だれかの散文

2019.4.17

第12回:野口久光さんの想ひ出


山形美術館で《野口久光シネマ・グラフィックス》が、4月6日(土)から5月12日(日)まで開催中。

 

野口久光さんは、1909年8月9日、栃木県宇都宮市生まれ。1933年、東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業後、東和商事(現・東宝東和)に入社、映画ポスターデザインなど主に欧州映画の宣伝に従事。『天井桟敷の人々』『第三の男』『禁じられた遊び』『大人は判ってくれない』など、戦後の欧州映画のポスターを芸術性豊かに1,000枚以上描いています。野口さんの映画ポスターは、豊かな表現力で描かれた絵はもちろんのこと、タイトル文字や俳優の名前に至るまで全て手描きで、作品の雰囲気、内容を的確に表現した「一枚の絵画」としての魅力に溢れ高く評価されています。

 

山形市大手町、当時の映画館「フォーラム」隣の喫茶店「サブリナ」前で、ビデオカメラで撮影する野口さん。1991年3月4日

 

特に1960年『大人は判ってくれない』日本公開の際に描いたポスターは監督のフランソワ・トリュフォーが絶賛、野口さんに「素晴しいポスターを描いてくれて、ありがとう!」との謝辞を寄せました。その後来日したトリュフォーと対面した野口さんが『大人は判ってくれない』のポスターの原画を贈呈すると、感激したトリュフォーは、1962年制作のオムニバス映画『二十歳の恋』の中の「アントワーヌとコレット」の中の印象的な小道具としてこのポスターを登場させています。生涯このポスターを愛したトリュフォーは、1984年に亡くなるまで自分のプロダクション事務所にこの原画を額に入れ大切に飾っていました。

トリュフォーが亡くなった後、フランスで出版された追悼本の表紙を飾ったのも野口作品でした。現在フランス、パリのシネマテーク・フランセーズにも多くの野口作品が永久保存されています。

 

「生誕100年記念 グラフィックデザイナー野口久光の世界」展の図録。2009年11月

 

映画ポスターだけでなくレコードジャケットのデザインや、雑誌・ミステリー本などの装丁デザインなども幅広く手がけ、わが国のグラフィック界に多大な影響を与えました。また戦前から映画評論のみならず音楽評論にも健筆をふるい、ジャズ、ミュージカルの分野でも第一人者として活躍。映画評論の世界では同世代の淀川長治さん、双葉十三郎さんと“三羽烏”と称されました。日本のオリジナルミュージカルの発掘にも尽力され、「ふるさときゃらばん」の名誉応援団長も務めました。1978年、永年の文化活動により紫綬褒章、1983年には勲四等・旭日小綬章を受勲。また日米ジャズ、ミュージカルの橋渡し役の貢献からニューオリンズ名誉市民、ルイジアナ州クローリー名誉市民にも選出されました。生涯現役を貫き1994年6月13日84歳で永眠。

 

山形駅前JAZZ喫茶「OCTET」前で。1991年3月4日(左から野口さん、相澤さん、筆者)

 

これだけ偉大な業績を残された野口久光さんですが、こういったことを顕示、誇示することを極力嫌い“純粋に良いものを伝えたい。頑張っている人たちを応援したい”の想いで活動されていたのでした。

かくいう私も、恥ずかしながら野口さんのことを30過ぎまで知らずにおりました。そんな私に野口久光さんのことを教え、紹介して下さったのは山形駅前のJAZZ喫茶「OCTET」のマスター相澤栄さんでした。1990年暮れに相澤さんから野口さんの話を訊けば訊くほど、翌年10月に開催を控えた第2回の『山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)’91』プレイベントで講演をして戴きたいという想いが募りました。YIDFFボランティアネットワーク企画・主催イベントとしての合意を得て、相澤さんを通じ野口さんに依頼したら快諾戴き、具体的な打ち合わせを、野口さん指定の上野のJAZZ喫茶で’91年1月中旬にお会いしたのでした。話が弾み、近くのとんかつ屋でとんかつまで御馳走になってしまいました。勿論、野口さんとの初対面は相澤さんにもお付き合い戴いたのでした。

 

山形市遊学館ホールにて「山形国際ドキュメンタリー映画祭’91 プレイベント」1991年3月4日

 

