だれかの散文

2020.1.26

第20回:田中邦衛さんとの想ひ出〈後編〉


1998年5月29日、天童市の山口正という男性から電話。映画紹介やリクエスト番組をパーソナリティとして担当していた山形放送に、電話番号を教えてもらったとのこと。

 

山口さんは一方的にまくしたてた。「あのよ、おらだの成生地区で、今度、子供会育成会を発足すんだげんとも、発会記念で田中邦衛さんから講演して貰うだいんだげんとも、荒井さんから道づげしてもらわんねべが」というもの。おそらく96年12月に山形放送ラジオ「シネマしま専科」で、私が松竹大船撮影所で『虹をつかむ男』撮影中の、田中邦衛さんや西田敏行さん、柳沢慎吾さんにお会いしたことを語っていたのを聴いていたのでしょう。それを受けて私は「田中邦衛さんにはお会いしたことはありますけど、邦衛さんは講演やトークショーはなさらない方だと訊いてますよ。」そうすると山口さんは「オラだ、『北の国から』を観で子育てしたんだがら何とがお願いします。」

 

私「それなら倉本聰さんにお願いしたらいいんじゃないですか。『北の国から』は倉本聰さんの原作・脚本ですから。倉本さんですと講演もなさいますから」

山口さん「駄目だ、五郎さんでないど!」

私「黒板五郎は、あくまで邦衛さんが倉本さんが書いた台本で演じているだけですから」山口さんにとっては、田中邦衛さんと黒板五郎はイコールでした。私が理詰めで説得しても通じません。この後も、『北の国から』で、純が丸太小屋が火事になった原因は自分ではなく正吉だと嘘をついたことを、ラーメン屋で泣きながら五郎さんに告白した回が放送になった直前に、自分の息子も純と同じ年ごろだったが、祖母の財布から千円を抜いたことがあり、ドラマを見て「嘘はいけない」ことを教えた。この息子は今、警察官になり警視庁で働いている云々と、延々と話し続けたのでした。

私は、山口さんのこの理不尽ともいえる熱さに負け、「無理だと思いますけどお願いだけはしてみます。」と答え、漸く電話から逃れることができたのでした。

 

サインを一文字一文字、大切に書く邦衛さん(2006.11.25)

 

そして、私は邦衛さんが以前所属していた(株)仕事の神成プロデューサーに電話をしたのでした。その事務所は、邦衛さんの出身母体「俳優座」の映画・ドラマ部門と所属俳優のマネージメントを司り、邦衛さん主演映画『若者たち』の製作社の中心を担い、配給をしていたのでした。

本コラム第18回で綴っていますが、私の周囲の人たちと結成した「映社会」主催で、1997年8月31日に山形市遊学館ホールで『若者たち』上映会を行ったことが、当時『若者たち』の再上映をしたいが、自信が無く逡巡していた(株)仕事の背中を押して、翌98年に東京上映から全国ホール上映に繋がったという経緯があったのでした。その事実は、映画月刊誌「シネフロント」で川嶋プロデューサーがそのように語ったことで把握したのですが、そこにつけこむわけではありませんが、旧知の神成さんに事の次第を話し、田中邦衛さんを山形県天童市に来てもらうことは可能か?を打診。

そうしたら、かつて邦衛さんの担当をしていた伊藤瑛というプロデューサーを紹介されたのでした。改めて伊藤さんにお願いすると「行かねえよ!俺たちが頼んでも邦さん(彼らはそう呼ぶ)東京でもやんないのに、なんで山形なんて行くの?」という冷たい回答。ところが天童山口さんの理不尽な熱さがうつったかのように私は「そこを何とか邦衛さんに話だけ通してもらえませんか!」とひたすら床に頭をこすりつけるような想いで懇願。「わかったよ。『若者たち』の事もあるんで邦さんに話だけは通すよ。だけど行かねえよ!」と冷たく念を押され電話を切ったのでした。

 

