だれかの散文

2020.2.7

第21回:山口岩男さんとの想ひ出


天童出身のミュージシャン山口岩男さんと昨年11月に出会う。

岩男さんはロックシンガーとして1989年にデビューし、FM山形で90年代半ばは「酒の九州」提供の音楽&トーク番組のパーソナリティ等もやり、聴いてもいましたが、酒場で酒を呑みながらゲストに話を訊き音楽をかけるというスタイルは、TOKYOエフエムで当時土曜の17時から放送していた「SUNTORY SATURDAY WAITING BAR AVANTI」と似た形式でした。

 

私は当時、山形放送ラジオで映画紹介や音楽リクエスト番組に携わっていましたが、「AVANTI」のような番組をやりたいと強く思っていたので、会ったことのない岩男さんを羨ましく思っていましたが、会うことはないだろうと漠然と思っていました。

東京暮らしが長く、プロのミュージシャンとして活躍しているのですから当然なのですが、彼の話す標準語が気取ったものに聴こえていたのも、その要因にはなっていたと思います。

 

《湯舟沢温泉開湯二百年祭》祝賀行事でのライブ翌日の、2019年11月11日朝、旅館で岩男さんと荒井

 

2019年11月10日村山市袖崎地域市民センターでの《湯舟沢温泉開湯二百年祭》祝賀行事でのライブ

 

ここ15年ほど懇意にさせてもらっている、村山市土生田の湯舟沢温泉旅館のご主人・大泉洋一さんが2018年11月ごろ、私に「山口岩男さんと親しくなって村山市民会館小ホールでコンサートをやるんです」と言っても、関心を示すことはありませんでした。

昨年11月10日に「湯舟沢温泉開湯200年イベント」が袖崎地域市民センターで開催され、山口岩男さんがギターの弾き語りで「湯舟沢音頭」「ちょすなず~袖崎哀歌」MCトークを聴いて、印象がガラッと変わりました。気取りのない山形弁での語り、そして山形弁を駆使しての歌。それも昭和のお婆ちゃんが使っていたような土着の山形弁。笑い、そしてホロリとさせられるものでした。

当日は、私も岩男さんも湯舟沢温泉旅館宿泊で宴でもご一緒したので個人的に話を伺い、岩男さんの波乱万丈のこれまでを知った次第でした。

 

2019年11月10日村山市袖崎地域市民センターでの《湯舟沢温泉開湯二百年祭》祝賀行事でのライブ

 

岩男さんは、東京オリンピックの前年1963年9月21日天童市に生まれました。祖父母・両親代々教員一家という環境で育ちます。小学校高学年になると拓郎・陽水・かぐや姫などを、友人の兄たちがフォークギターをかき鳴らし歌う姿に憧れ、6年生の時に天童第一小学校(現・中部小)の向いにあったサウンドプラザ双葉で買ってもらったというフォークギター。ここは電気店ですが、家電の他にレコードや楽器も扱っていたそうです。

中学性になると、月刊明星や平凡の歌本を見ながら、かぐや姫からビートルズまで幅広く演奏し歌うように。中二になると、KISSやベイシティ・ローラーズのようにエレキギターを弾きたいと親にねだるも「エレキはダメ」と断られ、新聞配達のアルバイトを半年ほどやり、貯まった3万円で夏に通信販売で購入。自分がエレキギターを購入すると、仲間に「ベース買え」、「お前はドラム買え」と勧め、楽器はできないがロック好きの友人にボーカルをさせて、自分はリードギターとしてバンドを始めたそうです。

高校は、天童市でも山形市でもなく、村山市の楯岡高校に進学。祖父が楯岡高校、母が楯岡小学校で教鞭を執っていたこともあり親近感を持っていたことが大きかったそうです。

他のバンド仲間は山形市の高校に進み、たまに天童駅で逢うと「ミュージック昭和や仙台でどうしたこうした」と訊かされ、環境の違いにコンプレックスを抱くも、「今に見ておれ!」とチャラチャラすることなくギターに専念できたそうです。

 

高校2年の時に天童フォーク村主催の「わたぼうしコンサート」が天童市民会館で開催され、一人で弾き語りを披露。それを観ていた人から勧められ、山形放送ラジオ公開放送番組『あぼんがぼん村』に出演し、オリジナル曲を2、3曲弾き語り。これが岩男さんの歌が電波に乗った最初の事でした。

