だれかの散文

2019.11.1

第18回:映画を窓口に社会を考える「映社会」


1989年10月に山形国際ドキュメンタリー映画祭(以下YIDFF)を体験したことにより、私は「映画を窓口にして世界や社会について考えたり、語ったりする傾向が強くなっていました。それは、92年12月から読売新聞地方版で半年に亘り毎週連載したコラムのタイトル『スクリーンの扉を開けて』に表れています。当時は映画館フォーラムの社員だったので、自分の少年時代のヒーロー長嶋茂雄と大鵬幸喜を合わせた「長嶋幸喜」というペンネームで書いていました。

 

その後、93年12月〜95年6月まで、毎日新聞地方版に毎週『一周遅れのトップランナー』を「植木三平」名義でエッセイを連載していました。これは長嶋・大鵬同様に、私の少年時代に夢中になった植木等と林家三平から戴いたものでした。こうして書かねばならない状況になり、より一層、映画を窓口にして社会への好奇心が旺盛になっていったのでした。

 

【アパルトヘイト・差別】
映画祭翌年の1990年1月に『サラフィナの声』というドキュメンタリー映画の上映を企画しました。まだアパルトヘイト〈人種隔離政策〉が敷かれていた南アフリカで、1964年から投獄中されていた、反アパルトヘイト運動の闘士であり解放運動の象徴的存在であったネルソン・マンデラ氏の釈放を求め、黒人の高校生たちが反アパルトヘイトを訴えたミュージカル『サラフィナ!』の公演の様子と、バックステージでのキャストやスタッフの証言も交え記録した構成で、まるでゴムまりが弾むように踊り歌う彼らが「僕たち南アフリカの黒人は、どんなに辛く苦しくてもこうやって歌い踊るんだよ」と、キャストの高校生が明るく語った言葉がズシンと胸に響いた作品です。企画し実行委員を募集した矢先の2月11日に、マンデラ氏は釈放されたのでした。

これによって上映運動に弾みがついたことは言うまでもありません。
※1994年に南アフリカ史上初めて全人種参加による制憲議会選挙が実施され「アパルトヘイト」は撤廃されました。

 

『ラグビーW杯2019日本大会』が南アフリカが3年ぶり3度目の優勝を飾り幕を閉じましたが、南アフリカがアパルトヘイト政策を敷いていた頃はW杯への出場は認められていなかったのです。アパルトヘイトが廃止された1994年の翌年、ラグビーW杯は南アフリカで開催され、南アフリカは初出場、初優勝を飾ります!そのあたりはクリント・イーストウッド監督『インビクタス/負けざる者たち』(2009)で描かれています。

 

太平洋戦争末期の沖縄戦の悲惨さを描いたアニメーション映画『かんからさんしん』のキャンペーンに当時の勤務先「山形県映画センター」の先輩、高橋卓也さんと私が沖縄の平和ツアーに参加した際、沖縄の島唄シンガー新良幸人さんと出会い、親しくなり、後に山形にも何度かライブに来てもらうことになるのですが、その新良さんがライブの時に三線を弾きながら島唄を唄い、時には陽気に踊りながら「ボクたち沖縄の人間は、どんなに悲しく辛くても、こんなふうに踊って歌うんですよ」と、おどけながらステージで語ったのでした。それは、あの『サラフィナの声』の高校生が発した言葉と同じで、大きな衝撃を覚えたのでした。

 

島唄シンガー 新良幸人さんのライブ。(1993年9月15日)

 

山形市ヌーベルFロビーにて沖縄島唄シンガー新良幸人さん、サンデー中曽根さんを囲んで。(1993年9月15日)

 

コンサート&「パイナップル・ツアーズ』上映会翌日1993年9月16日に、新良幸人さん、サンデー中曽根さんを囲んで馬見ヶ崎河畔で芋煮会。

 

YIDFFの翌1990年から、私は山形県映画センターから映画館「フォーラム」に配置換えになりました。私は、1991年1月、職場での人間関係で悩みを抱え、ストレスから円形脱毛症になり、抜け毛が点から線になり面になっていき頭髪の量が半分以下になってしまったのでした。

あの時は、旧知の人間には同情されたり驚かれるのが嫌で会いたくなかったものですが、見ず知らずの人であれば元々髪の毛が薄い男くらいにしか思われないだろうと開き直り、積極的に会いに行きました。

 

【陪審員裁判・市民の司法参加】

フォーラムで91年2月に上映予定の映画に『運命の逆転』が控えていました。1980年アメリカで実際に起きた大富豪の妻を植物人間にした罪で訴えられた「貴族クラウス・フォン・ビューローの事件」(当時、米国の三浦和義事件と言われた)を、裁判に関わった法学者の手記を基にして映画化した心理サスペンスです。

