だれかの散文

2020.8.18

第27回:沖縄島唄唄い人 新良幸人さんとの想ひ出


加藤登紀子さんは東日本大震災後の2011年5月25日に『命結(ぬちゆい)』という曲をレコーディング。そして9月28日に『命結』をタイトルとするアルバムをリリースしました。

 

新良幸人さんが参加した加藤登紀子さんアルバム「命結」

 

アルバムコンセプトを考えていた時に、沖縄の方言をモチーフにした「命(ぬち)」と「結(ゆい)」という言葉が一緒になればいいなと「命結(ぬちゆい)」というタイトルを思いつき、東日本大震災による原発事故で放射能汚染被害に遭った直後に訪れた福島の飯館村で出会った人や風景を想い、曲を完成させたものです。

曲の中盤で野太く、力強い咆哮のような男性コーラス。その声こそが、沖縄の島唄唄い人・新良幸人さんでした。新良さんはコーラスだけでなく、三線とアレンジでも参加していたのです。

 

新良幸人、なんと懐かしい響きだろう!

 

新良幸人さん近影

 

新良幸人さん近影

 

新良幸人さんに初めて出会ったのは、昭和天皇崩御により元号が昭和から平成になった直後、1989年1月中旬のことでした。当時、山形県映画センターのスタッフだった私は、この年、山形県内で上映運動をする予定のアニメーション映画『かんからさんしん』の舞台である沖縄での「戦跡・米軍基地を巡る平和研修ツアー」に、職場の先輩・高橋卓也さん(現・山形国際ドキュメンタリー映画祭プロジェクトマネージャー)と参加しました。タイトルとなった「かんからさんしん」とは沖縄の人々が心のよりどころとしていた、空き缶と棒と落下傘などで作った弦楽器・三線(さんしん)のこと。

 

1989年1月13日 沖縄『かんからさんしん』全国ツアーゆらてぃくコンサートでの新良幸人さん

 

太平洋戦争末期の1944年、沖縄の津賢島でアメリカ軍に追い詰められた住民が、日本軍からの全員玉砕指令により自決する寸前、この「かんからさんしん」の音色で我に帰り、自決を思いとどまり「命(ぬち)どぅ宝」の精神を重んじ投降し生き残ったという逸話をもとに、沖縄県民の「二度とあの悲劇をくり返してはならない」という切なる願いを込められて作られたものでした。新良さんは映画『かんからさんしん』の全国キャンペーンの旗頭に任ぜられたのでした。

 

1989年1月13日 沖縄『かんからさんしん』全国ツアーゆらてぃくコンサートでの新良幸人さん

 

 

 

映画『かんからさんしん』ポスター

 

彼の父・新良幸永さんは八重山民謡の指導者で、そのこともあってか、幸人さんは幼い頃から三線に親しみ、県立八重山高校在学中に、弱冠17歳で八重山古典音楽コンクール最高賞に最年少で輝いたのです。その後、沖縄大学に進学し、那覇に移り住んでから本格的にライブ活動を始めました。

 

新良幸人さんは1967年12月16日生まれで、私が彼の島唄を初めて聴いた時、彼はまだ大学生の21才。私の10歳下でしたが、すでにベテランの風格を持ち、八重山民謡を中心とする沖縄の島唄を、三線を弾きながら朗々と野太い声で唄いあげていました。曲の合間のMCは訥々とだがユーモアたっぷりで、会場を沸かせたものでした。時には三線を置き、陽気に踊り唄う。そして、「沖縄の人間は、どんなに悲しいときも、辛いときも、こうして唄い踊るんですよ」とにこやかに語ったのです。その言葉は、心の奥底にズシンと響きました。

 

南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)に抗議した、『サラフィナ』というミュージカル公演ワールドツアーのドキュメンタリー映画『サラフィナの声』を、私はその前年に観ていました。ミュージカルに出演しているのは、南アフリカの黒人の高校生たちで、自分たちが白人に虐げられながらも、人間として生きていく当たり前の自由や権利を獲得するための叫びを表したものです。

 

スタッフの証言も交え記録した構成で、まるでゴムまりが弾むように楽し気に踊り歌う彼らが「僕たち南アフリカの黒人は、どんなに辛く苦しくてもこうやって歌い踊るんだよ」と語っていました。 それは、新良さんの言葉と全く同じでした。国が法制化した白人支配層による有色人種に対する人種差別・隔離政策が敷かれていた南アフリカの黒人の若者と日本の沖縄の新良さんが同じことを語っていたのはショックでしたし、琉球王国時代から沖縄が置かれた状況を物語り、心に深く突き刺さりました。

