だれかの散文

2018.8.15

第5回:皆川睦雄さん 私が憧れた山形が生んだ野球人〈後編〉


皆川睦雄さんは、南海ホークスひと筋に、18年間投手として投げ続け、通算221勝139敗、防御率2.42という輝かしい成績を残した名投手です。

1968(昭和43)年には、31勝10敗(27完投)、防御率1.61という数字を収めている。このシーズンは、デビュー15年目の33歳で、体力的には峠を越していたにもかかわらず、352回1/3を投げる大車輪の活躍を見せている。

2017年シーズンセ・パ両リーグで投球回上位二人の数字と比較してみるとこの年の皆川さんの成績が如何に凄かったのかをご理解戴けると思います。

 

[セ・リーグ]

菅野智之(27才・巨人)17勝5敗(6完投)187.1回 防御率1.59

マイルズ・マイコラス(29才・巨人)14勝8敗(0完投)188回 防御率2.25

[パ・リーグ]

菊池雄星(26才・西武)16勝6敗(6完投)187.2回 防御率1.97

則本昂大(26才・楽天)15勝7敗(8完投)185.2回 防御率2.57

 

先発・中継ぎ・抑えと分業制が確立し、投球数100球を目安とする現在のプロ野球の世界からすると、皆川さんの33才で352回1/3を投げ、27完投、31勝10敗 防御率1.61という数字は驚異的で、ありえない数字と言えます。

 

実は、皆川さん、この1968年8月11日、自身にとって初の20勝がかかった試合で、ホームに滑り込んだ際、捕手とのタッチプレーで、腰に亀裂骨折を負っていたのです。この時南海は、首位の阪急とデッドヒートを演じていて、エースが離脱するわけにはいかなかった。骨折を監督やチームメートに隠し通して、10月11日まで投げ抜いての31勝なのだから立派の一語に尽きます。

プロ野球の歴史で、1965年以降昨年までの52年間で、30勝以上を挙げたのは、この年の皆川投手だけなのだから実に誇らしい。これから先も現れることはないだろう。

 

私は、米沢で生まれ育ち、地元中学・高校で野球選手として活躍し、プロ野球選手として大成した皆川投手の偉大さを事あるごとに口にするようになっていました。「意のあるところに道は通ず」とはよく言ったもので、言い続けて6年ぐらいたった2000年11月に、大阪から久々に米沢にいらした皆川さんに米沢城址苑の内藤文徳社長を通じご紹介戴き、皆川さんと二人で2時間ほどお話をする機会に恵まれたのでした。皆川さんは、180cmのスラリとした長身で、ロマンスグレーのすてきな紳士でした。南海入団の1954年以来大阪住まいのため、話す言葉はすっかり関西弁でした。

皆川さんは、山形県南置賜郡山上村大字関根(現・米沢市)で七人兄弟の末っ子として生まれ、2歳の時に父に先立たれ、貧しい家庭環境の中、家業の運送店を手伝って、小学6年生の時には米俵60キロを担ぐほどになっていたこと、お昼の時間は家庭の事情で弁当を持たされなかったので教室を出て水道の水で腹を満たし外で時間を潰していたことなどを等を明るく話してくださいました。 10歳で野球に出会い、山上中、米沢西高(現米沢興譲館高)と野球に打ち込んだこと、雪の上でのランニングこそが、強靭(きょうじん)な足腰を培ってくれたこと。皆川さんはハンディキャップと思えることを悉く有利な材料に変えてきたのでした。このプラス思考こそが、プロとして超一流まで押し上げた原動力だったのでしょう。

 

皆川さんと南海同期入団の高卒ルーキーの宅和本司が、1年目26勝9敗、防御率1.58、奪三振275で最多奪三振と新人王を獲得。翌年も24勝で2年連続最多勝に輝いている。方や皆川さんは2年間1勝もできないままでいました。2軍暮らしの皆川さんはデーゲームが終わり、寮でぐったり寝床に就いていると夜遅くにナイターを終えた宅和がドンドンと足音を立てて廊下を「ステーキが美味かった!」と独り言とはとれない大声でこれ見よがしに口にしながら歩いて行かれるのが口惜しかったそうです。それでも皆川さんは腐らずに黙々と練習を積んでいました。そんな皆川さんを鶴岡一人監督は見ていてくれたのでした。2年を終え、シーズンオフの契約更改の時、1勝もしていない皆川さんは解雇を覚悟したそうです。ところが鶴岡監督は皆川さんの黙々と努力する姿を認めて給料を倍にしてくれたのだそうです。感激し意気に感じた皆川さんは、遂に3年目に11勝(10敗 防御率2.17)の見事な成績を挙げました。因みに、この年の宅和は6勝に終わり、以降勝ち星はなく通算56勝で引退しています。皆川さんはステップアップし4年目には、18勝10敗(防御率2.36)の好成績を収め真智子夫人と結婚。ところが、シーズン後に肩を壊し、それまでの上手投げから柚木投手コーチのアドバイスで下手投げに転向したのです。皆川さんはそれまで真っ向から投げ下ろす上手投げの本格派投手だったのでした。この転向は成功し、17勝8敗(1.83)と前年と遜色ない成績を挙げました。ブランクを置かずにこの好成績を挙げられたのには血の滲むような努力を重ねたことは想像するに難くありません。ところが、この入団5年目の1958年は、巨人に入団した長嶋茂雄、阪神に入団した本屋敷錦吾と共に立教大学黄金時代を築いた大エース杉浦忠が鳴り物入りで入団し、いきなり27勝12敗の大活躍。皆川さんの下手投げ転向の成功は、すっかり霞んでしまったのでした。

