だれかの散文

2020.4.20

第24回:赤嶺賢勇さんとの想ひ出


今年3月19日(木)から3月31日(火)まで開催予定だった、令和最初の「第92回 選抜高校野球大会(以下センバツ)」は、新型コロナウィルス流行により大会史上初めて開催が中止となりました。

山形県からは鶴岡東高校が51回大会以来41年ぶりの出場が決まっていたのですから、選手及び関係者の無念の想いは計り知れないものがあります。因みに前回は、切れ味鋭いシュートを駆使した君島厚志投手がエースだった鶴商学園時代でした。

 

そこで、今回は、涙を呑んだ32校の無念の想いも込めて、これまで春のセンバツで強く印象に残った選手について書きたいと思います。

 

甲子園で投球する金子隆投手と佐藤淳一三塁手(元日大山形三塁手・佐藤淳一さん提供)

 

センバツは、雪融け直後に開催されることになる東北・北海道の学校にとって、現在のように室内練習場など環境が整う以前は、満足な練習ができないまま臨まなければならなかった為、関東以西の学校から勝ち星を挙げるのは至難の業でした。その意味で1975年春の第47回大会では、北海道・東北の代表4校がそろって1回戦で西の学校を破り、2回戦に進んだため、当時の新聞には、“雪国勢強い” “雪国旋風”の見出しが躍ったのでした。

この大会に山形県代表・日大山形が出場。切れのある速球とカーブを投げる本格派の金子隆投手を擁し、打線も強力で、県勢初の甲子園2回戦突破の期待が持てる好チームでした。

 

別角度 三塁側から見た金子投手(元日大山形三塁手・佐藤淳一さん提供)

 

初戦は3月28日、対戦相手は地元・大阪代表・初芝高校。プレーボールは今にも雪が降りそうな寒さの午後5時過ぎで、寒さはお手の物の金子投手は強豪を相手に6安8奪三振で完封。打線も5点を奪い5–0の完勝でした。因みに金子投手を擁する日大山形は、2年時の’74年秋の東北大会では秋田商(5–3)盛岡一(6–1)仙台育英(6–2)を撃破し優勝。そして同年11月の『第5回 明治神宮大会』準決勝で広島の崇徳高校を相手にノーヒット・ノーランを演じての12–0で快勝。決勝の福井商戦は1–2で惜敗しましたが、県勢初の全国大会準優勝を飾る程の実力校でした。明治神宮大会は昨年で50回を迎えましたがノーヒット・ノーランを達成たのは、この第5回の日大山形の金子投手だけです。

 

1974年秋の神宮大会で金子投手ノーヒット・ノーランの快挙を報じる山形新聞(元日大山形三塁手・佐藤淳一さん提供)

 

偉業を成し遂げた日大山形の金子隆投手ですが、私と同学年で身長は169センチと小柄。しかも、このチームの3塁手・5番打者の佐藤淳一選手は、私とは山形二小・三中の同窓で山形三中野球部のチームメイトということもあり、身近に感じられる存在でした。しかも、中学3年時には金子投手の上山南中と私が在籍した山形三中は練習試合で対戦し、我が三中の長門浩投手と金子投手という両速球派の投げ合いは延長に入っても決着が付かず0–0の引き分けに終わったのでした。

 

日大山形 三塁手の佐藤淳一選手

 

長門投手は佐藤選手同様、私と小・中学と一緒の上、子供会も一緒で夏休みに開催される「子供会対抗ソフトボール大会」は私が三塁手で先頭打者、長門君がショート兼投手で4番打者として活躍し初優勝を飾ったものでした。山形三中では「中体連山形市大会」で優勝するも「県大会」では3位に終わりました。この時、東北大会で優勝したのが金子投手率いる上山南中でした。長門君は一浪して山形南高校理数科に進学し野球部に所属。

 

第56回 全国高校野球大会。東洋大姫路相手に投球する山形南高の長門浩投手(1974年8月甲子園球場) *当時の捕手・野川芳雄さん(天童市)提供。

 

