だれかの散文

2020.8.4

第26回:加藤登紀子さんとの想ひ出


新型コロナウイルス感染拡大の影響は音楽界にも大きな影響を及ぼし、3月から7月にかけてのコンサートは軒並み延期及び中止となってしまいました。先日も人気バンドいきものがかりの9月19日から11月14日にかけて6都市7会場12公演予定されていた「いきものまつり2020 〜結成20周年だよ!! お祝いしまSHOW!!!」の中止が発表。秋に予定されていた20周年コンサートの中止を6月に入って直ぐに発表したことに状況の深刻さが伺えました。

 

そんな中、歌手の加藤登紀子さんが6月28日、東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールで行いました。2,150人を収容するオーチャードホールですが、客席をその半分以下となる990人に制限。観客が密集しないよう入場の列は前後を空けるソーシャルディスタンスを保ち、終演後は座席の列ごとの規制退場に。当日の会場では、マスク持参、サーモカメラによる検温、手指の消毒、また、感染者が発生した際の緊急連絡のため全観客が氏名、電話番号、座席番号を専用の用紙に記入し、提出するなどコロナ感染対策を徹底したうえでの開催となったのです。

 

今年6月28日、Bunkamuraオーチャードホールでのコンサートポスター

 

『加藤登紀子 55th Anniversary コンサート「未来への詩」with Yae』のタイトルのコンサートは、午後4時過ぎに開演。冒頭で登紀子さんは「(収容人員の)50%、1000人までならやってよしということで、神の声、天から声が降って来ました。“お登紀さん、あなたでしょう”と」と経緯を説明。代表曲「知床旅情」、「百万本のバラ」、「愛の讃歌」や、医療従事者やコロナ感染者とその家族を応援する「この手に抱きしめたい」等を、次女でシンガーソングライターのYaeさんとのコーナーも加え、18曲を20分の休憩をはさみ午後6時半前まで熱唱。最後は、観客に「みなさん、くれぐれもコロナに感染しないように。今後、何が起きようと素晴らしい人生を」と語りかけ、「また元気でお会いしましょう」とエア・ハイタッチで締め括りました。

 

観客からは、「久しぶりのコンサートはすごくよかった」「コロナ感染防止対策もちゃんとできていてよかった」「登紀子さんだからできた。これに続いてくれると嬉しい」などの声が聞かれました。 登紀子さんは、「一つのコンサートで、これだけ作り上げてきたコンサートは初めて。今日歌って、自分の歌が新鮮に感じられた」と、感慨もひとしお。何より「ホッとした」のではないでしょうか。

 

登紀子さんはデビューから55年。歌謡界を見渡しても、先輩と言える存在は北島三郎さん、水前寺清子さん、加山雄三さんくらい。今もコンスタントにコンサートをするミュージシャンとしては最長老といえる存在としての使命感から、批判も覚悟の上でのコンサート決行だったのでしょう。私は、長年のファンとして彼女のこの度のコンサート開催に拍手を贈りたいと思います。

 

加藤登紀子さんは、1943年(昭和18年)旧満州ハルビン市生まれ。2歳の時に実家が京都に引き揚げ、中学1年で東京に転居。都立駒場高から東大文学部に進み、在学中の65年に「日本アマチュアシャンソンコンクール」で優勝し、歌手デビュー。66年に2枚目のシングル「赤い風船」で日本レコード大賞新人賞を受賞。その後は「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」「この空を飛べたら」「百万本のバラ」「時には昔の話を」など数多くのヒット曲を送り出し、80枚以上のアルバムを生み出し、国内外の各地でコンサートを精力的に行うなど、55年間の長きに亘り第一線を走り続けてきました。

 

