だれかの散文

2019.9.15

第17回:小川紳介監督と山形国際ドキュメンタリー映画祭


今年も《山形国際ドキュメンタリー映画祭2019(以下YIDFF)》が、10月10日〜17日に開催されます。1989年から始まり、隔年開催のYIDFFは早いもので30周年16回目を迎えます。

 

成り立ちは、山形市市制施行100周年記念イベントの一つとして企画されたものでした。NHK山形放送局記者を振り出しに、山形放送、山形テレビで要職を歴任し、同年開局のFM山形の社長に就任した田中哲さん(故人)は劇作家でもあり、当時の金澤山形市長とも親しく、芸術文化団体でも長年役員を務めていました。そして、上山市牧野に移り住み、地域に根差して映画作りをしていた世界的ドキュメンタリー作家・小川紳介監督(1935年6月25日 – 1992年2月7日)と昵懇にされていました。その田中さんと小川監督の提唱で、アジアで初の長編ドキュメンタリー映画のフェスティバル・YIDFFを行うことが決まったのでした。

 

第1回の映画祭にて、小川監督(左)や海外ゲストの皆さんと。中央は故 ヨリス・イベンス監督の妻ロリダンさん。1989年10月

 

山形市三日町の枡谷秀一さん宅で、映画祭前のボランティア会議の様子。

 

当時、私は地元銀行を退職し、県内各地で巡回上映をする山形県映画センター(以下 映画C)のスタッフとして働いて3年目でした。1987年1月から映画Cスタッフとなり、上映運動をする初の作品が小川紳介監督『1000年刻みの日時計 牧野村物語』という3時間42分の長尺なドキュメンタリー映画でした。小川監督率いる小川プロスタッフが牧野で稲づくりをしながら、撮影する中で、村に伝わる農民一揆、老婆の昔語りなどを基にした劇中劇で、縄文土器を発掘したりと盛り沢山なもの。

 

私は映画好きでは人後に落ちない自信がありましたが、成田空港建設反対の農民闘争を追った『三里塚シリーズ』などで日本ドキュメンタリー映画界の巨人として海外でも高く評価されていた小川監督のことを恥ずかしながら知らずにいたのでした。

ですから山形市中央公民館での初対面では、“甲高い声でよく喋る太ったおじさん”くらいにしか思っておらず、『〜牧野村物語』の時間が長過ぎると感じていた私は「監督、稲づくりの・・・のシーンをもう少し削れるんじゃないの」なんて生意気なことを平気で口にしたのでした。いま思うと、無知とは言え、自分の傍若無人な振舞いに背筋がゾッとします。映画Cの上映会は、地域の人たちと一緒に作り上げる実行委員会方式。従って、小川監督に同行戴くときもしばしばあり、親しくお付き合いさせて頂くようになったのでした。

 

1989年1月、元号が平成になったばかりの頃、小川監督が映画Cを訪ねてきたのでした。そして私と職場の先輩・高橋卓也さんの2人にYIDFFの構想を話してくださり、私たちが県内各地で接している「映画の仲間たちをボランティアスタッフとして誘ってくれないか」というものでした。ちょうど、その数日前の1月7日・8日と、昭和と平成に跨がって県内の自主上映団体を集めて《山形県映画愛好者学習交流会》を村山市碁点温泉クアハウスで映画C主催で開催したばかりでした。前年に自作『TOMORROW 明日』が公開され沢山の映画賞を受賞した、黒木和雄監督(1930年11月10日〜2006年4月12日)をゲストに招いてシンポジウムと交流会。因みに黒木監督は岩波映画社時代に小川監督の先輩に当たる監督ということも何かの縁を感じました。この時の交流会が後のYIDFFボランティア・ネットワークの礎となったのでした。

 

同年4月17日に山形霞城公民館に山形の映画愛好者を集め、小川監督、田中哲さん、山形市役所の担当職員 伊藤光一郎さん、富田博さんと山形市で開催するアジア初のドキュメンタリー映画祭とは? 市民は何ができるか?どう盛り上げるのか?等々が話しあわれました。その後、高橋卓也さんと私は県内各地の自主上映の仲間たちに声がけして映画祭に関心を持ってもらい、参加してもらえるような働きかけ活動を始めました。