それから数日たった6月19日、伊藤さんから電話。「邦さん、行くってよ!ビックリだよ、事務所中大騒ぎだよ!!」と語る声は、前回のクールな応対とは打って変わりハイテンション。「ただ、邦さんは講演とかトークショーはしたことないんで、荒井さんが聞き手としていてくれることが条件だよ」との事。それは邦衛さんが大好きな私にとっては願ってもないことでした。後日、邦衛さんに伺ったところ、「『北の国から98』で、蛍を嫁がせて終わりが見えてきた。邦衛さんの娘さんふたりも嫁いで夫婦ふたりだけになったので、“国内を旅行でもしようか”と話していた矢先に、この話を戴いたので“山形に行ってみようか!”とお受けしました。」とのことで、私や天童の人たちにとっては奇跡のような幸運だったのです。

 

天童市成生小学校の体育館で初のトークショー(1998.11.8)

 

早速、天童の山口さんに電話で、邦衛さんがいらっしゃることを知らせて、そこから何度も行き来。言い争いなどもありながら電話のやりとりを重ねて、本番の11月8日を迎えるのですが、ひと口に成生地区と言っても七つの町から構成されているのでまとめてワンチームになるのは至難の業。窓口になった山口正さん(柏木町)が事務局、細谷美喜雄さん(成生)が会長、武田達郎さん(大町)は副会長というトロイカ体制で実行委員会を構成して半年掛かりで準備を進めてきたのでした。

 

山形新幹線で山形駅(新庄延伸で天童駅に停まるのは99年12月から)に田中邦衛さん・奥様、そして付き人替わりの伊藤瑛さんが11月8日の11時頃に降り立ったのでした。出迎えたトロイカ3人と私の握手攻めにあった邦衛さんは厭な顔一つせず「初めまして高倉健です。」と軽く笑いをとってから「どうぞ、宜しくお願いいたします。」と頭を下げられたのでした。

車で着いた成生地区公民館では、実行委員のご婦人たちが炊き出しをして芋煮や漬物、おにぎり、ラ・フランス、リンゴでおもてなし。それを邦衛さんは「美味しいネエ!美味しいネエ!」と言いながらどんどん召し上がっていく。これが“健啖家”邦衛さんを認識した瞬間でした。

 

成生の人たちが手づくりした“りんご畑のステージ”でトークショー(1998.11.8)

 

いよいよトークショー本番。会場は成生小学校体育館。体育館でトークショーというと、ステージ上で行うものと想いがちですが、彼らはそうしませんでした。

ステージ横に簡易ステージをこしらえたのです。生きたリンゴの木を2本据えて、木の切り株を椅子にしたリンゴ畑の中で二人が語り合うという設定。背景には月山や朝日山系の絵が描かれ、そしてトークする切り株の前には囲炉裏があるというもの。軽くツッコミをいれたくなりますが、やれることは全てやったという実行委員の方々の努力が伺えたので感心するばかりでした。

体育館には薄縁を敷き、ステージ上も客席になり、14時の開園30分前には超満員。因みにこの日は天童市民文化会館大ホールでNHKの論説委員かアナウンサーの講演が同時刻に開催されるのでしたが、この動員力は田中邦衛さんの人気を表すもので“国民のお父さん”の面目躍如でした。

 

開演となり、主催者、来賓二人あいさつで10分ほどかかり、満員の観客が痺れを切らしているのが手に取るようにわかる状況で、トークショー聴き手の私が呼び出されました。そんな中、司会が私のプロフィール紹介をしようとしたので、それを遮り、「みんなで邦衛さ~ん!とお呼びしましょう」といきなり言い、間髪入れず、それでは「クニエイさ~ん!!」と会場中でコールが響くと、『北の国から』のテーマ曲が流れ、簡易ステージの向こう側(対面)の引き戸が開けられると、そこから田中邦衛さんが照れたような笑顔で申し訳なさそうに花道を歩いてくる。

歓声と握手攻めに遭い、なかなか前に進めない。両手を合わせて拝む人、涙ぐむ人も多数いる花道20mほどを5分以上かけ漸くステージに到着し、改めて田中邦衛さんを紹介。歓声・拍手は暫く鳴り止みません。私はそのまま照れた邦衛さんを眺めてもらうことにして、落ち着いたところで着席を促し、徐に邦衛さんに問いかけ、トークショーが始まったのでした。