この作品は「裁判映画・法廷映画」のジャンルで、欧米の裁判はほぼ陪審員制度を取っているので弁護士と検事が陪審員にアピールしたり、陪審員同士の協議や討論の場面等が面白い名作が多く、シドニー・ルメット監督『十二人の怒れる男』(’57)、ビリー・ワイルダー監督『情婦』(’58)等が想起されます。

 

当時、日本は司法の市民参加が行われておらず、裁くのはプロの裁判官。ところが70年代から、裁判官が高学歴のエリートだからといって生活者として絶対ではない、司法の独立といいながら国の影響を受け公平性に欠ける場合もあるという観点から「市民の司法参加」が叫ばれていることを知り、専門家にレクチャーを受けたいと「陪審員制度」に詳しい弁護士を探したら佐藤欣哉さんに行き着き、さっそく事務所を訪ねていきました。

お会いしてみると気さくな方で映画好きでもあり、意気投合し、チラシには欣哉さんから「陪審制度」について寄稿してもらったのでした。『運命の逆転』上映期間(2/2~22)は、夜だけ1週ずつ『白と黒のナイフ』『評決』『Q&A』を上映したのでした。

 

そして91年5月には『誰がビンセント・チンを殺したか?』というドキュメンタリー映画を上映。

映画の内容は、自動車産業で成り立っている米国デトロイトで、ビンセント・チンという中国系アメリカ人が白人親子にバットで撲殺されるという事件が勃発。当時、日本の自動車産業に押されてリストラが進み、日本人を逆恨みした自動車会社に勤める親子がビンセントを日本人と思い込み撲殺したというもの。陪審裁判で、犯人は人を殺しておきながら罰金刑のみで結審。根底には、陪審員裁判の問題点、日米貿易摩擦、そして人種差別等の根深い問題がありました。

 

「誰がビンセント・チンを殺したか」シンポジウム。左から荒井、佐藤欣哉さん、桑山紀彦さん、大串和雄さん。(1991年5月22日、フォーラム2)

 

そこで、それぞれの分野の専門家に参加戴いて、上映後にパネルディスカッションを行ったのでした。「陪審制制度」について佐藤欣哉弁護士、「日米貿易摩擦」について当時山形大学の国際政治学・大串和雄助教授(直後に国際キリスト教大学へ)、そして「移民心理学」が専門の精神神経科医師・桑山紀彦さんというそれぞれの分野の専門家に参加してもらったのでした。50席の小さな劇場を会場に欲張りすぎの感もありましたが有意義なシンポジウムとなったのでした。

※我が国における「市民の司法参加」は、2004年5月21日「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が成立。2009年5月21日から「裁判員制度」が始まりました。

 

この2度の上映会を通じて佐藤欣哉さんと親しくなったのですが、パネルディスカッションの後、胃癌の手術のために入院。胃を全摘し胆のうの一部も摘出したのでした。欣哉さんはこの入院中もフォーラムに、ハリウッド映画史上の最大汚点ともいうべき「赤狩り」をテーマに描いたロバート・デ・ニーロ主演『真実の瞬間』を病院を抜け出して観に来るなど、映画好きの一面を見せてくれました。

 

退院後にお会いした際はすこぶる元気になられ、様々な話をするなかで、映画を窓口に社会について語ったり学べるサロンを、当時木の実町にあった佐藤欣也法律事務所で毎月開催することが決まりました。

 

私は、フォーラムでの企画上映で出会った社会人や映画好きの大学生などを誘い、8人ほどが集まり、92年5月から同好者会を発足。毎月、集まり、呑み、食べ、語るうちに、欣哉さんは当時「蔵王県境事件」や「オンブズマン」など中心で活躍していたこともあり、朝日・読売・毎日新聞の記者も参加するようになっていきました。この集まりの名前は私の提案で「映社会(ええしゃかい)」と決まりました。

 

【らい予防法・エイズ予防法】

この「映社会」から最初に生まれた企画が、93年2月26日(金)フォーラムでの『砂の器』の上映でした。我が国でエイズ予防法が1989年に簡単に施行されたことは、ハンセン(らい)病患者への差別や偏見を助長する「らい予防法」が厳然と残っているからではないか?!また、我が国におけるらい病への偏見、患者に対する差別の歴史を知ってもらう為にも、前年に亡くなった松本清張原作・野村芳太郎監督『砂の器』(1974)上映を当時勤務していたフォーラムで企画しました。

 