そして封筒で貰った出演料の2千円。中には2,222円の源泉徴収票も入っていて、演奏してギャラを貰ったのもこの時が初体験で、本人曰く「勘違いの始まり」とのことでした。この時、付き添いできた友人3人に山形市内でラーメンを御馳走したそうです。

 

この頃は天童高校に通っていた仲間とバンドをやり、世良公則やCharのようにギター&ボーカルをやるようになり、尾花沢の雪まつりや地元神社の夏祭りなどに演奏で呼ばれるようになったそうです。高校時代もバンド三昧で、勉強はしてこなかったが後半に猛勉強して早稲田大学第二文学部に進学。大学では有名なバンドサークルがいくつもあったが小さなロック系サークルに入り、バンド活動を続けるも、同時に沢木口耕太郎や藤原新也に傾倒。一眼レフのカメラを購入し、東京の街を撮影しては文章を書き続け、漠然と表現活動をしたいと思うように。バンド活動にもそれほど熱が入らず、大学に通う意義も見いだせなくなり2年で中退。

アルバイトをしながら、ブルース・スプリングスティーンや尾崎豊、浜田省吾スタイルで曲を作り始め、デモテープを22歳くらいから、ソニーなど大手レコード会社のオーディション部門に応募し続けました。努力が実り1989(平成元)年、25歳の時にコロムビアレコードからデビューが決定。それも一押しアーティスト扱いだから期待の程が伺えます。

 

デビュー当時、1988〜1990年頃の写真。

 

デビュー当時、1988〜1990年頃の写真。

 

当時、岩男さんはシンコーミュージックに所属していましたが、同事務所のプリンセスプリンセスの「Diamonds」が大ヒット。そして時代はバブル絶頂期で、レコーディングに2千万円、宣伝費を併せると1億円をかけてもらう一大プロジェクトでした。アルバム「開戦前夜」での華々しいデビューから好調は続かず、5年間でアルバム5枚リリースするが、結果を残せず30歳で契約を打ち切られることに。

当時コロムビアレコードで担当ディレクターが一緒だった原田真二さんから「岩男君、ギターうまいよね。うちのバンド手伝ってくれない!」と誘われ、以降15年間、原田真二バンドのギタリストとして活動。傍ら、スタジオミュージシャンとしても、初期のケツメイシ、ケミストリー、SMAP、嵐などのレコーディングにギタリストとして参加。印税収入は、メジャーの表舞台でソロ活動していた時より遥かに上回り、安定したようです。

その上、趣味で始めたウクレレも持ち前の集中力で腕を上げ、ウクレレ・ブーム到来の波にも乗り32枚のインストゥメンタルアルバムをリリースするまでに。このアルバムの数はウクレレ界ではハワイ在住のハーブ・オオタさんに継ぐ世界2位だそうです。そしてハワイ、ニューヨーク、オーストラリア、タイ、台湾、韓国などに招かれ、ウクレレのインストコンサートを重ねる世界を股にかける活躍ぶり。“好きこそものの上手なれ”とは言っても、これは凄いことです。

 

ところが、この活躍の裏では、精神薬とアルコール依存に苦しみながらのものというから驚きです。2001年に教師をしていた4歳下の弟さんが34歳で心臓発作で急死したことをきっかけに、精神的ショックから時折、動機が激しく胸が苦しくなったり、呼吸困難にも陥るようになり、医師に診てもらと「パニック障害」「うつ病」と診断され、精神安定剤や誘眠剤を服用するように。精神薬服用時の飲酒は禁じられているが、「少量のアルコールは可」という医師もおり、その言葉を都合よく解釈し、飲酒し続けたようです。

50kg代だった体重は90kg近くまで増え、アルコール依存治療の入院も経験。合計35種類の精神安定剤を12年間飲み続け、その間、突発的に自殺をしようとしたり、生活も荒れ、2度の離婚を繰り返し、精神薬による内蔵への負担による体力低下、記憶障害は仕事にも影響を及ぼし、アシドリもおぼつかなくなるまで衰え、弱り、命の危険に直面するなど絶望の淵にあったようですが、現在の妻・恵里さんとの出会いにより、精神薬とアルコールとの腐れ縁を断つことに成功。