 

1989年5月20日『かんからさんしん』新良幸人全国ツアー山形コンサート(ミュージック昭和セッション)で、かんからさんしんで演奏。

 

ミュージック昭和セッションでのステージ

 

司会を務める筆者

 

 

 

新良さんは、この年5月に映画『かんからさんしん』のキャンペーンで全国縦断コンサートを行い、山形市でもライブ(ミュージック昭和セッション)をやり、私は主催者の山形県映画センターのスタッフとして、酒豪の新良さんと酒を酌み交わす機会に恵まれました。

 

彼は’91年にも、「山形国際ドキュメンタリー映画祭’91プレイベント」において遊学館でライブをおこない、翌年は南陽市、’93年には真室川町(3月13日中央公民館)と山形市(9月15日ヌーベルF)で、彼自身が主演した“映画 『パイナップル・ツアーズ』上映とコンサートの夕べ”をやっています。この頃になると、八重山高校郷土芸能クラブの後輩だった太鼓の仲宗根哲(サンデー)さんと組んで、プロとして精力的に活動していたので、サンデーさんを伴ってのものでした。

 

ミュージック昭和セッションでのステージ

 

ミュージック昭和セッションでのステージ

 

コンサート後、七日町「石蕗の舎」でうちあげ。高橋卓也さん・新良幸人さん・筆者

 

コンサートの翌日には、山形の仲間たちと馬見ヶ崎河畔で芋煮に舌鼓を打ち、蔵王の露天風呂で文字通り裸の付き合いをしました。この日は9月中旬ながら猛暑日。新良さんは沖縄県民ながら、色白の丸顔で大陸的な顔立ち。肌が真っ赤に染まる日焼けをして「沖縄の人間が山形で日焼けしたのは恥ずかしいからグアムで焼いたって言おう」と言って笑わせてくれました。

 

93年9月16日コンサート翌日、山形市馬見ヶ崎河畔で実行委員と芋煮会

 

馬見ヶ崎河畔でサンデーさんと新良さん

 

馬見ヶ崎河畔で新良さんと筆者

 

この年は、翌10月の「山形国際ドキュメンタリー映画祭’93」にも来て貰い、「ホッとなる広場」に建てたテント小屋「先住国シアター」で開催された『先住民映像祭』で島唄ライブを披露。この時は三線でジミー・ヘンドリックス「パープル・ヘイズ」を演奏する超絶テクニックも披露してくれたのでした。

 

1993年10月9日『山形国際ドキュメンタリー映画祭1993』先住国シアターでライブ

 

先住国シアターでのライブの様子

 

ライブ後、サンデーさん・筆者・新良さん

 

ライブ翌日も、彼は自費で宿泊を延長して映画祭を楽しんでいき、深夜になってから二人で酒を酌み交わしたのでした。この’93年から新良さんは、元「りんけんバンド」の上地正昭さんらと共にバンド「パーシャクラブ」を結成。勿論、メンバーにサンデーさんはいるし、サンデーさんとの二人のユニット活動も並行して続けていました。

 

ライブ後ヌーベルFロビーで新良さん、サンデーさんと実行委員で記念撮影

 

この「パーシャ」とは石垣島白保の方言で、“目立ちたがり”や“出たがり”の人を揶揄する意味で使われるのは、山形県内陸地方で使われる“あがすけ”と共通していますが、大きく違うのは“パーシャ”は「最近、あいつ光ってるね。輝いてるね」のように、誉め讃える場合にも用いられるところです。山形の場合は“あがすけ”と言われる側よりも、言う側の心根にある妬みや嫉み、羨ましいという想いから発せられるもので、相手を高く評価する意味は皆無です。ここに、沖縄人と山形人の県民性の違いを突き付けられた想いがして、改めて山形で生まれ育ち、暮らしている自分自身を見つめ直す機会を与えられた想いがしました。

 

「新良幸人とパーシゃクラブ」は翌1994年にメジャーデビューし、’96年には新良さんが作詞、上地さんが作曲した「ファムレウタ」が、TBS「筑紫哲也のニュース23」エンディングテーマとして採用されヒットも経験しました。この「ファムレウタ」は子守唄の意なのですが、夏川りみさん が2003秋にリリースしたアルバム、その名も「ファムレウタ~子守歌~」(2003年10月リリース)の中でカバーしています。因みに、BIGINと夏川りみさんは、新良さんの石垣島の後輩にあたります。