 

江南公民館「毛沢東からモーツァルト」上映。右から荒井、髙橋卓也さん、渡辺えりさん、山形市職員の富田博さん。1989年2月21日

 

その一環で、ドキュメンタリー映画の「難しい、重い、退屈」という固定観念を払拭すべく世界的バイオリニスト、アイザック・スターンの文化大革命後の中国演奏旅行のドキュメンタリー映画『毛沢東からモーツァルトへ』(’80)と、自らゲイを公言し、社会的弱者の権利獲得を訴えたサンフランシスコ市政執行委員ハーベイ・ミルクの活動を、1978年に同じ執行委員の男に暗殺された事件を中心に追った『ハーヴェイ・ミルク』(’84)という2作品を各地で上映して廻ったのでした。

 

YIDFFボランティアネットワーク発会式。

 

右から田中哲さん、小川紳介監督、スティーブン・テオ監督、木村ゆう子さん、伊藤光一郎さん、富田博さん。

 

次第にドキュメンタリー映画祭への関心が高まってきた7月29・30日、蔵王温泉で【山形国際ドキュメンタリー映画祭 ボランティア・ネットワーク総会】を一泊2日で開催。初日夜は宿泊ホテル「蔵王サンハイム」の外壁にスクリーンを張り、加藤泰監督『ざ・鬼太鼓座』(’81)を上映。そして懇親会。

 

YIDFFデイリーニュース編集部にて。

 

2日目は午前中、小川監督を中心にボランティアが映画祭でやるべきことを協議。その中で、小川監督が、国際映画祭にこれまで参加した経験からクオリティの高い「デイリー・ニュース」の必要性を訴え、そして、審査員が選ぶグランプリや優秀賞より市民から選ばれた賞が監督は嬉しいもの。ということで「市民賞」運営と「ディリーニュース」編集・発行を、ボランティア・ネットワークで担当することになったのでした。因みに、この時、高橋さんと私は小川監督から戴いた《ハワイ国際映画祭》のTシャツを着て臨みました。

 

YIDFFボランティアネットワーク総会の担当者会議にて。右から髙橋さんと荒井。

 

《ハワイ国際映画祭》のTシャツを着て会議にのぞんだ。

 

広報活動にもチカラを入れ、YIDFFプレイベントとして8月23日には山形市薬師公園で野外上映会を企画。インターナショナル・コンペティション応募作品、トリニダード・トバコを舞台にしたドキュメンタリー映画『イ短調のパン』とS.スピルバーグ監督『未知との遭遇』を上映。

 

私は、5月から作品の予備選考にも参加していたのですが、インターナショナル・コンペティション部門出品条件が当時“60分以上の長編ドキュメンタリー映画”だったために、長さが足りず選考から漏れてしまった『イ短調のパン』を残念に思っていました。トリニダード&トバゴで生まれたドラム缶から作られる音階のある打楽器スティール・パンで奏でる音楽がゴキゲンな字幕なしでも楽しめる映画なので、野外上映には打ってつけと思い上映作品として提案。それは、映画祭の実行委員長となった田中哲さんの職場FM山形社長室でのことでした。『未知との遭遇』は誰しもが知り、野外上映にピッタリとの理由からのものでした。当日は小雨模様でしたが、盛況のうちに終えることができました。

 

アズ七日町前で映画祭PR活動のDJ。

 

第1回「日本一の芋煮会フェスティバル」でPR活動。

 

「日本一の芋煮会フェスティバル」会場の馬見ヶ崎川河川敷にて会場の人たちにむけてPR活動。

 

また、七日町歩行者天国の日曜日にはYIDFF主会場となるAZ七日町中央公民館前にでFM電波を飛ばしてのディスクジョッキーもやりました。お相手は当時ボランティアネットワークに深く関わっていた劇団BQ倉庫から本石ひとみさん。

 

仮装行列パレードでの映画祭PR活動。

 

ラウドスピーカーとマイクを手にパレードを随行する荒井。

 