故郷・岐阜県土岐市での「おばあ」と呼ばれていた子供時代から学生、俳優座養成所、俳優としての駆け出しの黒澤明作品から加山雄三さんとの『若大将シリーズ』、高倉健さんとの『網走番外地シリーズ』、『若者たちシリーズ』、『仁義なき戦いシリーズ』から『北の国から』、山田洋次監督『学校』に至るまで駆け足で1時間半、そして質疑応答に30分、併せて2時間がアッと言う間に過ぎたのでした。

 

成生のトークショー後、天童ホテルで懇親会。

 

天童ホテルの部屋にて。

 

終了後は、宿泊する天童ホテルの貴賓室で寛ぎ、夕方から50名程の実行委員との懇親会。邦衛さんはご馳走を頬張りながら、ステージ上での余興を眺め、写真撮影や握手に応えながら成生の方たちとの長い夜は更けていったのでした。

翌日は天童将棋の駒作りや河北町谷地の享保雛人形を見学したり、山形蕎麦を召し上がったりと初の山形を満喫して戴いて帰られたのでした。二日間、田中ご夫妻と親しく過ごさせて戴きましたが、この1998年11月8・9日を契機に長年、息子のように接してもらうことになろうとは想像もしませんでした。

 

横浜中華街にて(1999.5.27)

 

邦衛さんはお茶目な方で、天童市街地を邦衛ご夫妻と3人で歩いていると、道路の向こう側で中年のご婦人二人が「あれ田中邦衛さんだ」とヒソヒソ話していることに気付くと、あの独特の大股歩きでそのご婦人たちの前へ行き、「あのう、ちょっとお願いがあるんですけど、握手して戴けますか?」と右手を差し出し、相手が驚き、戸惑っていると「いやなのかい?」と笑いを誘ってから握手を交わすのでした。この場面は以降山形県内で何度も観ることになるのです。

 

邦衛さんは1932年11月23日生まれ、私は1957年11月23日生まれ。1957年は昭和32年。ですから25歳違いの32年11月23日生まれ同志という偶然もあり相性が合っていたのではないでしょうか。天童で私を相手にトークショーを初めて経験し、観客が喜ぶ顔を見て、ご自分が如何に望まれているのかを初めて知ったのだと思います。

以降、山形市、米沢市、金山町、平田町、東根市、村山市、寒河江市、鶴岡市…と山形県各地内で私とのトークショーを重ねたのでした。

 

山形グランドホテルにてトークショー(2000.2.26)

 

山形市桜田の渓流亭で「映写会」メンバーと交流(2000.2.26)

 

邦衛さんと山形の出会いのきっかけとなった、天童市成生地区でのトークショーには後日談がありました。1週間ほどして、山口正さんから電話があり、あのトークショーで、邦衛さんが花道を入場する時、握手してもらった人の中に小学校入学前の男の子がいたのですが、その子は自閉症で話をすることはなかったのが、あの時、邦衛さんに頭を撫でて貰ったら話をするようになったそうなのです。それは、その子のお母さんから丁寧なお礼の手紙が届き、わかったことでした。邦衛さんの身体から発する温かいオーラのチカラだったのでしょう。

 

旧平田町でトークショー(2000.6.29)

 

旧平田町立東陽小学校で子どもたちの笹巻き作りに加わる(2000.6.29)

 

また、それから10年後の2008年10月に『エコライフやまがた2008』で、邦衛さんとビッグウィングのイベントホールでトークショーをやった時、最後に『北の国から2002遺言』で、黒板五郎が読んだ遺言を邦衛さんから朗読してもらったのでした。邦衛さんがとつとつと言葉を噛み締めるように読むと、涙ぐむどころか観客が号泣しだしたのです。これには驚きました。倉本聡さんが書いた脚本ですが、紛れもなく五郎さん(邦衛さん)の言葉となり、多くの人の心を揺さぶったのです。

この10年前に、邦衛さんを呼んで欲しいと私に依頼した成生の山口正さんに「無理です」と言っても、邦衛さんに固執した理由が判った気がしました。

 

荒井の自宅部屋で邦衛さんのサイン入りポスターをバックに(2002.6.6)

 

荒井自宅にて母と懇談(2002.6.6)

 