『砂の器』上映会ロビー。(1993年2月26日、フォーラム1)

 

『砂の器』上映会スタッフ。

 

『砂の器』原作発表の昭和35年と、映画化された昭和48年の年表比較も掲示。

 

『砂の器』ロビー展示。松本清張が読売新聞に連載開始した1回目が載った誌面。

 

この頃は「言葉狩り」という言葉が生まれる程、差別に対する表現にナーバスに成らざるを得ない時で、『砂の器』のTV放映、ビデオ化でも、ハンセン病の父親と息子の流浪の旅で子供たちから石もて追われる場面がカットされていたのです。この場面は、当時の我が国におけるハンセン病に対する無知や偏見・差別が如何に酷かったのかを表す肝となるものでした。

それ故に、息子 和賀英良(加藤剛)が唯一の恩人である過去を知っている、三木謙一(緒形拳)を殺してしまう動機付け(殺人は決してあってはなりませんが)の説得力を失くしてしまうのでした。であれば、35mmフィルムをスクリーンに映して観て貰うしかないという事情もありました。集ってきた20代前半の実行委員と共に学びながらチラシ・ポスターを作り拡販し、1993年2月26日の上映会では観客が溢れる程足を運んでくれたことが思い出されます。

 

「らい予防法」は、1996年(平成8年)4月1日遅ればせながら廃止されましたが、2015年公開の河瀬直美監督『あん』で樹木希林さんと市原悦子さんが演じたのは、らい予防法の隔離政策により若い時から国立療養所で過ごさざるを得なかった女性の老後の姿で、「らい予防法」廃止になった今も根強い差別が残っていることが描かれていました。

※今年6月28日の熊本地裁判決では、「らい予防法」の隔離政策により、学習機会を奪われたり、結婚差別などが生じたりしたことを認め「憲法が保障する人格権や婚姻の自由を侵害した」と指摘しました。国が遅くとも1960年の時点で隔離政策をやめなかったことや、その後も差別・偏見を取り除く措置を取らなかったことを違法と判断し、96年まで隔離規定を廃止しなかったのは立法不作為としたのです。そして、安倍晋三首相は7月24日、「心から深くおわび申し上げます」と原告団に直接謝罪しました。

 

【子どもの権利条約】

「映社会」企画ではありませんが、メンバーが実行委員として活躍したのが、1992年5月にアンジェイ・ワイダ監督『コルチャック先生』上映(フォーラム)と、上映期間中に山形市東部公民館で「コルチャック先生と子供の権利条約」についてシンポジウムを開催したのも貴重な体験でした。

『コルチャック先生』は、第二次世界大戦中、子どもたちを守ることにその生命を捧げたユダヤ人医師であり、「子どもの権利条約の父」とも呼ばれる、ヤヌシュ・コルチャックの半生を描いた感動作。

※「子どもの権利条約」は通称で正式には「児童の権利に関する条約」。

 

「子どもの権利条約」にある、コルチャックが残した子どもに対する数々の考え方は、祖国ポーランドにも影響を与え、ポーランド政府が草案を提出し、児童(18歳未満の者)の権利について定める国際条約で、1959年に採択された「児童の権利に関する宣言」の30周年に合わせ、1989年11月20日に国連総会で採択。1990年9月2日に発効されたものです。

批准国は子の最善の利益のために行動しなければならないと定めていますが、当時の日本ではまだ批准していなかったのです。

 

『コルチャック先生』上映と「子どもの権利条約」シンポジウム。

 

シンポジウム会場入り口にて。

 

シンポジウムは、パネリストに山形大学・政治学の渡辺誠一教授、佐藤欣哉法律事務所の縄田政幸弁護士、そして心療内科医師で紛争地・被災地の子供たちのケア活動をしている桑山紀彦さん(『誰がビンセント・チンを殺したか』に続いて)にお願いし、活発に議論が交わされたのでした。

 

その年10月、アンジェイ・ワイダ監督が来日し、「岩波ホール」の高野悦子さんが山形市にお連れしてくれたのでした。その際、私がワイダ監督に『コルチャック先生』に如何に感動したかを伝え、「『コルチャック先生』を上映した際に“子どもの権利”についてのシンポジウムをしたんです。」と申し上げると、にこやかに感謝の言葉を述べながら両手で私の手を包むように握ってくれたのでした。

その時の笑顔と大きな手の温もり、感動は今も忘れません。アンジェイ・ワイダ監督は2016年10月9日、肺不全により90歳で永眠。ご冥福を心よりお祈り致します。

※日本は遅ればせながら1994年4月22日(5月22日付で発効)『子どもの権利条約』を批准しました。日本ユニセフ協会は、今年10月26日(土)午後、映画『コルチャック先生』の無料上映会を、東京都港区のユニセフハウスで開催します。