そんな登紀子さんに私が出会ったのは1997年3月19日、米沢市民文化会館でのコンサート前のインタビューでした。

当時の私は、山形放送ラジオ午後のワイド番組「ハッピーロード」の中で「シネマしま専科」という20分間の映画紹介コーナーを毎週火曜日に担当していました。高畑勲監督、村川透監督、田中邦衛さん、西田敏行さんなど映画人へのインタビューはしていましたが、歌手・ミュージシャンへの経験はありませんでした。しかし、加藤登紀子さんが米沢市にコンサートでいらっしゃるという情報を得て、「会いたい!話を訊きたい!」の強い想いから、「シネマしま専科」でインタビューできないものかと思案。

 

登紀子さんは高倉健さん主演『居酒屋兆治』(降旗康男監督1983年)で、健さん演じる主人公英二の妻を演じ、健さんが唄った主題歌「時代遅れの酒場」も登紀子さんの作詞・作曲でした。それから宮崎駿監督『紅の豚』(1992年)で主要人物ジーナの声を演じ、主題歌「さくらんぼの実る頃」と「時には昔の話を」を唄っていました。この2作品についての話ならば「シネマしま専科」で堂々とインタビューを申し込める!と思い立ち、登紀子さんの事務所に恐る恐る依頼したところ快諾戴き、晴れてインタビューをさせてもらうことに。

 

米沢市民文化会館の楽屋でお会いした登紀子さんは、自然体で私を迎えてくれました。これは、誰に対してもそうなのが、後になって何度も体験することになります。

「登紀子さんのデビューは1966年、私が小学3年のときですね。現役東大生がシャンソンコンクール優勝の実績を引っ提げてのもので『赤い風船』でレコード大賞新人賞を受賞により華々しい歌手生活をスタートされましたが、それから程なくいらっしゃらなくなりましたよね?!」と私の一方的な印象を冒頭で申し上げると「え、いなくなった?」と登紀子さんは怪訝そうな顔をされました。失礼なことを行ってしまったのか?!と慌てた私は「当時、小学校3年生だった私にとってはテレビの中のことが全てで、テレビには出なくなってフォークシンガーとしてライブ活動をなさっていることを知らなかったものですから、69年に「ひとり寝の子守唄」をギターの弾き語りをされているのを見て気づいた次第でした(^_^;)」と苦しい弁明。

 

そうすると登紀子さんは「ひとり寝の子守唄」は、当時、恋仲だった学生運動のリーダー藤本敏夫さんが1968年「10・21国際反戦デー」のデモを率い、逮捕され1969年6月まで8か月拘置所に拘留され、その愛しい人を想って作ったことを教えてくれたのでした。

そうでした。登紀子さんは藤本さんが獄中(中野刑務所)にいた’72年5月に入籍。それは藤本さん収監から2週間後のことでした。身重だった登紀子さんは同年12月に長女・美亜子さんを出産、と“激動の時”がこの歌には込められていたのです…。気持ちを取り直して、私が『おもひでぽろぽろ』山形編コ―ディネーターを務めて、スタジオ・ジブリの方々と親しくさせて戴いていることを申し上げてから、宮崎駿監督『紅の豚』のエンディングで流れる登紀子さんの「時には昔の話を」が大好きであることを主張し、「あの、’60年代後半、学生運動に燃えた男たち、今はどうしてる?不甲斐ないんじゃないか!という登紀子さんの想いが込められているんじゃないですか?」と問いかけたら「実はそうなのよ。」と登紀子さんの男たちへの想い、そして、宮崎駿監督、鈴木敏夫プロデューサーとのことなど話して下さり、他にも『居酒屋兆治』で高倉健さんの妻を演じた際の健さんとのエピソードも興味深いものでした。

 

登紀子さんは、ご夫妻にとって“人生の師”である川西町出身の社会活動家で、青年海外協力隊の提唱者でもある寒河江善秋さんのご縁で70年代から山形には何度も足を運んでいたそうです。善秋さんの山形市在住の弟子仲間の娘さんが私の中学時代の同級生という共通の話題もあり、大いに盛り上がったのでした。