日大山形が秋の神宮大会で準優勝を飾った1974年夏の甲子園大会に、山形県・宮城県代表で山形南高が出場。1回戦で地元兵庫代表の東洋大姫路と当たり2–5で敗れましたが、長門投手は1年生ながらリリーフ登板し東洋大姫路打線を1回 3分の2ながら速球で詰まらせ零封。それは、大会終了後に野球雑誌「週刊ベースボール」に長門投手の投球写真が掲載される程のものでした。

 

長門君と私は、小学校時代は私が一方的にライバル意識を抱き、中学ではチームの大エースと外野の控え選手となり、そして高校では彼が甲子園で投げているのを、土建会社のアルバイトで炎天下に上半身裸で汗にまみれ力仕事をしながらラジオで聴いている身という、どうしようもない差が開いてしまった現実にちょっぴり苦い想いをしながらも、苦楽を共にした仲間が檜舞台で高く評価されたことに誇らしい想いになったものです。

 

1975年《第47回選抜高校野球大会》に話を戻します。

 

金子隆という稀なる好投手を擁する日大山形は、満を持してセンバツに臨み、1回戦の相手、強豪・初芝高(大阪)5–0で難なく下したのですが、初芝の竹井監督に「どうあがいても勝てる相手ではなかった」と言わしめるほど力の差を見せつけたのでした。2回戦の相手は沖縄県立豊見城高校。後に沖縄水産高校なども率い名将の名を欲しいままにする豊見城高の栽弘義監督は、このとき野球部部長としての参加でしたが、甲子園初出場でまだ無名の存在でした。当時の沖縄は米国の占領統治からの復帰後まだ3年。山形県同様に甲子園後進県のイメージが強かったのです。しかも豊見城高は初出場で無名の県立高校。前評判も低く、ここもたやすく突破できるはずでした。ところが、豊見城高校は1回戦で、優勝候補の一角、習志野高(千葉)を3対0で下し、俄然注目を集めるようになります。特に、この年夏の大会で全国制覇する習志野の強力打線を、2年生エース赤嶺賢勇投手が10三振を奪い、2安打に抑え込んだのです。16歳で童顔の甘いマスクの投手は一躍脚光を浴びたのでした。

 

日大山形の金子選手、豊見城戦でスクイズ失敗で三塁手からタッチアウト!

 

この大会は、金属バットが初めて採用されたため、大会通算本塁打数は、従来の最多記録8本をあっさり11本に塗り替えたのでした。3月28日の開会式直後の第1試合、倉敷工業対中京高校という古豪対決が象徴的で、スコアは倉敷16–15中京という記録的乱打戦(本塁打倉敷2・中京1)で開幕。高知高と東海大相模の決勝戦も壮絶な打ち合いになり5–5で延長に突入すると十三回、高知が一気に5点を挙げ、高知県勢初のセンバツ優勝を果したのでした。両チーム合わせて26安打、15得点は優勝戦の記録を更新。木製に比べ飛距離が出やすく、球足が速い金属バットの登場は、打高投低となる高校野球の戦い方にも大きな影響を与えました。 そんな中で、赤嶺投手と金子投手が、初戦に強豪を相手に完封勝利を収めたのは特筆すべきことでした。そして、共に弱小県のイメージが強かった山形県と沖縄県代表は、従来の固定観念を覆して高い注目度のなか4月2日に2回戦で激突したのでした。結果は豊見城4–2日大山形と、沖縄豊見城高校に軍配が上がったのでした。

 

豊見城  1 0 3 0 0 0 0 0 0 4
日大山形 0 0 0 1 1 0 0 0 0 2

 

赤嶺投手は、9回 打者38人 被安打9 奪三振7 与四死球3 自責点2
金子投手は、9回 打者39人 被安打9 奪三振5 与四死球1 自責点3

 

数字が表すように両投手、互角の投げ合い。長打は、豊見城が新垣の三塁打、日大山形が生駒、金子が2塁打を1本ずつ。盗塁は日大山形小林1、残塁は豊見城8、日大山形9で犠打が豊見城2、日大山形2で打線も互角でした。勝敗を分けたのは豊見城2、日大山形3の失策でした。雪国のハンディが出てしまったのか日大山形に守備の乱れが出て、3回までに豊見城が4点を先取。日大は赤嶺に封じ込まれていましたが、4、5回と長短打で 1点ずつ返し2点差にします。後半は、日大が再三得点圏に走者を送り押し気味に進めるも、要所でかわされ4–2で豊見城に惜敗。県勢初の3回戦進出ベスト8の夢は砕け散りました。