その山口正さんが2019年の7月14日に亡くなっていました。庭の草刈りをしている時に心筋梗塞で逝ってしまったそうです。69歳でした。あのバイタリティ溢れる山口さんらしい最期だったのかもしれません。
この原稿を書くにあたり、山口さんに色々と確認したく、携帯に電話したら番号は使われておらず、自宅に電話しても出ないので留守電にメッセージを入れていたら、2日ほどして息子さんから電話があり、初めて山口さんの死を知ったのでした。

邦衛さんと一緒に2014年7月に伺った時、成生地区公民館でお会いしたのが最後となってしまいました。あの1998年のトークショーの背景画をバックに記念撮影したことが忘れられません。山口さんの強引な要請がなければ、邦衛さんと親しくお付き合いすることは出来ませんでした。正に恩人でした。

感謝の想いを込めて、ご冥福をお祈り致します。

 

最上川芭蕉ライン舟下りにて(2002.6.6)

 

出会って2年ほどした或る日、奥様から電話「荒井さん、邦さんに老後はどこに住みたい?って訊いたら何処って答えたと思う?」奥さんの口ぶりからなんとなく応えは想像がついたのですが、敢えて私は、邦衛さんの故郷・岐阜県土岐と、『北の国から』の舞台・北海道富良野、同居していた奥様のご両親の故郷・新潟を挙げました。奥様は我が意を得たりとばかり「“山形”って言ったのよ!」と嬉しそうに教えてくれました。山形新幹線で福島から米沢の峠辺りに来ると「霞んで重なって山がふるさと」と独り言のように読むそうです。

秋は馬見ヶ埼河畔で芋煮会、春は霞城公園で花見そしてキャッチボール等、山形県民の季節毎の楽しみも味わって貰いました。

 

山形放送ラジオ出演(2002.6.6)

 

米沢市民文化会館でトークショー(2003.6.27)

 

米沢市の養護施設を訪問(2003.6.28)

 

東根市でさくらんぼ狩り(2003.6.29)

 

霞城公園にて「映写会」メンバーと花見のとき。邦衛さんと荒井がキャッチボール(2004.4)

 

霞城公園にて「映写会」メンバーの自転車を乗り回す邦衛さん(2004.4)

 

上山市楢下宿にて「全国街道サミット」で街道宣言をしてくださった後のひとコマ(2004.10.15)

 

山形市馬見ヶ崎河畔で芋煮会。映写会や天童成生の人たちと(2004.10.17)

 

芋煮会会場で二人でコーラス。

 

米沢市民文化会館でトークショー(2005.3)

 

お鷹ぽっぽを贈られました。

 

天童市若松寺で鐘を打って(2005.11)

 

2007年7月には米沢市伝国の置賜文化杜ホールで《田中邦衛映画祭》を開催。邦衛さん主演の森川時久監督『若者たち』(1967)、根岸吉太郎監督『ウホッホ探検隊』(’86) 、山田洋次監督『学校』(’93)を上映し、作品ごとに邦衛さんとトークを行いました。ロビーには邦衛さんのご自宅で保管していた映画やCMのポスターを展示して、田中邦衛ワ―ルド1色に染め上げたのです。

他にも私が米沢で開催した「昭和歌謡うたごえ」イベントや、山形市国際ホテルでの人工透析者の腎友会向けトーク&うたごえショー、「映社会」仲間の弁護士・佐藤欣哉法律事務所関連イベント等にもご参加戴き、ステージに上がって戴きました。

 

米沢市、伝国の杜置賜 文化ホールにて「荒井幸博と唄おう 昭和歌謡のひろば」にゲストで登壇(2007.2.17)

 

米沢の置賜文化ホールで開催された「田中邦衛映画祭」のロビー展の様子(2007.7.14)

 

「田中邦衛映画祭」でのトークショー。

 

大盛況のうちに「田中邦衛映画祭」を終え、実行委員と乾杯!