 

皆川さんと同じ下手投げで、同年齢の杉浦は、翌1959年は38勝4敗防御率1.40 奪三振336の驚異的成績で、南海のリーグ優勝に貢献しシーズンMVPに選出され、日本シリーズでは巨人相手に第1戦から第4戦まで血マメをおして4連投し、4連勝の離れ業を演じ、南海を初の日本一に導き、シリーズMVPに輝きました。杉浦は翌年も31勝を挙げているが、若いころの酷使が祟り、皆川さんが平均すると15勝前後の成績をコンスタントに収めたのに比して8年目の1965年からは1度も二けた勝利を挙げることなく1970年34歳で引退。通算成績は皆川さんより34勝少ない187勝106敗に終わっています。

 

皆川さんが高校3年の時、立教大学の練習に参加。砂押監督に誘われましたが、早く家計を助けたい、母親を楽にしたいの想いからプロ入り、それも簡単に帰ってこられない関西の球団・南海ホークスに入団したのでした。皆川さんが、もし、あの時 砂押監督の誘いに乗って立教大学に入学していたら、杉浦とエース争いをして長嶋、本屋敷をバックに投げていたのだろうか?! プロではどうなっていただろうか?と想いは巡ります。 皆川さんは南海で宅和、杉浦、スタンカの後塵を拝し「万年二番手投手」などと言われながらも黙々と努力を続け、33歳で31勝を挙げ、堂々と200勝投手の仲間入りを果たしたのです。

雪国・米沢は、皆川さんに強靭な足腰だけではなく、粘り強い不屈の精神力も授けてくれたのでしょう。

 

米沢で開催されたトークショーの様子(2001年7月20日)

 

2001年7月20日、米沢市民文化会館で「上杉鷹山生誕二百五十年祭・皆川睦雄トークショー」で聞き手を務めさせていただく光栄に浴しました。子供の頃の話から中学・高校時代、南海ホークス時代そして近鉄、阪神、巨人での投手コーチ時代の話、ふるさと米沢への想いなど私を相手に2時間近く淀みなく話してくれたのでした。

後半には皆川さんの1学年下で新庄北高校時代に速球投手として鳴らし日本石油から巨人そして皆川さんのいる南海にトレードで入団しチームメイトの時期があった当時の新庄市長・高橋栄一郎さんもトークに加わりました。高橋市長は皆川さんの前に出ると直立不動になり「皆川先輩は私の恩人です。」というのが精一杯の緊張ぶりでした。

 

そして、最後にはサプライズ演出が待っていました。皆川さんが高校時代は甲子園大会に出場できるのは福島・宮城・山形の南東北3県から1校だけでした。3年時は豪球投手・皆川を擁する米沢西高(現 米沢興譲館高校)が本命。南東北大会1回戦で古川高校、2回戦は福島商業を撃破。決勝前夜は、宿舎で優勝旗を授与される練習をするほど自信に溢れていましたが、その隙をつかれたのか決勝は白石高校に0-4で完敗。甲子園への道は断たれたのでした。

あの1953年夏に甲子園行きの切符を巡って戦った、福島商業と白石高校のキャプテンが会場で皆川さんのトークショーを観賞していたのでした。 最後にそのお二人から壇上に上がってもらい感動の再会。それは実に48年ぶりのことでした。お二人とも異口同音に「南海での皆川さんの活躍を励みにしてこれた。」と仰っていました。

 

旧米沢西高時代のチームメイトとともに、高校野球大会山形県予選で観戦(2001年7月22日)

 

その2日後には、炎天下の上杉スタジアム(現 皆川球場)で夏の高校野球大会山形県予選を一緒に観戦しました。皆川さんと、興譲館高野球部のチームメートとの友情は不変で、その日の観戦も、バッテリーを組んでいた捕手の嶋貫仁一さん、センターで1番打者の武田忠一さんと一緒。試合は、母校の興譲館高対東根工業高。

皆川さんたちは、母校の選手のユニフォームに、50年前の自分たちを重ね合わせていたのではなかったでしょうか。孫のような選手たちを見つめる優しいまなざしと、母校の勝利を喜ぶ無邪気な笑顔が、昨日のことのように思い出されます。

 

その3年7か月後、村山市で『村川透映画祭』を開催中の村山市民文化会館控室で村川監督と談笑しているときに、皆川さんの話題になりました。少年時代に野球少年だった村川監督にとっても1学年上で豪球投手と名を馳せていた米沢西高の皆川投手は憧れだったそうです。その話題の真最中にテレビで皆川さんの死を伝えるテロップが流れ驚いたのでした。

2005年2月6日敗血症により69歳で永眠されました。

皆川睦雄さん、あなたは、われわれ山形の野球少年にとっての夢であり、憧れでした。

 

今から50年前の1968年(昭和43年)、激動のこの年は、野球小僧の私を心ときめかせた日大山形の小山田健一さん、南海ホークスの皆川睦雄さんという山形県出身の2人の野球人が躍動し光り輝いた忘れられない年となったのでした。

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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