そして3月4日山形県生涯学習センター「遊学館」ホールで「映画の原点、表現力を考える」をテーマに、私を訊き手にお話し下さりました。「リリアン・ギッシュが数年前、『映画はサイレントが一番』と言っているが私もやはりサイレントが一番芸術として優れていると思う。映画は映像で語るべきで、トーキーになってから喋り過ぎる」と語られたのが印象的でした。後半は、ヴィクトル・シェストレム監督による1928年公開のリリアン・ギッシュ主演のサイレント映画の傑作『風』を上映。英国のオーケストラが演奏した音楽を同期させての上映という我が国初の試みを野口さんの提案で敢行。鑑賞後に野口さんから解説戴きました。なお、この時、相澤さんを通じて野口さんにいらして戴いたのですが、相澤さんは、野口さんを岩手県一関市でJAZZ喫茶「BASIE」を営む菅原正二さんからご紹介戴いたこともあり、菅原さんを通して依頼。当日は菅原さんも会場に駆けつけて下さるという義理人情の世界を垣間見せられました。

因みにこの菅原さんは、タモリが2014年10月から1年間出演した日曜夜のトークバラエティ番組『ヨルタモリ』で演じたキャラクター(岩手でJAZZバーを営む吉原)のモデルとなるほど有名な方です。

 

野口久光さん直筆の1991年3月4日 山形講演のプログラム

 

野口さんは、それから11日後の3月15日に再び山形へいらっしゃいました。当時「KING of JAZZ」と言われたベニー・カーターがビッグバンド(ベニー・カーター&ヒズ・オーケストラ)を率いて山形県民会館でコンサートをやった際、カーターと長年の友人である野口さんが全国8か所をMCとして同行。前夜は菅原さんがいる岩手県一関でコンサートをやってからの山形入りでした。野口さんは私を楽屋に招き入れ、ベニー・カーターに丁寧に紹介して下さったのでした。ベニー83歳、野口さん81歳の時でした。お二人との3ショット写真を大事に仕舞い過ぎて見つけられないのは残念無念です。

 

1991年ベニー・カーター来日公演パンフレットの、野口さん直筆メッセージ。表紙にはベニー・カーターのサインが。1991年3月15日の山形公演にて

 

野口さんには、この翌年1992年7月19日にも当時、私が勤務していた映画館フォーラムで開校した「フォーラム映画学校」第1回講座の講師として再びいらして戴き、またも私を訊き手にジョルジュ・メリエス監督『月世界旅行』(1902)を上映し、トークをして下さいました。当時82歳の野口さんが開通したての山形新幹線からフレッド・アステアのように軽やかなステップで降り立ち、頭の中折れハットを軽く上げて「ヤア!新幹線、故障しなかったよ(開通当時の山形新幹線はトラブル続きだったことから)」

出迎えた私に、小脇に抱えた‘フランスパン’と近所の荒物屋で買ったという‘ヘチマたわし’を手土産に下さったのでした。「このヘチマたわしはリリアン・ギッシュへの贈り物を段ボールに入れて送る際に隙間を埋めるのにちょうど良くて詰めるんだけど、ギッシュは、身体を心地よく洗えると喜んでくれるんだよ」と仰るので、私もこのヘチマたわしで身体を擦ってみたら痛くて堪ったものではありませんでした(苦笑)。

 

「フォーラム映画学校」開講前、フォーラム事務室で談笑する野口久光さんと筆者。1992年7月19日

 

「フォーラム映画学校」看板

 

「フォーラム映画学校」で講演する野口久光さん

 

「フォーラム映画学校」にて、当時の山形市大手町にあった「フォーラムII」スクリーン前で。1992年7月19日

 

因みにリリアン・ギッシュは当時98歳で翌‘93年2月27日に99歳で永眠しています。ギッシュは名匠W・D・グリフィス監督の『国民の創世』(1915)でヒロインを演じ、続く『イントレランス』(’16)では揺りかごを揺らす女という、各エピソードをつなぐ重要な役柄を演じ、その後も『散り行く花』(’19)、『東への道』(’20)などでヒロインを演じ、グリフィスの全盛期を支えました。70年後の1987年公開の『八月の鯨』(リンゼイ・アンダーソン監督)では、撮影時93歳とは思えない若々しい姿で瑞々しい演技を披露したハリウッドのレジェンドです。

このギッシュと親しかった野口さんはやはり只者ではありません。私に、「ギッシュの『散りゆく花』も山形で上映しようよ。フィルムは私が用意してまたお話するから」と有難いご提案を戴いたのですが、実現できないまま亡くなってしまったことが残念でなりません。

 

このように野口さんは、誰に対しても気さくでフラットな人でした。講座前の待ち時間にフォーラム事務所で実行委員と談笑していると、目の前にある団扇の片面に小鳥、もう片面に鳥籠を描いて、取手をクルクル回して絵を動かし楽しませてくれました。

 

団扇の片面に小鳥を描く

 

団扇の片面に小鳥の籠を描く

 

団扇をクルクル回しアニメーションに

 

野口さんが描いた「ふたり」のポスターを前に照れる野口さん

 

