だれかの散文

2018.7.2

第3回:大杉漣さんとの想ひ出〈後編〉


漣さんからの電話といえば、昨年8月半ばに「荒井さん、酒田の港座でライヴやれませんか⁈」と第一声。その前年、酒田市希望ホールでのトークショーのために初めて酒田にいらした際、20年以上前に閉館した映画館「港座」に案内したのですが、昔どこにでもあった映画館の風情その儘の建物に惹かれ、次回はバンドを連れてきてライヴをやることを約束してくれたのでした。私は「やりたいのは山々ですが…」と言葉を濁していると「お金の心配はいりません。バンドメンバーの旅費や謝礼はこちらで持ちますから」と漣さん。

訊けば、同年1月からレギュラーに加わっている日本テレビ『ぐるぐるナインティナイン』の「ゴチになります!」コーナーで、19年続く番組史上初の2週連続ピタリ賞という奇跡的快挙を成し遂げ、賞金200万円を獲得。その賞金の中から酒田でのライブにかかる経費を充てますとの事。有難くて涙が出る程の漣さんからの申し出に甘え、2017年10月29日に開催。閉館して20年以上経つ映画館・港座に息吹・活気を与えてくださったのでした。前日、漣さんの音頭でみんなで踊った阿波踊りの熱狂も忘れられません。

 

港座での「大杉漣バンド」演奏(2017年10月29日)

 

また、漣さんには不思議なチカラがありました。2010年10月に鶴岡まちなかキネマでのトークショーに来ていただいた時、羽黒山にお連れしたら国指定の文化財の大杉がありました。立て札を見ると国の指定になったのは1951年9月。そう、漣さんが誕生した時だったのです。その大杉の隣で直立不動になり記念撮影をした漣さんの嬉しそうな顔が忘れられません。漣さん、あなたこそ国の宝です!

2012年8月に米沢シネマステージにゲストでいらした際は、故・伴淳三郎さんが東京から米沢に誘致した「芸能神社」に漣さんと参拝に。漣さんが社に向き合い手を合わせると、階段の隙間から小さな蛇がニョロニョロ出てきて楽しそうに踊りだしたのです。地元ではヤマガジと呼び、正式には“ヤマカガシ”という頸部に頚腺と呼ばれる毒腺を持つ蛇でした。「伴淳さんが喜んでくださっているんですかねえ」と漣さん。蛇は最上段の隙間からスーッと中へ消えていきました。漣さんとご一緒していると不思議に“神がかり”に思えることが起きたのでした。日本テレビ『ぐるぐるナインティナイン「ゴチになります」』で2週連続でピタリ賞を出したことも19年の番組の歴史で初ですから神懸かっていますよね。

 

羽黒山で大杉と国宝「五重塔」に対面(2010年10月10日)

 

米沢市「日本芸能神社」で参拝(2012年8月)

 

“神懸かる”といえば、港座ライブの日程もです。漣さんから電話があった時は「11月にやりませんか⁈」でしたが、11月の漣さんスケジュールと港座の貸し館としての演劇やイベントスケジュールを突き合わせると12月も併せてNG。それでは、10月では?と擦り合わせていったら10月29日に行き着いたのです。

漣さんから港座ライブの申し入れの電話を戴いた時に佐藤広一監督が手掛け、完成間近だったドキュメンタリー映画『世界一と言われた映画館 酒田グリーン・ハウス証言集』のナレーションをお願いして快諾して貰ったのですが、漣さんが酒田に関心を抱くきっかけが実はグリーン・ハウスを世界一の映画館と淀川長治さんに言わしめた支配人 故・佐藤久一さんの存在でした。

 

渋谷映画スタジオにて、ドキュメンタリー映画「世界一と言われた〜」のナレーション録音(2017年9月19日)

 