両校ともに9安打、残塁が日大9、豊見城8と記録の上では互角でしたが、内野守備エラーやサイン見落としによるスクイズ失敗など肝心な場面でのミスが勝敗を分けたのでした。甲子園には魔物が棲んでいるとはよく言ったものです。

 

第47回 選抜高校野球大会 1回戦。習志野高校相手に投げ込んだ沖縄豊見城高校2年の赤嶺賢勇投手(甲子園球場)

 

習志野、日大山形を撃破した豊見城は準々決勝に進出。これは沖縄県勢初のベスト8進出の快挙でした。待ち構えていた対戦相手は、優勝候補筆頭の東海大相模。原貢監督率いるこのチームの主力は原監督の息子で2年生の三塁手・原辰徳(東海大-巨人-現・巨人監督)と、同じ2年生で左の強打者・津末英明(東海大-日本ハム-巨人)、2年生エースの左腕・村中秀人(東海大-プリンスホテル-現・東海大甲府監督)ら蒼々たる顔ぶれ。前年夏の甲子園で1年生ながら定岡正二(巨人)がエースの鹿児島実業と激闘を演じて、太田幸司(青森三沢高校1969年)以来の高校野球界屈指のアイドルとなった原辰徳は、その甘いマスクと抜群の長打力で注目の的に。 当時の高校野球界は原辰徳を中心に回っていると言っても過言ではない程、絶対的人気を博していました。

 

そのスター軍団に胸を借りるように挑んだ豊見城は、原・津末と同学年の赤嶺賢勇が臆することなく最高のピッチングを披露。175センチ・65キロと決して大きくない体躯ながら、躍動感溢れるフォームから投げる直球・カーブ共に切れ味鋭く、制球力も抜群で、東海大相模自慢の強力打線のバットはことごとく空を切り、沈黙。豊見城打線は、好投手の村中から安打を重ね再三塁上を賑わしますが、のらりくらりと要所を抑えられ、中盤まで0-0の緊迫した投手戦。豊見城は、7回に村中から4安打を集中して 待望の先取点を挙げます。東海大相模の前に仁王立ちの赤嶺は8回まで散発の4安打・奪三振11の快投。この1点は赤嶺の調子からすれば安全圏。誰しもがこのままゲームセットを迎えるものと思いました。9回裏、3番 原辰徳からこの日2度目、計12個目の三振を奪い簡単に2死を取り、あと一人で完封勝利。対する打者は4番 津末。津末は赤嶺渾身のストレートを引っ張ると打球は一塁線の強いゴロになり、ベースに当たりファールラインに転がり2塁打となりました。赤嶺の張りつめていたものがここで途切れてしまったのか球威がガクっと落ち、後続に連続ヒットを浴び、同点。なおも1・2塁の場面で、7番打者がファースト後方に打ち上げたフライを1塁手が落球し、二塁走者が生還。豊見城が掴みかけた金星が土壇場でこぼれ落ち劇的なサヨナラ負け。投球内容では村中を凌駕した赤嶺でしたが、勝利の女神に見放されたというか甲子園に棲む魔物が今度は豊見城を襲ったようでした。

 

赤嶺:08回2/3 打者34人 被安打08 奪三振12 与四死球00 自責点02
村中:09回    打者37人 被安打13 奪三振07 与四死球02 自責点01

 

9回裏2死無走者0–1の絶体絶命のピンチから薄氷の勝利を掴み取った東海大相模は、翌5日の準決勝で堀越学園を6–2で下し、6日の決勝戦、高知高を相手に15安打の猛攻をみせますが、延長13回に力尽きて10対5で敗れ準優勝に終わりました。この試合での両軍合わせて26安打は決勝戦での史上最多でした。

 