当時、野口さんは大林宣彦監督たっての希望で『ふたり』(’91)、『青春デンデケデケデケ』(’92)、『はるかノスタルジィ』(’93)のポスター原画を久しぶりに描かれていました。野口さんの前に『ふたり』のポスターを掲げると照れて手で顔を覆ってしまったのも野口さんらしい場面でした。

その2年後に訃報が届いた時の悲しみの深さは、計り知れないものがありました。

 

野口さんの葬儀では、かつて野口さんと共に映画評論の世界で“三羽烏”と呼ばれた、お仲間の淀川長治さんと二葉十三郎さんが斎場入口で参列者をお出迎え。会場内には野口さんが描かれた映画人やJAZZマンの絵が展示され、司会は和田誠さん。また、タモリさん、上条恒彦さん、宝塚歌劇団員はじめ映画、JAZZ・音楽、演劇・ミュージカルの世界の人たちが沢山参列。野口さんの交友関係の幅の広さが伺えました。

 

野口久光さん葬儀場前で筆者。1994年6月16日

 

野口さんの葬儀場前でお出迎えの淀川長治さん、双葉十三郎さん

 

葬儀後、野口さんが眠る棺を、会場入り口階段に並んだJAZZバンドによる「聖者の行進」の演奏で送ったのでした。それは野口さんが日本公開に尽力し、字幕翻訳もされたJAZZドキュメンタリー映画の名作『真夏の夜のジャズ』でデキシー&ジャズバンドが「聖者の行進」を演奏しながら狂言廻しのように度々登場することからの、野口久光さんを送るに相応しい粋な演出でした。

 

葬儀場の壁面に展示された、野口さんが描いたハリウッド女優の顔

 

野口さんの祭壇

 

ジャズバンドが演奏する「聖者の行進」で送られる野口久光さんの棺

 

2011年11月放送の『開運!なんでも鑑定団』で、根本隆一郎さんが 野口久光さんの油絵とデッサン26枚を鑑定依頼したところ、1,300万円の値が付いていました。野口さんがフォーラム事務室で小鳥を両面に描いたあの団扇は何処にいったのだろう?などと目が血走った私でした(笑)。

番組での鑑定依頼人である根本さんの紹介は、“子供の頃から映画が大好きだった根本さんは名画座に通うのが日課だった。この頃から映画館に張ってあったポスターを集め始めるが、後にそのポスターを描いていたのが野口久光だと知りファンになる。映像関係の仕事に就いた根本さんは、野口さんと知り合う機会があり家族ぐるみでの交流が始まる。お宝は、野口さんが亡くなり、その功績を後世に伝えたいと自分のポスターコレクションで展示会を企画した際に、遺族に相談したところ頂いた物”とありました。

 

野口久光さんが92年4月に小包で送って下さった著書「素晴らしきかな映画」表紙が野口さんが描いた若き日のリリアン・ギッシュ

 

その表紙を開くと献辞が書かれてあり、ギッシュのお葉書が挟んであり、それにも献辞を書いてくださった

 

野口さんが筆者に書籍を送ってくれた包みの宛名書き。郵便番号枠もすべて手書き。

 

《野口久光シネマ・グラフィックス》の監修をしているのは、この根本さんなのです。「野口が手がけた公開当時のポスター、直筆による映画スターのポートレート、書籍・雑誌など装丁デザインのほか、屈指のジャズ評論家としても名を馳せた野口がデザインしたジャズのレコードジャケットや演奏家 (ジャズジャイアント)の肖像など約400点に及ぶ作品・資料のほか、戦前・戦後間もない頃の貴重な映像資料も展示し、野口久光の魅力をたっぷりとご紹介しております。東北では初の展覧会であり、輝きを失わない野口久光の情感豊かなグラフィックデザインの世界でした」と記されています。

 

山形美術館「生誕110周年 野口久光 シネマ・グラフィックス」展のフライヤー

 

展示会関連企画の「禁じられた遊び」の上映会は「フォーラム山形」で4月19日から25日まで

 

今年は野口久光さん生誕110年。永眠されて四半世紀の記念すべき年に展覧会の接し、改めて野口久光さんの偉大さを再認識し、今更ながら、その野口さんと短期間ではありますが親しくさせて戴いた幸せを噛み締めております。そういう意味ではご紹介くださった相澤栄さん、菅原正二さんにも感謝の想いで一杯です。

粋で洒脱で心優しきモダンボーイ野口久光さんの“仕事”の一部ですが、野口さんの映画愛・JAZZ愛・人間愛に満ちた世界にどっぷりと浸かって下さい。

山形美術館では5月12日(日)まで開催しています。

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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