このことは岩男さんが2018年4月に上梓した本『「うつ病」が僕のアイデンティティだった~薬物依存というドロ沼からの生還~』(YUSABURU)に詳しく書かれています。

 

身体に悪いものを口から入れていたので、体と心を蝕んだ経験から、「口から入れるものの質を上げていけばいいのでは」との考えに至り、住んでいる神奈川県茅ケ崎で畑を借りて、夫婦で無農薬野菜を作り、食べ物についての講習会を訊きに行ったり、本を読み漁ったりと野菜や農薬、食品添加物等のことを勉強し「味噌作り」も始め、サーフィンや高尾山登山などの健康的生活を送るようになっていたら、体重も50kgと高校時代の頃に戻ったのでした。

 

岩男さんの母親は55歳で他界。父は81歳でお元気ですが、高齢となっての一人暮らしでの心配もあり、3年ほど前から天童市に頻繁に帰るようになっていました。

 

2017年5月上旬、友人永井清隆さんの誘いで、村山市の永井さんの山に山菜コシアブラと採りに行った帰りに、看板に誘われるように湯舟沢温泉に夫婦で初めて行き入浴。ロビーで奥さんが上がるのを待っていると、主人の大泉洋一さんから「どちらからいらしたんですか?」と声をかけられ「天童出身ですけど、神奈川に住んでいます。こちらの楯岡高校出身です」というと「私も楯高です。失礼ですけど何年生まれですか?」「昭和38年です。」「だと私がお世話になってる税理士の平山康介さんと同じではないですか?」「同級生です!」

 

村山市ホースガーデンにて。2017年10月

 

村山市ホースガーデンにて。2017年10月

 

この湯舟沢温泉での岩男さんと大泉さんとの出会いから、山形での快進撃が始まるのでした。直後に、平山さんを中心に、大泉さんも実行委員となり、2017年10月11日に村山市のホースガーデンで80人ほどを集めコンサートを開催。その際、「かえずのながさはえずばへっで」という山形弁ラップ調の曲を唄ったら、それが大うけ。CD化はせず、遊び心で唄っていた曲でしたが、観客からCD化を熱望されるのでした。

 

村山市民会館(小ホール)にて。2018年7月11日

 

村山市民会館(小ホール)にて。2018年7月11日

 

村山市民会館(小ホール)にて。2018年7月11日

 

2018年4月には前述した本を出版。6月に山形放送ラジオに本のPRのため電話で出演。そこでデモ音源ではあるが「かえずのながさはえずばへっで」をかけてもらったところ、さくらんぼ収穫の時期で、農作業をしながら聴いていた人たちにズバリ嵌り、山形放送に「CDが欲しい。どこで買えるのか?」と問い合わせが殺到。同様に書店でCDも扱う八文字屋にも問い合わせや注文が相次ぎ、慌てて同年7月、従来のデータを整理してCDを制作。Amazonも含めアッと言う間に2千枚が完売。そして同月7月11日には、村山市民会館小ホールで400人を動員しコンサート。12月2日には河北町谷地サハトベニバナで800人を集めコンサート。

 

2019年11月10日村山市袖崎地域市民センターでの《湯舟沢温泉開湯二百年祭》祝賀行事でのライブ

 

当日夜、湯舟沢温泉旅館での懇親会で弾き語りをする岩男さん。

 

年が明けた2019年2月には岩男さんをドキュメントした山形放送制作のラジオドキュメンタリー番組「ハワイアンミュージシャンが山形弁シンガーになった理由」が、AMラジオ34局ネットの「録音風物誌」枠で放送され、大きな反響を呼びました。同年4月からは、山形放送ラジオ「山口岩男の方言RockNight★」(毎週水曜午後9時から午後9時15分)が開始。同年11月2日には、天童市民文化会館大ホールで1200人と超満員の中、凱旋コンサートを果たしたのです。

 

天童市民文化会館大ホールにて。2019年11月2日

 

天童市民文化会館大ホールにて。2019年11月2日

 

天童市民文化会館大ホールにて。2019年11月2日

 

天童市民文化会館大ホールにて。2019年11月2日

 

私が岩男さんに出会ったのは、この熱気冷めやらぬ11月10日のことでしたが、それまでは無関心で蚊帳の外にいたので、遅ればせながらの山口岩男体験だったのです。

 

湯舟沢温泉旅館での懇親会で弾き語りをする岩男さん。

 