 

西蔵王神尾地区の黒木政吉さんの畑で(2007.9.17)

 

山形市東沢「ロングベアー」前でダンス(2007.9.17)

 

邦衛さんは私とトークショーをするまでは、東京だけでなく故郷・岐阜からの要請も一切断ってましたが、SNSが普及し、ネットにより山形でトークショーをやっていることが知られるようになり、旧制中学に通った岐阜県多治見市青年会議所から依頼が来たときは遂に断り切れず、私と山形で行っているトークショーを“出前”するような形で、私も多治見市に同行し2009年8月1日に行ってきたのでした。

同様に、邦衛さんが卒業した千葉県麗澤学園開学75周年イベントにも、英文学部長をしている邦衛さんの弟さんを通じて依頼があり、同年10月3日に行ってきました。翌2010年3月13日には、宮城県仙台市でも行いました。会場は、仙台老舗ホテルの仙台プラザ。ここは1年後の東日本大震災による傷みが激しく廃業。その跡地にNHK仙台放送局が新築移転し、そこで2014年春から5年間、情報番組「ひるはぴ」「もりすた」で映画コーナーを担当することになったのも奇しき縁でした。

 

鶴岡市中央公民館大ホールで「鶴岡まちなかキネマ」オープンプレイベントで上映&トーク(2010.3.14)

 

山形県は全市町村に温泉があり、温泉好きの邦衛さんはご夫妻で毎年3~4回は山形にいらして、ほぼ全ての温泉を制覇し、山形の食も大いに楽しまれました。

私も上京した際は横浜の邦衛宅にとめて戴いたので、年間4~5回はお世話になりました。

 

毎年11月23日、ふたりの誕生日は山形と横浜で2度お祝いをしたものです。ご自宅では好きな中原中也の詩を朗読したり、邦衛さんの運転で南青山のライブハウスでジャズライブを楽しんだり、横浜中華街で食事をしたりと夢のような時を過ごさせてもらいました。

 

 

誕生日の11月23日は、いつも一緒に祝ってもらいました。

 

山形フィルムコミッションを長年担当している山形市職員の山川渉さんが、映画、ドラマ、グルメ番組のスタッフと親しい関係を築くようになり、酒席を共にした時、テレビ東京「いい旅・夢気分」のディレクターに「山形に田中邦衛さんと親しい荒井さんという人がいて、荒井さんが頼んだら邦衛さん出てくれるかもしれませんよ」と主張。

恐らく本人は酒の席で軽い気持ちで語ってしまったのでしょう。ところが、テレビ界にとって『北の国から』番宣『SMAP×SMAP内「ビストロSMAP」』(香取慎吾さんと大河ドラマ『新撰組』共演以来親しいのと健啖家のため)を例外として「バラエティ番組には絶対出ない」ことが業界の常識の田中邦衛さんが旅番組に出てくれるかもしれないと知ったディレクターは即、私に電話で依頼してきたのでした。山形県内でローカルタレントとして活動していた私にとって、全国ネットの旅番組に出られるというのは有難い話で、出演したいのは山々ですが、これまで『徹子の部屋』等のトーク番組も頑なに断ってきた邦衛さんが、私の頼みだからと言って果たして出て下さるものか自信はありませんでした。

そんな期待と不安を抱きながら恐る恐る邦衛さんに電話。すると「荒井さんのためになるんでしたらいいですよ!」と快諾。天にも飛び上がらんばかりの喜びをグッと押さえて「ありがとうございます!」と電話口で深々と頭を下げながら深謝したのでした。その事を、直ちに番組ディレクターに伝えると当然の如く大喜び。後で訊いた処によると会社中大騒ぎだったそうです。

 

数日後、ディレクターから電話で、申し訳なさそうに、邦衛さんの旅の同行は地井武男さんや吉岡秀隆さんにお願いできないでしょうか」やっぱり、そうか。ディレクターも社内の意見に抗しきれずのものだったようです。邦衛さんにそのことをお伝えすると「だったら 出ません!」ときっぱり。それは涙が出るほど嬉しかったのですが、折角邦衛さんが旅番組に出ようと前向きになったのにそれを失くしていいものかと思いながら邦衛さんの意向をディレクターに告げると、「そうですか、わかりました。」と残念そうに電話を切ったので、この段階でこの話は無くなったと諦めました。

 

テレビ東京「いい旅、夢気分」撮影ラストシーン。山形駅前ペデストリアンデッキにて(2010.6)

 