 

横道に逸れますが、夏川りみさんは「涙そうそう」でブレイクする前の2000年6月10日に、私がパーソナリティを務めていた山形放送ラジオ『なつメロリクエスト電話でこんばんは!』公開放送で大石田町「あったまりランド深堀」にゲスト参加してくださいました。夏川さんは16才で星美里の芸名で演歌歌手としてデビューしましたが、3年間鳴かず飛ばずに終わり、沖縄に帰り、姉が経営していたスナックで働いていました。しかし、元マネージャーがその“歌チカラ”を惜しみ、「もう一度、歌で勝負しないか」と強く誘い、3年のブランクを経て、夏川りみの名で演歌ではなくポップス歌手として再デビューを果たして1年が経った頃でした。

 

公開放送の会場大石田町「あったまりランド深堀」は温泉施設の大広間が会場で、観客は演歌を好む高齢者が大半でしたが、夏川さんの事務所社長は「演歌は歌わせない」方針ということで、司会の私は頭を抱えてしまいました。夏川さんは大広間の中央をロングドレスにパンプスを履き、セリーヌ・ディオン「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」を熱唱しながら入場。素晴らしい歌声を聴かせてくれたのですが、明らかに場違い。満員の観客は「ポカーン」。

 

プログラムでは、再デビュー曲「夕映えにゆれて」と、新曲「花になる」というバラードを唄い、その他は知られたポップスを唄う予定になっていたのですが、ステージ上で夏川さんに「僕は沖縄の島唄が好きなんですけど『てぃんさぐぬ花』を唄ってもらえませんか」とお願いをしたら、ためらうことなくアカペラで唄ってくれたのでした。皮肉なことにその日のステージで最も喜ばれたのが「てぃんさぐぬ花」でした。

 

終演後、会場で地酒を呑みながら蕎麦を御馳走になったのですが、夏川さんに「新良幸人くんと親しいんですよ」というと「ユキトは私の地元の先輩で親しいよ」と凄く喜び、新良さん話に花が咲かせながら、ぐいぐいお酒を呑んだのでした。新幹線の時間もあり1時間半ほどしか楽しめなかったのは残念で、話し足りない、呑み足りない、食べ足りないと後ろ髪引かれる想いで帰っていかれたのでした。

 

ざっくばらんで親しみやすい夏川さんが、翌年「涙そうそう」でブレイクした時は我がことのように嬉しかったです。2002年3月に初めてリリースしたアルバム「南風」に「てぃんさぐぬ花」が入っていたのは望外の喜びでした。因みに夏川さんが公開放送に参加した3ケ月後の9月4日には、新人の氷川きよしさんも公開放送ゲストに参加。誕生日が2日後だったのでサプライズでバースデイケーキをステージに登場させたら感極まる場面もあり、予定された曲数より3曲も多く唄ってくれたのでした。夏川さんと氷川さんのその後の活躍を見ていると「なつメロリクエスト電話でこんばんは!」はゲンのいい番組だったのではないでしょうか。

 

再び新良幸人さんに話を戻します。新良さんは、自分が唄う島唄をブルースと言うように、ブルースやジャズミュージシャンとのセッションも重ねています。先述した加藤登紀子さんだけでなく、日野皓正さん、山下洋輔さん、小林靖宏さん、津軽三味線の高橋竹山さん、宇崎竜童さんなど錚々たる人たちと共演していますが、東京にライブで出向くことはあっても、本格的に進出する気などさらさらなく、沖縄にこだわり続けているところが如何にも彼らしいです。本人からしたら、心地よいところで音楽活動をやっているだけで、取り立ててこだわっているという意識はないのかもしれません。

 

新良さんが、頻繁に山形でライブをやっていた頃から10年以上が経ち、あのヤンチャだった若者も、秋田の女性と出会い、結婚し、今ではふたりの子の親に。

2004年12月16日、新良さん37歳の誕生日夜に放送されたNHK「夢・音楽館」では、矢井田瞳さんとともにアコースティックスタイルで演奏するモヒカン頭のちょっと異様な風体の男が映っていました。「なんと、新良さんではないか!」思わず、電話。新良さんはリハーサルで留守だったのですが、明るい秋田美人(会ったことはないが、きっとそうだろう)の奥さんとしばし語りました。