一躍“沖縄の星”と注目されるようになった赤嶺賢勇投手は、高校生活最後の甲子園、’76年夏の大会でも豊見城高校を再びベスト8に引き上げ、この年秋のドラフト会議で巨人から二位指名を受け入団。赤嶺投手は“沖縄の星”→“甲子園の星”→“巨人の星”と順風満帆に成功への階段を駆け上がっているように思えたが、本人の意識は少々違っていたようです。

 

巨人時代の赤嶺賢勇投手

 

以下は、後年、赤嶺さんと出会い親しくさせてもらうようになってから、直接伺ったものです。

 

高校三年になった’76年、春のセンバツに出場する時の関西地方は例年にない冷え込みでした。温暖な沖縄から来た赤嶺さんは、ランニングをしてもなかなか体が温まり切らなかった。それでも、そのまま投球練習を開始する。ほどなく右肋膏に激痛が走り、痛みがとれないまま、一回戦の土佐高校を相手に先発。予選から赤嶺投手一人に頼って勝ち上がってきたチーム事情もあり、控え投手に甲子園のマウンドを任せるわけにはいかなかった。土佐高を相手に完投するも4–3で惜敗。

 

赤嶺さんは沖縄に帰り、直ちに病院で診てもらうと、なんと肋膏は折れていたのでした。全身をバネのようにして投げる赤嶺さんが、右肋骨を骨折し、痛みに耐え、胸を張れない状態で完投した事実には驚くばかりですが、その代償は大きかったのです。骨折が癒えても、あの全身を使い弓がしなるようなフォームは戻ってきませんでした。

 

強打の東海大相模、習志野をキリキリ舞いさせた二年生の春のセンバツの時は、「低めのストレートがホップする感覚があった」そうですが、以降その感覚を味わうことはありませんでした。この大会が投手としての最盛期だったのでしょう。しかし、三年生の夏の甲子園でも、鹿児島実業高、小山高、星稜高の強豪3校を相手に合計2点しか与えていないのですから、如何に投手として卓越したセンスを持ち合わせていたのかが伺えます。その赤嶺さんが「(自分が絶好調だったあの大会で)最も手ごわかったのは東海大相模でも習志野でもなく日大山形だった。」と述懐してくれたのは嬉しい限りです。

 

ベストピッチングを取り戻せない状態での巨人入団でした。フォームのバランスが微妙に崩れたままだったためか、1年目の後半で右肩を壊し、二軍生活が続きました。それでも天性の投手センスでカバーし、一軍で中継ぎとして数試合投げることはありましたが、勝ち星を挙げるまでには至りませんでした。“甲子園の星”から“巨人の星”へと鳴り物入りで入団したこともあり、本人のプレッシャーとストレスは相当なものだったでしょう。そんな赤嶺さんの支えとなったのは一人の女性の存在でした。’77年、新人時代 の赤嶺さんは二軍スタートで、イースタン・リーグを戦うチームに帯同していました。

 

その日の試合会場は、山形市営球場。彼女は、ミス花笠として監督へ花束を贈る役割を担っていました。彼女の名は柴田真由美さん。真由美さんは野球に関心がなく、赤嶺さんが甲子園のアイドルだったことも、巨人の星として嘱望されていることも知りませんでした。共に19歳の二人は球場で出会うやいなや恋に落ちました。驚いたことに、初対面で二人とも「この人と結婚する」と感じていたのです。因みに私は、この日の試合を山形市営球場で観戦し、試合前の花束贈呈も目撃していましたが、二人の「ビビビっ!」には気付くはずもありませんでした。

 

そして二人の東京と山形の遠距離恋愛はスタート。赤嶺さんは練習と試合に明け暮れる日々のため、会えるのは年に数回だけ。電話で話すにも、赤嶺さんが寮住まいのため取りついでもらわなければなりませんでした。携帯電話もEメールも無かった時代の遠距離恋愛は5年問に及びましたが、互いに感じた第一印象の思いは色褪せることなく、より確かなものになり、’82年12月に結婚。

 