開局60周年を記念山形放送制作ラジオドキュメンタリードラマ「港町の”幸福な昭和”~映画と恋とフランス料理~」で 漣さんは主人公の佐藤久一さん役とナレーションをやってくださいました。漣さんはこの仕事を通じて、波乱万丈の人生ではあるが、世界一と言われた映画館グリーン・ハウスと日本一と言われたフランス料理店ル・ポット・フーを運営した佐藤久一という人を生み育んだ酒田に強い関心を抱いたのでした。その時から「酒田でバンド・ライブやトーク&上映会をやりたい」と二人で模索調整し続けて、漸く2016年9月16日に酒田市希望ホールでのトークショーに漕ぎ着けたのでした。

 

酒田市「希望ホール」で吉野弘の「祝婚歌」を朗読。高田渡「生活の柄」や加川良「伝道」をギター弾き語る漣さん(2016年12月6日)

 

初めて酒田市に足を踏み入れた漣さんを「土門拳記念館」(ご子息・隼平さんが写真家ゆえ)、久一さん実家が経営していた「初孫」の「東北銘醸」、90歳の現役バ−テンダ−井山計一さん(久一さん友人)の店「ケルン」、そしてグリーン・ハウスの姉妹映画館「港座」にお連れし、希望ホールでのトークショー後に久一さんが手掛けていた「ル・ポット・フー」で庄内の食材を活かしたフランス料理に舌鼓を打ったのでした。短い時間ながら故・佐藤久一さん所縁の場所を廻り、追体験した漣さんでした。

 

「酒田港座」と「土門拳記念館」に初めて訪れた漣さん(2016年12月6日)

 

「港座」に訪れた際、ステージに佇む漣さん。まるで一人芝居をしているよう(2016年12月6日)

 

前置きが長くなりました。港座ライブに決まった10月29日は“酒田大火”の日でした。 酒田大火はグリーン・ハウスが火元となり酒田市の中心部を含め1774棟が焼失。死者1名、被災者約3.300名被害総額は約405億円にも上った1976年10月29日の“酒田大火”からちょうど41年に当る日だったのです。「こんな偶然ってあるの?」と不思議な巡り合わせに漣さんと驚き合いました。酒田の人たちの自慢だったグリーン・ハウスが大火により悲しく忌まわしい記憶の象徴になってしまっていました。

佐藤久一さんは大火当時、グリーン・ハウスの経営から離れて10年以上経っていましたが、酒田市民の複雑な心情を想うと、その日にやっていいものかどうか逡巡されました。しかし、漣さんと港座のスケジュールが合致するのがその日しか無かったので、敢えてやらせて貰ったのでした。

 

港座の2階にある一室で、ライブの前夜に漣さんを囲みながら懇親会(2017年10月28日)

 

結果、港座ライブは、映画最盛期を思わせる超満員の賑わいで、観客だけでなく港座自身が大喜びしているようでした。また、当日は別会場グリーンベイ(グリーン・ハウスへのオマージュで名付け)で漣さんがナレーションを務めた『世界一と言われた映画館 酒田グリーン・ハウス証言集』の関係者試写会が行われており、そちらにも顔を出したのでした。

 

ギター堀尾和孝さん、パーカッション加藤華子さん、ヴァイオリンはカジカさんの豪華な「大杉漣バンド」メンバー(2017年10月29日)

 

港座でのバンド演奏後に開かれたトークショー。

 

接する人すべてをそのしなやかで温かく大きな心で虜にした漣さんは、強い吸引力で人と人を呼び寄せ、素晴らしい企画、イベントを実現させてくれました。かくも不思議なチカラを持っている漣さんなら甦ってくれるのでは と思いたくなります。 漣さんとの最後の会話 はラインでした。 本上まなみさんとの『極上空間』を観た翌2月11日に私が「昨夜の極上空間 拝見しました。正に極上でした!トンカツ、パン 本当に美味そうでした。漣さんと本上さんの会話が珠玉のもの、ご両親のお話に感激!「伝道」沁みました」(最後に漣さんが加川良「伝道」を本上さんにギター弾き語りで聴かせたら、本上さんが感動し涙。)

漣さんから「ありがとうございます! 今は、バイプレイヤーズと相棒の撮影をやっております。相変わらずですね(*☻-☻*)」

この10日後に漣さんは帰らぬ人となったのでした。

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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