だれかの散文

2019.2.23

第10回:長嶋茂雄さんへの想い


我がヒーロー長嶋茂雄
戦後の国民的ヒーロー&スターといえば力道山、長嶋茂雄、三船敏郎、美空ひばり、石原裕次郎、ファイティング原田、王貞治、大鵬、坂本九、渥美清、高倉健・・・名前が挙げられますが、最大のヒーローと言えばやはり長嶋茂雄にとどめを刺します。

 

私の幼少期の1960年頃、蕎麦屋のTVから映し出される読売ジャイアンツ長嶋茂雄選手の躍動する姿に魅せられ、忽ち彼は私のヒーロー!そして私は野球小僧になったのでした。徳光和夫さんが「(1959年代後半から1960年代)サラリーマンは長嶋さんの活躍に元気をもらって明日の仕事の励みにした。謂わば高度経済成長は長嶋さんの功績が大きい」といったことを仰っていましたが全く同感です!
長嶋選手に憧れて、小学2年で野球を始め、同級生や近所の下級生を集めチームを作り4番でエースを気取ったものです。長島の一挙手一投足に注目し、長島が打席で構える時、グリップの位置を下げれば私も下げる。グラブを嵌める左手の人差し指を出していれば、私も出す。巨人が負けても長嶋が打てば満足。ヒットが出なくても守備でファインプレーすれば納得。日々の打率一分一厘、本塁打、打点の動きに一喜一憂する熱狂的 長嶋信者でした。

 

高2の1974年10月14日後楽園球場 対中日戦ダブルヘッダーでの長嶋茂雄引退セレモニーでは号泣。

翌’75年、巨人軍監督就任一年目で最下位になろうが、監督を辞めて“充電中“に東京で開催された 「世界陸上1991」で男子100mで優勝したカール・ルイスに対しレース直後に観客席から「ヘイ!カール」と何度か呼び掛けて強引にツーショットになったことを世間から揶揄されようが、私の”長嶋愛“は一向に薄れることはありませんでした。

1992年10月12日に巨人軍第13代監督として復帰会見を行ったときは快哉を叫びました。

 

長嶋さんにインタビュー前、過去に長嶋さんについて書いた新聞コラムを読んで戴いてる写真。1999年1月9日(高畠町)

 

そんな“ミスター・ジャイアンツ““ミスター・プロ野球“私の永遠のアイドル長嶋茂雄に謁見できる機会が訪れようとは夢にも思いませんでした。

 

1999(平成11)年1月9日キャンプ前の忙しい時に山形県高畠町で講演をやられるという情報を耳にした時、何とかお会いできないか、インタビューできないだろうかと、前年からパーソナリティを務めていた山形放送ラジオ「なつメロリクエスト電話でこんばんは!」のディレクターにダメ元で話してみた処、なんとその大それた願いが叶えられることになったのでした。

分刻みのスケジュールの長嶋監督とのインタビューに与えられた時間は5分。それでもお会いできるだけで嬉しいので十二分な時間でした。

 

いよいよ長嶋さんが部屋に入ってこられる。後光がさすとは正にこのこと。半端ないオーラ。ご挨拶をして隣に座らせてもらう。夢心地で天にも昇る気分。舞い上がりながらも、幼い頃から如何に長嶋さんのことが好きで憧れてきたのかを理解してもらうために、これまで購読した長嶋茂雄本、長嶋さんが表紙を飾った雑誌、新聞記事等を机に拡げて「私が生まれたのは昭和32年11月23日。それは長嶋監監督が立教大学4年の最終試合で東京六大学新記録(当時)の8号本塁打を打った昭和32年11月3日の20日後、そして読売ジャイアンツ入団発表した12月7日の2週間前なんです。」と一方的に深い縁をアピール。

 

念願のツーショットなのにややピンボケなのが口惜しいのです。

 

客観的には「だからどうした?」と言われかねないことですが「へえ、あなた、良く勉強してますねえ!」とお褒めの言葉を戴き、それからは、プロ野球選手としてのデビュー戦。3番サードで先発出場した1958年(昭和33年)4月5日、国鉄スワローズとの試合でエース金田正一投手から4打席4三振を喫した話に水を向けると、金田投手の球がそれまで見たことがない速さで、カーブが如何に大きく鋭く曲がったか、それでも恐れずフルスイングで向かっていったこと。そして次の試合では打ち崩したことを話をしてくださる。

 

当時金田投手はプロ入り8年間で通算182勝、7年連続20勝を挙げる大エース。特にこの年は、シーズン通算31勝14敗、防御率1.30、311奪三振で投手三冠を独占した絶好調の年。シーズン通算でも11三振、1割7分9厘に抑え込まれましたが翌年は3割3分と打ち込み、3年目には1個の三振も許さなくなったのは流石でした。続いて入団2年目の1959年(昭和34年)6月25日、後楽園球場での阪神タイガースとの天覧試合(昭和天皇と香淳皇后が後楽園球場のバックネット裏貴賓席で観戦)の話を伺いました。

あの試合は、長嶋さんにとっては「日本プロ野球史上最高の試合」として位置づけられていたようです。長嶋選手の9回裏の本塁打で巨人が5対4でサヨナラ勝利を収めたのですが、長嶋さんは「8対7でサヨナラ勝ち」と仰る。恐らく野球を愛した第32代アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが1937年1月に、ニューヨーク・タイムズの記者に宛てた手紙の末尾に「ベースボールで一番おもしろいゲームスコアは、8対7だ」と記したことから、抜きつ抜かれず、逆転また逆転の末8対7で決着が付いた試合を「ルーズベルト・ゲーム」と呼ぶようになったことに起因しているのでは?!