アコースティック・パーシャというバンドで、矢井田瞳さんとの見事な共演を聴かせてくれました。特に「満天の星」は良かった。番組ホストの中村雅俊さんとのトークも自然体、全く気負うところがなく、幸人ワールドにいざなっていました。

 

そういえば、「筑紫哲也のニュース23」のエンディング曲「ファムレウタ」を唄っていた時に、沖縄県国頭郡恩納村真栄田の海岸で、筑紫さんと新良さんはじめパーシャクラブのメンバーが車座になって鼎談したことがありましたが、この時も新良さんは筑紫さんを相手に何ら構えることなく自然体で語っているのを見て、誇らしい想いになったのを思い出しました。

 

2005年7月15日 山形市七日町フランクロイドライトでのライブ後、割烹穂里で下地勇さん・筆者・新良幸人さん

 

翌年の2005年7月15日には「サンセットスタジオ」、早坂実さんの尽力で山形市七日町のライブハウス「フランク ロイド ライト」で、新良さんがライブ。宮古島出身のミュージシャン下地勇さんを伴ってのもので、新良さんが山形でライブをやるのは実に12年振りでした。リハーサルを終え、本番までの30分の間に近くの店で再会を祝しビールとワインで乾杯。因みに新良さんは、学生時代からライブ前にはバーボンか泡盛をちょいと呑んでから臨んでいましたが、それは相変わらずでした。

 

新良さんは、昔は頭髪を後ろで束ね、オールバックにしていたのが、今は剃り上げ、モヒカンのようなキューピーのようなヘアスタイルに変わっていました。それはNHK「夢音楽館」で確認していましたが、間近で見ると恐さを感じるものでした。でも人なつっこい笑顔は昔のまま。予定より20分ほど遅い7時20分に、下地さんの歌でライブは幕を開けたのです。

 

下地勇さんは初めてでしが、スペイン人かイタリア人のような掘りの深さと端正な顔立ちで、ギターを弾きながら情熱的に唄いだしました。フランス語?ポルトガル語?イタリア語? 彼が唄う歌は、シャンソン、ボサノバ、はたまたカンツォーネのよう。このラテン系言語のように聴こえた彼の歌は、故郷・宮古島の方言だったことに驚愕したのです。

下地さんの彫りの深い顔が、ラテン語と勘違いさせていたようですが、宮古島の方言は確かにラテン語にしか聴こえませんでした。バラードから速射砲の如くラテン(宮古島)語を放つコミカルな曲まで8曲位でしょうか、汗だくになりながらの熱いステージでした。

 

そして、新良幸人さん登場。まずは、故郷、白保の民謡「白保節」でスタート。石垣島出身の新良さんが唄うのは八重山民謡が中心で、下地さんとは対照的に色白で大陸的?な顔立ちは愛嬌があり、一人芝居を交えたトークは笑いが満載です。歌も音域はより拡がり、声の伸びも増し、押しも押されもせぬエンターティナーに成長していました。

アンコールは新良さんと下地さんの二人で、三線とギターのコラボ。それぞれの曲を唄い、ラストは「テネシーワルツ」。英語~宮古語~石垣語~英語で楽しませてくれました。

 

ライブ後は割烹 穂里で打ち上げ。新良さん、下地さん共に、二人共、旬な庄内の岩牡蠣の大きさ、美味しさに感激。写メを撮り、沖縄の友人に送っていた素直な姿により好感を持ちました。深夜1時過ぎまで盛り上がりましたが、新良さんは、相変わらず酒が強い。

 

あれから早や15年。

新良さんは変わらずライブ活動を続けていますが、今年はコロナ禍で中止や延期になり、直近は下記に開催予定です。

 

■日時:2020年10月03日(土)開場16:00 開演17:00

■会場:桜坂劇場 ホールA

■出演:新良幸人(唄・三絃)他

■料金:前売4,500円 当日5,000円(全席指定)※入場時別途300円の1ドリンクオーダーが必要

■お問い合わせ:桜坂劇場=098-860-9555

 

出会いから31年。

31才と21才と若かった二人も62才と52才。10歳違いの射手座で名前も‘あらいゆきひろ’ ‘あらゆきと’ ‘幸博’ ‘幸人’と近く、勝手に弟のように思っていました。

 

加藤登紀子さんの「命結」での彼の一層チカラ強くなった歌声を聴き、益々の活躍を刺激に、まだまだ老け込まずに頑張らねばと意を新たにしたのでした。

「新良くん、コロナ禍が明けたら久しぶりでライブをやりに山形に来てよ!!」

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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