 

9月25日に『最高の人生の見つけ方』(10月11日公開)の、特別先行上映会の舞台挨拶で主演の吉永小百合さんと天海祐希さんが会場の山形県民会館(やまぎんホール)にいらっしゃいました。地下での共同会見で東北一円から集まった報道陣のインタビューに応えた後、大ホールで1回目の上映後に舞台挨拶。

サプライズゲストで、ももいろクローバーZの玉井詩織さん、佐々木彩夏さんも加わり、1,700の客席は満員の大盛況で熱気に溢れていました。18時からの2回目の上映前も挨拶に立たれ、こちらも満席。

 

会見、舞台挨拶をした山形県民会館は今年11月末で閉館しますが、山形県民会館として開館したのは1962(昭和37)年7月10日。吉永小百合さんの代表作の浦山桐郎監督『キューポラのある街』が同年4月に公開。そして、6月公開の主演作 西河克己監督『赤い蕾と白い花』の主題歌で、和田弘とマヒナスターズとのデュエット曲「寒い朝」が大ヒット。そして9月には橋幸夫とのデュエット曲「いつでも夢を」が大ヒットするだけでなくレコード大賞受賞と、まさに小百合イヤーでした。小百合さんのファンを「サユリスト」と呼ぶようになったのもこの年からです。

 

県民会館が誕生したのはこのように「小百合ブーム」真っ只中の時でした。その小百合さんが閉館直前に登壇し1,700の客席を満杯にしてくださったのですから、県民会館もさぞ喜んでくれたことでしょう!

 

この吉永小百合さんの代表作『キューポラのある街』を、93年11月5日(金)フォーラムで行った上映は「映社会」企画でした。最年長で1946年8月生まれの佐藤欣哉さんは吉永小百合さんの2学年下で、まさに大ファンのサユリストである欣哉さんからの企画でした。

内容は、鋳物の街でキューポラ(鉄の溶解炉)が多く見られた埼玉県川口市を舞台した、主人公ジュン(吉永小百合)の周りで起こる貧困や親子問題、進学、民族差別、友情、などを描いた青春映画。前年の1961年(昭和36年)12月24日から開始した、在日朝鮮人の北朝鮮帰国運動も描かれ、様々な問題に目を向け語り合うには格好の作品でした。小百合さんはこの作品でブルーリボン賞主演女優賞を受賞しています。

この『キューポラのある街』上映に向けて「映社会」でPR活動をやっている時に、原作者・早船ちよさんの娘さんが、当時「市立病院済生館」で医師として勤務されていて、お会いしてお母さまのお話を伺ったのも良き想い出です。この上映会を企画しなかったら出会うことは無かったでしょう。

 

私がフォーラムを退社し独立したあとも、「映社会」は高畑勲監督、加藤登紀子さん、永島敏行さん、赤塚真人さん、田中邦衛さんを交えての懇親会を重ねる等、楽しみながら続いていました。

 

高畑勲監督を囲んで「映社会」メンバー。山形市桜田「渓流亭」にて。(1994年11月16日)

 

加藤紀子さんを囲んで「映社会」メンバー。「渓流亭」にて。(1997年10月19日)

 

そんななか、「映社会」で企画し、97年8月31日に遊学館ホールで上映会を行ったのが『若者たち』でした。元々はフジテレビで1966年2月から9月まで放送されたテレビドラマ。千葉県の海岸沿いの町に住む、両親を亡くした佐藤家の5人兄弟が、友情・恋愛・喧嘩などを繰り返しながらも逞しく歩き続けてゆく活力みなぎる内容で、1965年11月29日付の毎日新聞朝刊「ある家庭」という特集記事で紹介された、実在の家族を素材に企画されたものです。

ドラマの人気上昇につれ、ザ・ブロード・サイド・フォーが唄う同名主題歌も大ヒットしたのですが、貧困・男女差別・学歴差別・在日朝鮮人差別・被爆者差別 等々、日本社会への疑問や批判の傾向に放送局が社風から懸念し、ドラマを打ち切ったのでした。その後、視聴者からの抗議や放送継続・復活の要望、嘆願が殺到するようになり、それに応えて同じ監督・スタッフ・出演者で1967年に映画化し、68年に公開されたのでした。

 

遊学館2Fロビーで「映社会」メンバー。

 

『若者たち』上映とパネルディスカッション。(遊学館ホール)

 