翌日、ディレクターから電話があり、弾んだ声で「田中邦衛さんと荒井さんとの旅でお願いします!」テレビ東京からしたら田中邦衛さんと地井武男さん、吉岡秀隆さんの組み合わせなら最高だが、絶対無理だと言われていた田中邦衛さんが出てくれるんだから、相手は無名でも構わないだろうと判断されたことは容易に想像がつきます。ですから番組では私がどんな人間か説明しなければならないので、事前にスタッフが山形に来て、私が山形放送ラジオでパーソナリティを務めていた月曜夜の生放送『なつメロリクエスト電話でこんばんは!』のスタジオでの私を撮影して行って、番組ではナレーターの大和田伸也さんが私の説明をしてくれました。

 

かくして、田中邦衛さんと荒井幸博の山形の旅ロケが2010年6月10.11日の2日間行われたのでした。旅は、米沢市〜上山市〜山形市を私が運転する車で巡るもので、観光名所や有名店でらなく、邦衛さん馴染みの店や人、温泉、旅館を訪ねるというもの。

二人は車内や店でもいつものようにリラックスして、少年時代や俳優座養成所時代、黒澤明監督作品、尊敬する高倉健さんの話などを喋り続けましたが、時間の都合で7割方カットされたのは残念でした。この田中邦衛さんが出演した『いい旅・夢気分』はスペシャルとして麻丘めぐみさん・有森成美さん、相田翔子さん・風間トオルさん、中村梅雀さん夫妻、そして田中邦衛さん・荒井幸博の四組の旅を6月23日(20:00〜22:54)山形県は7月10日(13:00〜15:54 TUY)で放送されたのでした。

後にディレクターから邦衛さん出演時間は、この時点で24年の歴史の番組史上、最高視聴率を記録したと伝えられました。

 

山形在住の私には実感が湧きませんでしたが、東京で放送になった日の深夜0時に親しくして戴いている浅丘ルリ子さんから「見たわよ!」と電話を戴きました。当日は森進一さんのディナーショーに行き、リアルタイムで観られなかったので、帰宅してから録画していた番組を4組の旅を全部観てから電話をくれたので深夜になってしまったそうでした。「あなたと邦衛さんの旅が本当に良かった。私も出たくなっちゃった。でも、荒井さんが着てたポロシャツは地味でダメよ。テレビなんだから」と誉めた後で厳しいダメ出し。番組のために購入したシャツだっただけに凹みましたが、数日後、「これを着なさい」とルリ子さんからグレイと白のツートンカラーのシャツが届いたのでした。

また、同年10月にビリー・バンバンのコンサートが町田であり、リンゴを担いで陣中見舞いに訪ねました。リハーサルを見学し、楽屋でリンゴを差し入れし、同時刻から始まるルリ子さん主演『検察側の証人』(ル・テアトル銀座)を観に行こうとしたら、ビリー・バンバンのオリジナルメンバーで弟・進さんとは高校時代からの友人せんだみつおさんがいらっしゃいました。

ビリー・バンバン兄・孝さんが私をせんださんに紹介しようとしたら、せんださんが「お会いしてますよね」 私「いえ。私が中学時代、せんださんが、はかまみつおさんのラジオでレポーターをやられている頃からファンでしたけど、お会いするのは初めてです。」せんださん「アレッ、そうですか?」すると弟・進さんが「荒井さんは田中邦衛さんと今年旅番組に出たから」と仰ったら、せんださんが「それです!観ました。私が忙しい時期に萬屋錦之助さんの『破れ新九郎』(1978・10~’79・3)に半年間レギュラー出演してたんですけど、邦衛さんもご一緒だったんですよ。その時、私が過労から病気になって入院した時に邦衛さんから見舞いに来ていただいたり、お宅に招いていただいたり、すごくお世話になったんですよ。だから、邦衛さんが旅番組に出るって珍しいと思って観ました。」

 