 

登紀子さんは、この1997年から「さよなら私の愛した20世紀たち」と銘打ったアルバムをシリーズで10枚リリースするのですが、有難いことにリリースごとに贈って下さるようになったのでした。それは、登紀子さんのオリジナル曲だけではなく「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」「アナク(息子)」「百万本のバラ」「愛の讃歌」「さくらんぼの実る頃」等を時空や国境を超えた歌、後輩から提供された楽曲(中島みゆき「この空を飛べたら」、河島英五「生きてりゃいいさ」)、そして他者へ提供した楽曲(高倉健「時代遅れの酒場」、石原裕次郎「わが人生に悔いなし」、中森明菜「難破船」)等 登紀子さんのクオリティ高く、幅の広い音楽性を大いに楽しめるものでした。

 

山形市桜田「渓流亭」でのコンサート後の懇親会にて。登紀子さん、荒井

 

左手でサインを書く登紀子さん。登紀子さんは左右両手で書けるのです。

 

翌1998年9月には山形県民会館でコンサート。私は、「コンサート後に私の『映社会』(本コラム第18回参照)の仲間と共に食事をしませんか」とダメ元でお誘いしたら、告井延隆さん達バンドメンバーを引き連れて会場の山形市桜田の「渓流亭」にいらしたのでした。因みに「映社会」とは本コラム第18回で紹介した映画好きの仲間ですが、当日はこの7人に加え、登紀子さんとは昔馴染みで善秋さんの弟子仲間でもある私の中学の同級生とその母上も参加し、バンドメンバーと併せて20名程の賑やかな集いとなったのでした。

 

「映社会」メンバー登紀子さんを囲んで

 

その後も、登紀子さんが2000年6月4日に尾花沢市にコンサートにいらっしゃる時にマネージャーから電話を戴き、会場のサルナートに会いに行きました。

 

その頃の私は、山形放送ラジオで映画紹介の「シネマしま専科」だけではなく「なつメロリクエスト電話でこんばんは!」というリクエスト番組も担当するようになっていました。そこで、「1974年に登紀子さんが主題歌『かもめ挽歌』を唄ったフジテレビの倉本聰ドラマ『6羽のカモメ』が好きだったので、番組で曲を聴かせたいのですが、充実している山形放送のレコード室にもないんですよ。」と登紀子さんに訴えたのでした。すると、登紀子さんは「そうなのよ、あれはレコード会社と〇〇〇の間で色々あって不幸な曲なのよ」と残念そうに語られました。

 

1997年に贈ってくださったアルバム「さよなら 私の愛した20世紀たち」

 

それから5ヶ月余りが過ぎた 11月23日に、登紀子さんから「さよなら私の愛した20世紀たち」7枚目のアルバム「春待草」が届いたのでした。驚いたことに7曲目に「かもめ挽歌」が入っているではないですか!当日は私の誕生日でもあり、登紀子さんからのバースデイプレゼントと勝手に解釈し(偶然でしょうが)大喜びしたのでした。

 

ドラマ『6羽のかもめ』主題歌「かもめ挽歌」を新たなレコーディングで挿入したアルバム「春待草」

 

その後、2002年7月31日に、30年間連れ添った最愛の夫・藤本敏夫さんを癌のため58歳で亡くしました。それから3年間は喪失感と哀しみで何をすることもできなかったそうです。得意としていたエディット・ピアフ「愛の讃歌」の「もしもあなたが死んで、私を捨てる時も、私はかまわない、あなたと行くから♪」この歌を唄おうとすると「体の底から何かが逆流するように、嗚咽が込み上げて、歌えなくなってしまうのです」と語っています。

その3年後に「ラブソングは誰かを思って歌うもの。ラブソングを歌うことが、自分の感情を埋めることになるんです。これからも、心の中からあふれるようなラブソングを歌っていきたい」と思えるようになり、コンサート活動を再開したのでした。