山形市制施行100周年の一環で、YIDFFの他にも「世界おみやげ博」など沢山のイベントが行われましたが「花笠祭り」にとって代わられていた「仮装行列パレード」が27年ぶりに本町〜七日町通りで復活。そこに「YIDFFボランティアネットワーク 」が大正時代風の舞踏会の衣装をBQ倉庫から借りて参加。私はラウドスピーカーとマイクを手に随行しながらアジテーション。そして9月1日には第1回目の『日本一の芋煮フェスティバル』会場の馬見ヶ崎河畔でもチラシ配りやPR映像を数台の大型テレビで放映。

 

連日、ボランティアメンバーが集い会議を行った。山形市三日町の枡谷秀一さん宅にて。

 

海外から参加する監督を出迎え。山形空港にて。

 

そして、1989年10月10日〜15日、アジアで初の長編ドキュメンタリー映画祭《山形国際ドキュメンタリー映画祭1989》が幕を開けたのでした。

 

メインは[インターナショナル・コンペティション]で世界中から応募があった中から15作品を上映し、最高賞、優秀賞、そして市民賞などを与えるもの。最高賞は小川監督の提案で、『極北のナヌーク』『アラン』等で“ドキュメンタリー映画の父”と謳われたロバート・フラハティ監督の名前を冠し「ロバート・フラハティ賞」と名付けられましたが、映画祭直前になり、来日するフラハティの娘ナンシーさんから「父の仕事の大きな支えとなった母の名前も冠して欲しい」の要望があり「ロバート&フランシス・フラハティ賞」となったのでした。また優秀賞は「山形市長賞」となりました。

 

山形国際ドキュメンタリー映画祭の準備期間中に配布された、映画祭通信Vol.1

 

第1回となる山形国際ドキュメンタリー映画祭1989のヴィジュアル・ブックレット。

 

提唱者でありYIDFFの父でもある小川紳介監督は、「日本以外のアジア諸国で作られるドキュメンタリー映画は文化映画か国策映画だけ。劇映画とドキュメンタリー映画が車の両輪として機能しなければ健全な国家とは言えない。ほかのアジア諸国でも自由にドキュメンタリー映画が作れるように YIDFFが交流の場になればいい。アジアのドキュメンタリー作家たちのチカラになればいい。」という強い想いを抱いていました。

 

実際、インターナショナル・コンペ15作品全て欧米の作品。唯一『家族写真』だけがイギリスと日本の合作でした。小川監督のアジアへの想いが強く表れた企画が「アジアの映画作家は発言する!」でした。中央公民館4階大会議室で行われたこのシンポジウムは、小川監督がコーディネーターとなり、フィリピン、タイ、中国、台湾、マレーシア、韓国、日本の映画作家がパネリストとなり意見を交わし合うというもの。この中で中国からは、陳凱歌(チェンカイコー)、田荘荘(ティエンチャンチャン)という今や世界的に有名になった二人の監督が参加予定でした。

 

ティーチ・イン「アジアの映画作家は発言する」シンポジウムの様子。

 

ところが、この年6月3日夜から4日未明にかけて、中国の多数の学生や市民が北京の天安門広場で民主化を求める大規模なデモを起こしたが、中国当局が軍を投入して運動を制圧し多数の犠牲者を出した「天安門事件」の影響で二人は来日できませんでした。(現在、香港で起きている民主化運動によるデモを見ていると30年前と同じ轍を踏んで欲しくないと願わずにおれません。)

 

しかし、小川監督は、シンポジウムでの二人の席は空席、名前が書かれた紙もそのままにしてあったので、参加出来なかった事実がより強く浮き彫りになりました。この二人の監督不参加は小川監督並びに事務局はかなり早い段階には把握していましたが、我々は知らされていませんでした。

私の東根市の映画仲間・仙道隆さんが日中友好協会を動かして、YIDFF終了後に陳凱歌監督を東根市に招き、監督作『黄色い大地』(’84)を上映して陳監督から話を伺うという企画を進めていました。それが開催間際になってから知らされたのですから溜まったものではありません。

 