そこから話が盛り上がり、なかなかお暇できなくなり、ルリ子さんの舞台に遅れて駆けつけることになったのでした。このように、邦衛さんだからと「いい旅・夢気分』を観た俳優さんは多く、火野正平さん、岡本富士太さんなど思わず電話をくれた俳優さんもいたようです。岡本冨士太さんは嬉しさの余り電話口で泣きだしたそうです。当時、井川比佐志さんとドラマで共演中で、岡本さんが、撮影現場で井川さんに「昨日、邦さんが旅番組に出てるのを観ました。元気でしたよ。」と話すと、井川さんは「嘘だ!邦さんが旅番組なんて出るはずない!」と否定。それでも岡本さんが「だって、オレ昨日観たんですよ!」それを受け井川さんは「だったら、邦さんが若い時、ちょっと出た番組が放送されたんだろう」と、頑として受け付けなかったそうです。

井川さんは邦衛さんより4歳下ですが、俳優座養成所7期の同期で55年来の親友でした。ですから誰よりも邦衛さんのことは知っているという自負をお持ちだったのでしょう。このエピソードは奥様から伺ったのですが、改めて有難さが身に染みたものです。

 

この年は、役所広司さん主演の『最後の忠臣蔵』が12月18日に公開。邦衛さんと長年の付き合いの『北の国から』の杉田成道監督がメガホンを取った作品で、邦衛さんは奥野将監役でラストシーンに登場するだけですが重厚な存在感を発揮していました。

同年11月23日に、互いの誕生日を祝うために邦衛さんのお宅に伺い談笑していると、12月7日に丸の内ピカデリーで開催される『最後の忠臣蔵』プレミアム上映&舞台挨拶の案内状が目に留まりました。

私は、「役所広司さんに会いたい!」と想い、邦衛さんに「これ連れてってください!」とお願い。

 

『最後の忠臣蔵』プレミアム上映前に、帝国ホテルで。左から佐藤浩市さん、田中邦衛さん、役所広司さん(2010.12.7)

 

右から、田中邦衛さん、杉田成通監督、荒井(2010.12.7)

 

役所広司さんは、邦衛さんの俳優座養成所3期先輩にあたる仲代達矢さんとは師弟関係あることもあり、長年親しくされていて、邦衛さんから役所さんの話をよく伺っていました。そこで、まだお会いしたことのない役所さんに紹介してもらいたく、無理を承知でお願いしたのでした。邦衛さんは「こういう華々しいところには行ったことがないけど、それじゃあ行こうか」と快諾してくださいました。

 

かくして12月7日、田中ご夫妻とご一緒したのでした。上映前にマスコミ向け取材が行われる帝国ホテルへ。そこには主要キャストの役所広司さん、佐藤浩市さん、桜庭ななみさんが勢揃いしていました。役所さんと佐藤さんが大喜びで迎え、邦衛さんを2人で両脇で抱えて部屋の奥へと連れて行くのを追いかけねばならない事態に慌てました。

 

佐藤浩市さんとは、2007年10月20日に山形県東根市で開催した《第4回ひがしね湯けむり映画祭》でトークショーをご一緒していたので「お久しぶりです。」と挨拶を交わしてから、役所広司さんに「初めまして」とお挨拶。すると役所さんは「お会いしてますよね」 私は「いえ、初めてです。」 役所さん「お会いしたじゃないですか」 私「以前からファンでお会いしたいと思っていましたが初めてです。」 役所さん「山形からいらしたんですか?では(『十三人の刺客』を庄内映画村で撮影)山形でお会いした!」そこで、私はハタと気付き「あのう、今年6月に邦衛さんと旅番組に出して戴いたんですけど…」と言い終わらない内に「観た!観た!それだ!!それで会った気になっていたんだ。ごめんなさい」というやり取りがありました。

この出会いから、役所さんには独占インタビューをさせて戴いたり、2014年には、私が映画紹介をしているNHK仙台放送局『ひるはぴ』にも『渇き。』(6月)、『蜩ノ記』(9月)の2度出演戴き、『蜩ノ記』の時には一緒に来た小泉堯史監督に「この荒井さんて田中邦衛さんと親しい方なんですよ」とご丁寧に紹介戴き、恐縮したものです。

また、役所さん、佐藤さんと共に居た、桜庭ななみさんは振袖をきていたのですが、その着物が邦衛さんの奥様が結婚式で着て、娘さん2人も結婚式で着たものの柄と一緒だったという偶然もあり、邦衛ご夫妻と桜庭さんで写真を撮らせてもらいました。