 

2006年7月17日(月・祝)に山形県民会館でコンサートにいらっしゃることになり、私がパーソナリティを務める山形放送ラジオの生番組「なつメロリクエスト電話でこんばんは!」へ10日(月)に登紀子さんが電話出演。ニューアルバム『シャントゥーズTOKIO~仏蘭西情歌~』と山形での久々のコンサートについて真面目に語ろうとされていたのですが、やはり話は縦横無尽に広がっていきました(笑)。

 

送って戴いた「登紀子倶楽部通信」

 

贈呈戴いた登紀子さんの著書「わんから」

 

私が参加した7月6日六本木ヒルズでの宮崎吾朗監督『ゲド戦記』(スタジオジブリ)試写会に登紀子さんもいらしたので『ゲド戦記』やジブリの話でひとしきり盛り上がってしまいました。

 

夫・敏夫さんが亡くなり、娘さん3人が嫁ぎ、60才を過ぎた今、20才に還ったような想い。歌うことが楽しい。私と共通の友人で、沖縄八重山の島唄シンガー新良幸人くんのこと。シャンソンへの想い…等を話して下さり25分が過ぎていました。その間のBGMは「知床旅情」「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「時には昔の話を」「愛のくらし」。そして、ニューアルバムから「さくらんぼの実る頃」を聴いていただきました。

その際「『紅の豚』で私が声優を演じたヒロインが歌う「さくらんぼの実る頃」は1871年3月にパリで労働者たちによる革命が起き、パリ・コミューン(民衆が樹立した世界初の社会主義政権)が樹立。そのパリ・コミューンを象徴する歌です」と、この曲に込められた意味も教えて貰いました。

 

私が、「残念ながらコンサート当日は月曜日。この番組の生放送があるので伺えないんですよ」と告げると「番組は何時からなの?」と登紀子さん。私が「午後7時半からです。」登紀子さん「コンサートは5時半からだもの来れるじゃない!」とピシャリ。私が勝手に開演時間を7時と思い込んでいたこともあり、可能なことにと気付き行くことができたのです。

 

この前年、登紀子さんはデビュー40周年を終え、新たなスタートを切るという意味で原点に立ち返ったコンサートは、題して『シャントゥーズTOKIKO~仏蘭西情歌~』。これはニューアルバムと同じタイトルで、シャントゥーズは“シャンソンを歌う女・歌姫”の意です。登紀子さんが声を演じた『紅の豚』のジーナもそう。真紅のドレス姿の登紀子さんがスポットライトを浴びて登場し、正に歌姫ここにありの貫禄でした。「聞かせてよ愛の言葉を」「懐かしき恋人の歌」「帰り来ぬ青春」「時には昔の話を」「さくらんぼの実る頃」「美しき五月のパリ」「悲しき天使」「檸檬」「愛しかない時」を時には囁くように、時には力強く歌い上げた“シャントゥーズTOKIKO”を堪能しました。

 

第1部が6時半に終了。第2部も観ていきたいのは山々ですが、7時半から生放送が控えているので、泣く泣く開場を後にして山形放送へ向かったのでした。

2時間半の生放送「なつメロリクエスト電話でこんばんは!」番組終了後の10時過ぎに、コンサートを終えた登紀子さん達が打ち上げをやっている七日町「傳々」に駆けつけ合流。

 

2006年7月17日、山形県民会館でのコンサート後に山形市七日町「傳々」にて馴染みのファンの方々と

 

登紀子さんの姉で事務所社長の幸子さん、バンドメンバーの他にも、昔からの登紀子さんファンで秋田や神奈川など遠方から駆け付けた馴染みの方々など20数名の賑やかな場でした。私はコンサートの前に、親しい農家の長岡嘉四郎さんが作ったミニトマトを楽屋に差し入れしていたのですが、登紀子さんは「これ、荒井さんに戴いたんだけど、美味しいから食べて!」そのミニトマトをみんなに配り「これ、どこで買えるの?甘味に加えて、昔ながらのトマトの酸味や香りがあるのよね。東京じゃ手に入らないわ!」と嬉しいことを言って下さったのでした。亡きご主人が取り組んだ農業を、娘さんと共に継いで畑に向き合っている方ならではの感想でした。