私は「何故、早くに知らせてもらえなかったのか?」という抗議の想いもあり、上山市牧野の小川プロを訪れたのでした。掘り炬燵の上座に小川監督、私はその斜め右隣に座り、小川監督と私の周囲を小川プロスタッフが正座して囲むという状況で2時間激論を交わしたのでした。小川監督は「全世界に天安門事件の理不尽さをアピールするため」と主張されましたが、私は地元の人たちを動かしていた仙道さんの想いを考えると納得できませんでした。

 

翌日、東根市で、当時小川プロで研修をしていたマレーシアのスティーブン・テオ監督と小川監督が参加してのイベントでもご一緒したのですが、小川プロ飯塚俊夫助監督から「荒井君、昨日はやり過ぎだよ。小川さん、今日 起きられなかったんだぞ!」と言われ、反省したものでした。

 

「アジアの映画作家は発言する!」は英語と日本語の同時通訳のイヤホンを耳にして参加したのですが、「アジア特集」で上映した韓国「光州事件」を描いた『五月 夢の国』脚本家の孔水昌(コンスチャン)さんから「どうしてアジアの映画作家の討論会なのに英語なんだ!」とシンポジウムが始まった途端に抗議が飛び出したのです。前に座ったパネリストや、フィリピン、タイ、マレーシア、台湾の映画人たちは英語が理解できたので同通イヤホンを耳にして事足りたのですが、孔さんだけは英語を解せず隣に通訳の青木謙介さんが座り、耳元での通訳を必要としていたのでした。私は、英語の同通に何の疑問も持っていませんでしたが、言われてみれば孔さんの主張は至極真っ当なことでした。

 

「市民賞」審査会の様子。1989 年10月

 

私が担当した「市民賞」の審査員は8名。皆公募に申し込んできた人たちばかり。インターナショナル・コンペティション作品15本を全て開催期間中に観ることが条件で、最終日に審査会を開き、投票によって決めるというもの。これが、チリのイグナシオ・アゲーロ監督『100人の子供たちが列車を待っている。』とアメリカ&フランスのピエール・ソヴァージュ監督『精神の武器』の二作品に4対4で意見が分かれました。

 

荒井の左隣りは、審査員を務めたフランスの映画評論家 セルジュ・ダネーさん。

 

『100人の子ども~』は、チリのサンティアゴで低所得者のために映画教室を開いているアリシア・ベガと、生徒である子供たちの姿を描いたもの。貧しく殆ど映画を観たことがない子供たちにベガは、網膜残像に関する初歩的知識を始め、映画の歴史や構造、あるいは映画史を教えていきます。そして子供たちは、リュミエール兄弟やチャップリン、ディズニーの映画に親しんでゆく中で、映画技術を体験する内容で、こうした子供たちの成長と、好奇心と期待に満ちた表情と輝く瞳は感動的でした。

 

『精神の武器』は、第二次大戦中、フランスはナチス・ドイツによるユダヤ人の強制収容に協力していたが、山間部の小さな村ル・シャンボンではプロテスタントの牧師が先頭に立ち5000人の村人が、5000人のユダヤ人の子どもを自らの危険も顧みず匿い通した事実を、この村で助けられたユダヤ人の一人である監督が当時の目撃者を取材して廻るものです。ユダヤ人をナチスに差し出す密告者が横行する中、「困っている人がいれば助けるのは当たり前」と平然と言ってのける村人に大きな感動を覚えました。

 

どちらも「市民賞」に相応しい作品。双方の意見を出し合っての討論会が始まった。議論は伯仲し熱くなり、涙を流しながら主張する者も出る程。話は平行線で決まらないので最終的にコーディネーターの私の票も加わり『精神の武器』に決定したのです。

 

「市民賞」発表と表彰式にて。

 

「市民賞」で贈呈された、平清水焼の花器と上山和紙の賞状。

 

表彰式では、私がプレゼンターを務め「ル・シャンボンの村人たちに感謝を込めて」と一言加えて発表したら、翌日の朝日新聞でそのことが報じられたのは望外の喜びでした。ただ表彰式の直後、壇上に居た私の下に小川監督が歩み寄り「荒井君、どうして『100人の子どもたち~』に市民賞をやらなかったんだ!」と怒鳴られ、身がすくんだことも良き想い出。小川監督のこの映画祭にかける想いの熱さが現れたエピソードです。