家族を抱え「さあ、これから」という矢先の’83年秋、赤嶺さんは巨人を自由契約になり退団。真由美さんのお腹には愛の結晶が宿り、悲嘆にくれている暇はありませんでした。赤嶺さんは大手運送会社に就職。’84年春から長距離トラックのドライバーとして新たな人生を踏み出します。元々、人気プロ野球選手を好きになったのではなく、赤嶺賢勇という一青年を好きになっただけの真由美さんは、夫と一緒に歩いていければそれで幸せでした。そしてこの時、長男・悠也さんを出産。続いて長女・桃子さんも誕生し、東京での赤嶺家の暮らしが軌道に乗ってきた時、真由美さんの妹さんが嫁ぐことになったという知らせが入りました。

二人姉妹の長女の真由美さんは、両親のそばに居てあげたいという思いが強く、8人兄弟の末っ子である赤嶺さんも同意し、1989年山形に越してきたのでした。 以来、山形市に根を下ろして暮らしているのです。

 

赤嶺さんがトラックのドライバーとして歩み始めた時に誕生した長男の悠也さんは、あの時の甲子園で最も父をてこずらせた日大山形の外野手としてドラフト候補に挙がるほどの活躍をしましたが、県大会決勝で敗れ甲子園には行けず、プロ球団からの指名をされることはなく、電電東北で野球に励んだのでした。因みに、電電東北は、1975年センバツで赤嶺さんと投げ合った日大山形の金子隆投手も活躍していました。

 

赤嶺賢勇さん。2014年9月山形駅前飲食店にて

 

現在もトラックのハンドルを握る赤嶺さんの夢は、山形県の高校球児の指導をすることでした。たまに会えば「高校野球の指導がしたい。自分が沖縄豊見城高校で裁監督から教わったことを山形の高校球児に伝えたい」と熱く語ってくれました。ところが、日本の野球界にはプロ・アマ規定というものが長年立ちはだかり、指導することはできないのでした。

1961年、中日ドラゴンズが日本生命の柳川福三選手と強引に契約。これに社会人側が激怒し、プロ野球との関係断絶を宣言したのでした(柳川事件)。日本学生野球協会も賛同し、プロとアマには高い壁ができ、以来、野球界では長らく、プロフェッショナルとアマチュアが相いれない存在となっていたのでした。 それが、52年間の長いトンネルを潜り抜け、2013年に「学生野球憲章」が大幅に改定され、元プロ野球関係者が学生野球(大学、高校)を指導する道が大きく開かれました。それが、【学生野球資格回復制度】 です。

 

赤嶺さんも2014年3月4日に「日本学生野球協会認定学生野球資格回復」適正認定者となり、晴れて高校球児を指導できるようになったのですが、未だにその願いは叶わないままです。

 

赤嶺さんとともに何度も食事をご一緒させていただいた。

 

あの16歳だった若武者が、今年5月20日で62歳になります。かつてのライバル金子隆さんが、今年度から宮城・東松島市に誕生した新設高校「日本ウェルネス宮城」の男子硬式野球部監督に就任しました。赤嶺監督と金子監督が率いる高校の対決を観たいというのは今の私の願いです。

 

そして、もうひとつ。金子投手が活躍した日大山形のチームメイト。5番打者で三塁手の佐藤淳一君は、前記したように私の山形三中時代のチームメイトでもあります。彼は、対豊見城戦で、赤嶺投手から肩に死球を受け、守備では三塁手としてゴロをトンネルするという致命的失策をしています。奇しき縁で、彼は、沖縄の女性と結婚して現在は沖縄で暮らしてタクシー会社の所長をしています。

 

この二人を対面させ、投手と打者で45年ぶりに時空を超えた対決をさせたいというのがささやかな願いです。

 

5月20日で62歳になった赤嶺さんが山形に住んで31年。いわば人生の半分を山形市で過ごしていることになります。それでも故郷”沖縄愛”の深さは一向に衰えていないばかりか増す一方だと思います。

2010年「第92回全国高等学校野球選手権大会」 で沖縄興南高校が優勝した翌月に赤嶺さんとお会いした時「この夏、沖縄興南が優勝した時、いつ死んでもいいと思った」と昂揚して語られたことを付記しておきたいと思います。

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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