その後も、山形や仙台に登紀子さんがいらっしゃれば、できるだけ足を運び短時間でも話をさせてもらったのでした。

 

また、登紀子さんの働き掛けもあり、「6月6日」の字の並びが“さくらんぼ”を想起させ、6月は“さくらんぼの季節”なので「6月6日はさくらんぼの日」と吉村県知事とJAが制定。2012年から6月6日前後に登紀子さんが「さくらんぼの日コンサート」をシベールアリーナ(現トーソーアリーナ)で開催するようになりました。

 

2017年6月4日には、16時からシベールアリーナで『さくらんぼの日コンサート~ピアフとひばり~』を開催。その前日6月3日には、17時から川西町フレンドリープラザで《寒河江善秋 没後40年メモリアルコンサート》を、次女のYaeさんと行いました。

 

2017年6月3日、川西町フレンドリープラザでの《寒河江善秋 没後40年メモリアルコンサート》のリハーサル後に、登紀子さんと荒井

 

次女Yaeさんとのステージ

 

前述したように、川西町出身の社会活動家・故・寒河江善秋さんは、登紀子さんご夫妻にとって“人生の師”と仰ぎ、「私が師匠と呼べる人物は寒河江さんしかいないと思います。」と登紀子さんに言わしめる人物。その善秋さんを偲んでのものでした。登紀子さんにお会いしに川西町に伺うと、ステージでYaeさんと「一本の鉛筆」リハーサル中でしたが、いつもの温かい笑顔で迎えてくれました。

 

登紀子さんは低音、Yaeさんは高音の艶と伸びが素晴らしく、母娘ならではのハーモニーが秀逸でした。

登紀子さんは翌6月4日10時からは、フォーラム山形でドキュメンタリー映画『奇跡の子どもたち』(7月1日公開)先行上映会舞台挨拶に稲塚秀孝監督と立たれたのでした。登紀子さんは本作でナレーターを務め、登紀子さんの「つばさ」がエンディング曲として使用されていたのです。

 

2017年6月4日、フォーラム山形でのドキュメンタリー映画『奇跡の子どもたち』上映会&トークにて。映画の主人公・松林佳汰さん・亜美さん兄妹に声がけする登紀子さん。

 

フォーラム山形での上映後にトークする登紀子さん。

 

本作は、生まれつき運動神経をつかさどる酵素を持たない「AADC欠損症」という日本に3人だけの希少難病の患者と医療現場を追ったドキュメンタリー映画。撮影開始当時、国内でわずか3人しか確認されていなかった希少難病の患者と家族が、日本初の遺伝子治療に臨む姿を約10年にわたって記録した作品で、近年開発されたパーキンソン病の遺伝子治療薬が、AADC欠損症にも効果があると分かり、15年夏から順次、日本の患者3人にも同様の手術が施され、大きく快方という希望の光に向かい歩き出した。

 

劇的な展開を経て製作された本作は、山形県南陽市の松林佳汰さん(17)と亜美さん(14)兄妹、東京都の山田慧(さとし)さん(20)の患者3人の日常を、母親の視線を中心に描かれ、何度か涙する場面も。兎に角、患者とその家族、そして医師たちの連携と、みんなが同じベクトルに向かって努力し続ける姿に大きな感動を覚えるもので、山形テレビの庄司勉ディレクターが10年越しに松林家を取材し、ドキュメンタリー番組として2・3度放送し、稲塚監督がそれを基に新たな取材を加えて映画化したもので、庄司ディレクターは私の中学の同窓で登紀子さんにナレーションを依頼したのも庄司君でした。会場には松林兄妹の父・勝之さん、後ろの席には母瑠美子さん、そして佳汰さん、亜美さんと紗希さんが座っていました。