 

『精神の武器』(米・仏)で「市民賞」を受賞した、ピエール・ソヴァージュ監督。

 

『ルート1』(米)で、「山形市長賞」を受賞した、ロバート・クレイマー監督。

 

ロバート・クレイマー監督と荒井。

 

『YIDFF』が始まった1989年は、6月に中国『天安門事件』、11月に『ベルリンの壁崩壊』するなど世界の激動の年でした。

特別上映『老人の世界』のチェコスロバキアのドゥシャン・ハナック監督にインタビューしている時には、いつもそうするようにこちらが録音していることに気づくと、途中で席を蹴って去ってしまいました。本国から彼の監視員が付いて来ていたようだったのです。ソ連ゴルバチョフ大統領のペレストロイカ政策により、東欧諸国全体に民主化や独立の動きが出てきたのか、当局との間で張り詰めた緊張感があり、特にドキュメンタリー監督への監視は強化されたのではないかと想像されます。

 

東北の小さな都市で開催された映画祭で、世界の激動を間近に感じることができたYIDFF体験でした。ですから直後に高畑勲監督と鈴木敏夫プロデューサーが『おもひでぽろぽろ』の企画で訪ねて下さった際に、気持ちが昂揚していた私は、夜遅くからお二人にYIDFFの話を一方的に2時間以上も話してしまったのでした。

夢のような6日間のYIDFFは嵐のように過ぎ去っていきました。

 

『YIDFF 1989』さよならパーティーにて。左から岩井哲さん、荒井幸博、仙道隆さん、高橋卓也さん、富田博さん、木村ゆう子さん。

 

YIDFFボランティアネットワークの主要メンバー。

 

フランスのヨリス・イヴェンス監督の夫人であるマルセリーヌ・ロリダンさんを中心に、インターナショナル・コンペティション参加の監督たち。

 

映画評論家で仏文学者、1997年から4年間東大総長を務める蓮見重彦さんが『YIDFF 1989』の後に、季刊誌「マリ・クレール」誌上で“山形市は幸福な映画都市へと変貌した”の見出しで、山形国際ドキュメンタリー映画祭’89の報告で、如何にこの映画祭が素晴らしいものであるのかを詳細にリポート。行政や映画の専門家だけじゃなく、市民がボランティアで強く関わる手作りの映画祭を、直前に開催された東京国際映画祭との比較もあり高く評価してくださいました。

 

そして「リチャード・リーコック(ロバート・フラハティ直系の弟子)=小川紳介=ネストール・アルメンドロス(世界的カメラマン)という存在が同じ空間を占めるという「映画史的奇跡」がこうもあっけなく実現されてしまったことの幸福に酔いしれるほかはなかった。」と記したのです。この映画祭は紛れもなく珠玉のもの。YIDFF並びに小川監督が真珠だとすれば私は間違いなく豚だったことを痛感させられた文章でした。

 

世界的カメラマンでもある『ノーボディ・リスンド』(米)のネストール・アルメンドロス監督と。

 

『踏切のある通り』でロバート&フランシス・フラハティ賞を受賞した、旧ソ連のイヴァール・セレツキス監督と。

 

英・日合作である『家族写真』で監督を務めた手塚義治さんとクリスティン・ロイドフィットさん夫妻。

 

韓国『五月・夢の国』脚本家コン・スチャンさんと通訳の青木謙介さん。

 

YIDFFボランティアは現在300人を超えるまでに成長。

インターナショナル・コンペティションには、アジア諸国の作品が選ばれるようになったばかりか中国の王兵(ワン・ビン)監督が、2003年には『鉄西区』で、’07年には 『鳳鳴-中国の記憶』でロバート&フランシス・フラハティ賞(大賞) に輝きました。複数回の戴冠は史上初の快挙でしたが、今年『死霊魂』で3度目の戴冠を目指しています。

小川監督がYIDFFを提唱した頃からは隔世の感があります。さぞかし相好を崩していることでしょう。

 

