の腹巻が奉納されている。これは、安産祈願として御堂から腹巻を1枚持ち帰り、成就したら新しいもう1枚の腹巻とともに2枚奉納するのが習わしで、その風習はいまも続いている。
普段は秘仏として祀られ、年に一度しかご開帳されない「鬼坂延命地蔵尊」。今回特別に拝ませていただいた。なお、村で行われる地蔵尊の祭りは4月29日、寺の例大祭は5月5日(子供の日)となっている。
堂内には紐でぐるぐると巻かれた童子像が祀られている。これは、治したい部位に紐を巻くと病が治癒するという謂れによるもので、巻きが太くなると住職が紐をお焚き上げする。その時だけ白と赤に染まった一対の童子が御姿を現すのだ。

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特集|鬼さん、こちら。

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