 

登紀子さんと稲塚監督トーク後半には松林勝之さん、主治医の山大付属病院(現 昭和医大)加藤光広医師と自治医大の山形医師をスクリーン前に招きコメントを戴く。トークアウト後はロビーで松林さん家族と登紀子さんが談笑。加藤・山形両医師、稲塚監督を加えて記念写真に納まったのでした。

 

登紀子さんは、この後、16時から、シベールアリーナで『さくらんぼの日コンサート~ピアフとひばり~』を開催したのですから、当時73歳の登紀子さんの老いを忘れたかのような仕事ぶりには只々驚くばかり。今年も「さくらんぼの日コンサート」は6月6日に予定されていましたが、新型コロナウイルス感染症流行の影響で12月19日(土)に延期となりました。

 

東日本大震災後に反核・反原発のメッセージが込められたミニアルバム「ふくしま・うた語り」とベストアルバム

 

今年は、戦後75年の節目の年。デビュー時から「反戦・平和」に向き合ってきた登紀子さんにとっては特別な年です。「東日本大震災から10年もたっていない。異常気象の天災にも襲われている。世界に目をやれば、アフガニスタンで中村哲医師が非業の死を遂げたばかり。平穏や平和は遠い」と感じ続け、その想いを、デビュー55周年記念ソングとして、子供たちに届けたいと「未来への詩」という曲を作りました。「どんな暗い夜にも朝が来るように、人は歌い続け、祈り続ける。それはいつか愛の歌に変わる」というメッセージソングです。

 

また、観客のみならず、登紀子さんも日本酒を呑みながら歌う『ほろ酔いコンサート』は、48年間続いています。「知床旅情」が大ヒットした1971年に、国民的歌手になることへのアンチテーゼのように、日劇ミュージックホールで夜の10時から開いた振舞い酒付きのコンサートがそもそもの始まりで、年末恒例の人気企画となり、今年で49回目。そして来年は50回です。継続は力なりとはよく言ったものです。

 

1990年に乳がんを患い、’91年に左乳房の一部を摘出していたことを2年前に公表。ファンや関係者に気を遣わせたくないとの想いから、過酷なリハビリのことも含め30年近く内密にしていたのです。現在は完治したこともあり、「病気を話せる雰囲気を作りたい」と公表したそうです。

 

’95年6月21日には函館でのコンサートへ向かう全日空機がハイジャックに遭い、同行したお母さま、バンドメンバーと共に機内に16時間拘束されるという経験もしています。この時は、登紀子さんがトイレから携帯電話で事務所に知らせ、バンドマスターの告井延隆さんが、やはりトイレから携帯電話で警察に犯人の状況を知らせ、強行突入を促すというお手柄を演じています。

函館コンサートはハイジャックにより中止となりましたが、次の苫小牧でのコンサートでは登紀子さんはじめバンドメンバーが「生きてて良かった」と歌える、演奏が出来る幸せを噛み締め、半分泣きながらのコンサートになったそうです。

 

いつも穏やかな笑顔で迎えてくれる登紀子さんですが、その笑顔は、様々な修羅場を潜り抜けてきた肚の座ったものなのです。反戦・平和、環境、農業、人権など社会のありとあらゆる問題に音楽活動を通して真摯に取り組んできた姿勢は6月28日のコロナ感染対策を徹底してのコンサート決行にも表れています。

 

コロナ禍に於いてもコンサートができることを示した登紀子さんですが、やはりコロナが終息した中でコンサートをやれるに越したことはありません。
12月27日には「喜寿」となる登紀子さんです。年末恒例の『ほろ酔いコンサート』で、心置きなく祝福できるコンサートとなることを願ってやみません。

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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