 

2014年には池井戸潤原作でTBSが同名でドラマ化したのは記憶に新しい処ですが、長嶋監督にも“8対7の試合が最高”と刷り込まれていて、あの1959年の天覧試合は8対7でなければいけなかったのだと思います。考えてみればこの試合、本塁打を長嶋選手が2本、高卒新人の王貞治選手と坂崎一彦選手がそれぞれ1本づつで計4本を巨人選手が打っているので、8点ぐらい取っていると考えるのも無理からぬところですが、王選手は2ランですが、長嶋選手の2本、坂崎選手の1本はソロ本塁打で計5得点だったのでした。

 

私にとって長嶋監督は“神”なのでそんな事実を提示できるはずもなく、8対7というスコアに沿いながら話を伺ったのでした。そういえば亜希子夫人との出会いのエピソードでも、1964年10月、報知新聞社の「ON五輪をゆく」という企画で東京オリンピックのコンパニオン数人と対談をした際に、その中の一人西村(旧姓)亜希子さんに一目ぼれして交際を申し込み、同年11月26日に婚約。翌1965年1月26日に結婚したのでしたが、長嶋さんは「昭和38年の東京オリンピック」と仰り、これも昭和39年などと正すことはできず有難く話を伺ったのでした。長嶋さんにとってそういったことは枝葉末節でどうでもいいことなんでしょうね。その大らかさもまた魅力です。

 

インタビュー前に長嶋さんの前に拡げた長嶋さんが表紙を飾った雑誌。

 

5分のはずだったインタビュー時間は30分を超過し、当時の小俣マネージャーにきつく叱られたことは言うまでもありませんが、私は長嶋さんと親しく話ができたことが只々嬉しいだけでした。実際、長嶋監督が熱く語ってくださる腰を折って「時間ですので」なんて言えませんよね。小俣さん、申し訳ありませんでした。このインタビューは山形放送ラジオ「なつメロリクエスト電話でこんばんは!」に於いてでしたので、監督から歌のリクエストも戴きました。曲はフランク永井「有楽町で逢いましょう」。これは長嶋監督が東京6大学新記録8号本塁打を打ち、読売ジャイアンツと入団契約を交わした頃に大ヒットしていた曲でした。

 

同じく 長嶋茂雄本と新聞記事。

 

2000年には、FAで広島から獲得した江藤智に背番号「33」を譲り、長嶋監督は現役時代の背番号「3」を再び付けて下さり、私は狂喜しました。この年はペナントレース優勝、そして日本シリーズで、王貞治監督率いる福岡ダイエーホークスと「ON対決」で大いに盛り上がった日本シリーズを4勝2敗で制し日本一に! 

 

2001年、巨人はペナントレース2位に終わりこの年で監督業から勇退し後任を原辰徳ヘッドコーチに譲り、終身名誉監督に就任したのでした。

 

2002年12月、アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。 2003年11月に行われたアジア選手権で中国、台湾、韓国に勝利して優勝し、オリンピック出場が決定しましたが2004年3月4日、脳梗塞で倒れ入院。一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出るようになりました。

長嶋監督の代理としてヘッドコーチの中畑清がチームの指揮を執りましたが、結果は3位に終わったのは無念でした。長嶋監督は、リハビリとして過酷なトレーニングを重ね2005年7月3日、東京ドームの巨人対広島戦を観戦。病気で倒れてから約1年4ヶ月ぶりに公の場に姿を現し、その姿に涙したものです。

この年11月3日、スポーツ振興部門で平成17年度文化功労者に選ばれました。 過酷なリハビリの様子は何度かテレビのドキュメンタリー番組で放送されました。あの戦後を代表するスターの長嶋さんが、苦悶しながら必死にトレーニングする姿を隠すことなく見せたことに驚愕、そして大きな感動を覚えました。リハビリの甲斐あってか、アテネオリンピックの代表選手達を中心に2005年から始めた「長嶋茂雄ドリームプロジェクト」にも特別ゲストとしての参加が可能となり、子ども達への野球指導を行うまでに回復。

 

2013年4月16日、国民栄誉賞を愛弟子・松井秀喜と同時受賞。私は「国民栄誉賞」は長嶋さんが最初に受賞すべきだったと思い、他の受賞者が出るたびに浪曲「森の石松三十石舟道中」のようにテレビに映るその時々の総理大臣に向かって「誰か忘れちゃあいませんかってんだ!!」と叫び、忸怩たる思いでいましたが、「ようやく」と安堵したのでした。 

此のところ長嶋さんのお顔を拝見していないと思っていたら、昨年7月に胆石で長期入院していたのでした。巨人の山口寿一オーナーによると昨年末に退院し、自宅でリハビリ、トレーニングをしているとのこと。

 

戦後の日本を太陽のように照らし続けてきた長嶋茂雄さんは2月20日で83歳になりましたが、まだまだ照らし続けてもらわねばなりません。2007年9月、亜希子夫人に先立たれましたが、亜希子さんと出会った東京オリンピックから55年後の来年 再び開催される東京オリンピックで最終聖火ランナーとして聖火に笑顔で点火する長嶋さんの姿を夢想し、現実のものとなることを願っております。

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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