中国の王兵監監督。『YIDFF 2007』フェアウェル・パーティーにて(山形グランドホテル・サンリバー)

 

2007年にNPO法人として運営主体が山形市から独立し、事務局の主要メンバーは1989年当時に小川監督の呼びかけで集まった高橋卓也さん、宮沢啓さんたちでした。アジア部門の作品上映は「アジア千波万波」なり、グランプリは「小川紳介賞」と命名され、河瀨直美監督やビョン・ヨンジュ監督(韓国)などを輩出しています。

 

『ナヌムの家』で1995年に「小川紳介賞」を受賞した韓国のビョン・ヨンジュ監督と。

 

『YIDFF 2015 』香味庵クラブでの森達也監督と冨樫森監督。

 

水俣病を撮り続けたドキュメンタリー映画の巨匠、土本典昭監督ご夫妻と。2007年10月

 

『よみがえりのレシピ』『おだやかな革命』『YUKIGUNI』の渡辺智史監督(鶴岡市在住)は東北芸術工科大学の学生時代にYIDFFの『アジア千波万波』に出品された同世代の監督作品に刺激を受けドキュメンタリー映画を撮ろうと志ました。また『ディア・ピョンヤン』『かぞくのくに』のヤン・ヨンヒ監督もYIDFFに通い、飛躍していった監督でした。亡くなって27年が経ちますが、小川紳介監督の遺伝子はこのように確実に息づいています。

 

小川紳介監督を囲む、YIDFFボランティアネットワーク主要メンバー。山形駅前スズラン街の「チャイハネ」にて。

 

小川紳介監督はYIDFF89翌年に直腸癌を患い、転移による肝不全により1992年2月7日56歳で逝去されましたが、その精神は今もこの映画祭に息づいています。

そして、小川監督と共に映画祭“生みの親”で、初代理事長として牽引して下さった田中哲さんも《YIDFF2011》表彰式・閉会式を見届け、翌年10月13日に93歳で永眠されました。

 

YIDFF1989後に山形経済同友会主催「明るい山形MVP」を映画祭を成功させたことで田中哲さんが受賞。哲さんは、その賞金で、映画祭受賞者に贈る稲穂をイメージしたブロンズのトロフィーの小型レプリカを数本作製し、我々ボランティア・ネットワーク主要メンバーにプレゼントしてくれたのでした。そのプレートには「映画祭で、苦楽を共にした仲間に贈る。田中 哲」のメッセージが刻まれていました。このトロフィーは今も私の部屋のデスクに飾ってあります。

 

田中哲さんからのメッセージが刻まれた記念トロフィー。

 

私は95年から司会ボランティアに専念。開会式や閉会式、上映後の質疑応答の司会をやっています。2009年は、台風18号の直撃を受けて多数のゲストが開会式に間に合わず空席が目立っていたので、開会式の冒頭で「山形市市制施行100周年記念事業として1989年にスタートした映画祭も20周年を迎えましたが、台風の手荒い祝福というのもこの映画祭らしいのではないでしょうか」と語ったことが「気の利いたコメント」としてネットニュースとして世界に発信されるという、怪我の功名のような嬉しい出来事もありました。

 

また、1993年から旅篭町の漬物店「香味庵」が映画人やファンの交流の場「香味庵クラブ」として親しまれるようになりました。これは、YIDFF89で参加した海外の監督たちが本会場近くの「ミスター・ドーナッツ」に集まっているのを見て、せっかく秋の山形に来てくれたのに芋煮など山形の味覚を味わって貰えないのを残念に思っていた私は、1991年に青年会議所OBを中心に「山形をより良い街にしよう」と発足した「山形ビューティフル・コミッション」に於いて、「YIDFFに海外や他県から参加した映画人たちが山形の美味いものや地酒を味わいながら交流できる場所を作れないだろうか」と問題提起したところ「香味庵」さんが快く応じてくださり実現したのでした。

 

今や、交流の場「KOUMIAN」は世界の共通語となっているようです。

今年は、香味庵倶楽部のボランティアが不足していることを最後に付け加えます。

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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