語り合う岩男さんと旅館主人の大泉洋一さん。

 

7月にリリースしたアルバム「山形魂」は、笑えて、深く頷き、ホロリとさせられます。これは全国に広めねばと思わせられる名盤!この中の1曲「さぁすけね」は人生の応援歌として歌い継ぎ、タイトルも令和の「ドンマイ」として流行語大賞に推したくなるものです。

 

岩男さんは、地元の子供たちが標準語を駆使することに違和感と危機感を抱き、山形弁を子供たちが堂々と話せるようにならねばいけない。グローバリゼーションに押し流されることなく山形の文化・歴史・自然に誇りを持って欲しいと熱弁します。

 

 

岩男さんは、山形での快進撃のきっかけを与えてくれた湯舟沢温泉を「開運の湯」と言います。その開運の湯がある村山市で、ホースガーデン、村山市民会館小ホールに続く3度目のコンサートが、今年2月22日(土)14時から村山市民会館大ホールで「GOGO!むらやま夢大学 山口岩男講演会&ライブ(方言で取り戻すこころのつながり〜 先祖とのつながりの中に見つけた、心と体の健康法)」と題し、講演会&ライブという形で開催されますが、発券開始から約1週間で、すでに満員となっているようです。

 

ギターを弾きながら、岩男さん登場。

 

軽快なステップを踏みながら、ノリノリで唄う岩男さん。

 

ピアノ弾きながら、楯岡高校校歌を熱唱。

 

令和2年2月22日と2が四つも並ぶ日、遂に村山市民会館大ホールでコンサートが開催されました。岩男さんにとって“開運の湯”である湯舟沢温泉があり、母校・県立楯岡高等学校(2016年3月末閉校、4月山形県立東桜学館中学校・高等学校に統合)のすぐ近くにある村山市民会館大ホールでのコンサートは、郷里にある天堂市民文化会館大ホールで、昨年11月2日に開催したのと同様に“凱旋コンサート”の意味合いを持っていました。

 

当然の如く、1,000人のホールには開場1時間前から長蛇の列ができていました。14時開演。岩男さんは、会場半ばの入場口から登場してエレキギターを掻き鳴らし、観客はのっけから興奮の坩堝!

 

昨年7月ななリリースした名盤「山形魂」に収録した「ちょすなず〜袖崎哀歌 」「アグドサクロポス」「かえずのながさ はえずばへっで 」「蔵王さ★んぐべ」「ヘクサンボの唄」「ちぇっとこちゃ来い」「山形育ち」「なんぼでもたがてげたんともてげ 」「さぁすけね」を、山形弁トークを挟みながら爆笑と感動が交互に押し寄せました。

「最上川舟唄」は長井市出身のケーナ奏者・金子勲さんの伴奏でブルースの如く熱唱。“開運の湯”湯舟沢温泉の地元「袖崎民謡会」の方々の踊りをバックに岩男さんが手を加えて完成させた「湯舟沢音頭」を初披露する場面も。

 

袖崎民謡会の方々と法被姿で「湯舟沢音頭」を披露。

 

平山康介応援団長のエール。

 

金子勲さんのケーナ演奏で唄う岩男さん。

 

後半には母校・楯岡高校の校歌をピアノを自ら弾きながら1番は朗々と、2番は軽快に歌い、拍手喝采を浴びました。会場には卒業生も沢山座っていたでしょうから、閉校になってしまった母校を想い、目頭を熱くした方も多かったと思います。ラストナンバー「さぁすけね」は、会場と一体になっての大合唱で大団円。アンコール前からには「山口岩男後援会」事務局長で楯岡高校同級生の平山康介さんが、高校時代に応援団長だったことからステージで力強く友情のエールを贈る場面もあり、笑いと涙に包まれた温かいコンサートでした。終演後ロビーでのCD,本の即売も岩男さん自らおこない、一人一人に丁寧にサイン、握手・記念撮影に応えている顔は幸せに満ち溢れていました。

 

アンコールにこたる岩男さん。

 

山口岩男さんはお母さんが亡くなった56歳になりました。34歳で夭折した弟さんの死から19年。二人の想いも背負いながら今年から、お父さんの住む懐かしい天童市に拠点を移し、妻・恵里さんと二人三脚で真っ直ぐ歩き続け、山形から全国、世界に音楽を発信してくれることでしょう。

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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