 

丸の内ピカデリーでの舞台挨拶には、杉田成道監督、役所広司さん、佐藤浩市さん、桜庭ななみさん、田中邦衛さんの五人がステージに並んで、最初に主演の役所さんが「今日、この場に昔から尊敬し親しくさせて貰っている田中邦衛さんとご一緒できることが本当に嬉しいです。」と開口一番仰ったのでした。

帰りの車中で、邦衛さんに役所さんが邦衛さんのことを最初に仰ったことが嬉しかったと告げると「ヘェ〜、役所、そんなこと言ったんだ!」とおとぼけでした。

 

因みに邦衛さんが出演していた日本テレビドラマ『合言葉は勇気』(三谷幸喜脚本2000年7月〜10月)は役所さん主演で、役所さんから直接出演の依頼を受けたので出演したのを後に「役所に頼まれちゃあ断れねぇよ。」と語っていました。同様に、このドラマで共演した香取慎吾さんが邦衛さんを慕い、親しくされ、大河ドラマ『新撰組』(2004年・三谷幸喜脚本)で主演の近藤勇役に決まった時、養父・近藤周斎役には、香取さんから邦衛さんに依頼したことで邦衛さんは引き受け、初めて大河ドラマに出演さたのでした。それも「慎吾に頼まれちゃあ断れないよ」と役所さんの時と同様に仰っていました。

 

鶴岡市「加茂水族館」でクラゲ鑑賞(2008.7.7)

 

山形市門伝のバラ園にて(2008.7.8)

 

そして「荒井さん、大河って初めて観たけど、オモシロイね」と、真顔で語られたのが可笑しくて笑ってしまいました。2007年の《田中邦衛映画祭》の時、会場で主演作を観てもらいましたが、ご自身の出演作を映画館やホールで観たのは初めてだったそうですが、脇役俳優として年間10〜20本、映画やドラマに出演する日々を長年送ってきたので、じっくり映画やドラマを観るということが無かったことが伺えました。

 

《山形国際ムービーフェスティバル2013》に主演作『バナナとグローブとジンベエザメ』を引っ提げ監督・共演者5人と参加した中原丈雄さんが、インタビュー控室で私と会うなり立ち上がり「お会いしたかったです。」と仰るので、私は「どうして?」と問えば「私は田中邦衛さんを尊敬していまして、その田中さんと旅番組に出られていたでしょう。息子さんかな?と思ったら違う、山形の人だというので、すごく興味があったんですよ」との事でした。

それ以来、中原さんとは山形、東京で酒を酌み交わしたり、中原さんの銀座TACTでのバンドライブに足を運んだりと親しくさせて戴いています。それもこれも邦衛さんのお陰です。「虎の威を借りた狐」の表現が当てはまるとは思いませんが、邦衛さんに可愛がって貰っている荒井だからと認識してもらったことは確かで、感謝の想いしかありません。

 

邦衛の大スキな笑顔(2007.7「田中邦衛映画祭」にて)

 

『北の国から』名場面、五郎さんの「ホタルー、いつでも富良野に帰ってこいよ〜!」を再現してくださいました(2007.7「田中邦衛映画祭」にて)

 

お体の療養と、長年遠くに暮らしていた娘さん二人が近くに移り住んだことをきっかけに、山形に足を運ばれることはなくなりました。2014年7月19日から、車で2泊3日の山形旅で米沢~上山~山形~天童のゆかりの人たちを訪ねて廻ったのが最後でした。私も同年11月にお宅にとめて戴いたのを最後にお会いしておりませんが、ご家族水入らずで穏やかに過ごされることが、邦衛さんにとっては最良と思いますので、いついつまでもお元気でいて欲しいと心より祈念しております。

 

実の父は4年前に他界しましたが、邦衛さんを父のように慕う想いは一向に褪せるものではありません。

邦衛さんは、他人を悪くいうことは一切なく、声を荒げることもない。ただ、周りの人達を楽しませ、優しく包み込んでくれる。私には到底出来ることではありませんが、男として人として沢山学ばせてもらいました。

 

邦衛さんと山形・横浜を往き来した18年間は、私にとって至福の日々でした。

感謝の想いを込めて。

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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