私は、様々な社会への疑問や批判が描かれていることよりも、主人公の佐藤家の5人兄弟・太郎(田中邦衛)、次郎(橋本功)、三郎(山本圭)、オリエ(佐藤オリエ)、末吉(松山省二)の絆の強さに注目したのでした。

この兄弟、特に長男・太郎と三男・三郎は相手にきつく、率直な言葉を投げかけます。家族、兄弟ならそれは当たり前のことのようですが、平成になった辺りから親子・兄弟・親友といった近しい間柄でも“冷酷なやさしさ”という関係がまかり通るようになっていました。つまり、「嫌われたくない」が優先し、相手が間違っていると思っても言わない。「親友」と思っていても相手の事を何も知らないという可笑しなことが珍しくない状況になっていました。

そんな時だからこそ、相手のことを思えばこそ、自分が嫌われることなどお構いなしに直言する『若者たち』の世界が新鮮で今こそ観せたい、語り合いたいと思ってのものでした。

 

フィルムの貸し出し依頼の電話を配給会社にすると、「制作当時のプロデューサーが亡くなり、「ビデオ化しない」「貸出しない」が遺言なので、出せません」の一点張り。私は「(当時)“団塊の世代“が50歳を超えるようになり「団塊白書」が出るような時期に、ここで『若者たち』を観せようとしないのは怠慢だし、フィルムを腐らせる気ですか」と食い下がりました。すると、配給会社では会議をして「山形の荒井という男がそれほど云うなら試しにやらせてもいいじゃないか」ということになり、フィルムを貸し出してもらえることになったのでした。

 

『若者たち』の上映PR活動中に『欲望という名の電車』公演で天童にいらした栗原小巻さんと。

 

晴れて『若者たち』を上映できることになった「映社会」のメンバーは、佐藤欣哉法律事務所や公民館で、宣伝材料や当日会場に張り出す資料作りに仕事後の夕方や休日に取り組む日々。それをNHK山形放送局が取材してくれたこともあり、よりモチベーションが上がり盛り上がっていきました。

 

当日は、会場の遊学館ホールのロビーに『若者たち』の時代1960年代半ばから後半に激化した「全共闘運動の組織図」「グループサウンズたち」「貨幣価値比較表」等々、大判用紙に書きだした資料を展示。そして、66年から69年に流行した歌謡曲、GS、フォーク、ビートルズ等の洋楽をBGMに流し続け、“あの時”にいざなったのでした。

 

『若者たち』上映会のロビーに掲示したポスター。(1997年8月31日、遊学館)

 

「流行歌が元気だった60年代」がテーマの手作り掲示。

 

『若者たち』の頃と今をテーマにした、手作りした物価比較表の掲示。

 

午前・午後の上映の間には10代の大学生、20代のOL、30代後半の男性経営者、40代後半『若者たち』世代の男性教師をパネリストにして、私の司会でそれぞれの立場からの意見や感想を語り、議論を活発に交わし、上映会後にはこれらの資料を配給会社に送ったのでした。そして、翌98年に東京の劇場はじめ数か所で『若者たち』が上映され、それが全国に広がり、NHKでそのことが取り上げられたのでした。

 

『若者たち』上映後に遊学館の前で。

 

のちに、配給会社の川島博さんが映画月刊誌「シネ・フロント」で『若者たち』が30年の時を経て全国に拡がったことについて語っていました「『若者たち』を上映したいと思っていたのですが「何故、今『若者たち』?と問われると答えられないでいたんですよ。そんな時に山形の荒井さんが熱心に上映したいと依頼をもらい、上映を成功させたんですよ。それで背中を押されました」と嬉しいことを語ってくれました。私たちが行った山形での小さな上映会が東京を動かし、全国に拡がったのです。「やって、良かった!間違ってなかった!」と仲間と喜び合ったものです。

この時の『若者たち』上映がきっかけで田中邦衛さんと親しくさせてもらうことになるのですが、それはまた別の回で。

 

その『若者たち』が22年ぶりに山形市で上映されます。

『おもひでぽろぽろ』の里 山形市高瀬で、外から嫁いできたお母さん方が中心となり、地域のお年寄りや子供たちに映画を観せたいと毎年11月3日に上映会を開催してきて今年で8回目。それが『若者たち』の上映です。制作から52年。「映社会」の山形上映から22年の歳月が流れ、時代が移り変わっても普遍的な今に通じるものが沢山詰まった映画です。多くの人に観て欲しいものです。

 

基本的に映画は娯楽です。でも、その映画から教えてもらうことは少なくありません。平成に入ったころは、上映会企画と諸問題の変革が面白いようにリンクしていました。

果たして令和はどうでしょうか?


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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