だれかの散文

2020.12.3

第28回:村川透監督との想ひ出


 村川透監督との出会いは1994年1月2日のことでした。

当時、私は山形放送ラジオ昼の情報ワイド番組『ハッピーロード』内で、毎週火曜日15時から「シネマしま専科」という15分ほどの映画の紹介コーナーを担当していました。それは、山形放送(YBC)の取締役で報道・制作局長の大類啓さんの推薦によるものでした。

 

山形駅にて村川監督と荒井(2004年夏)

 

 私が初めてラジオで映画紹介を担当するようになったのは、そこから4年近く遡った1990年4月からの山形放送の番組でした。ヤマコービル1階サテライトで13時からの生放送『ヤマコー・ターミナルミュージック』。連日局アナが担当していましたが、火曜日だけは、村山市出身の演歌歌手・北見恭子さんと仙台のフリーアナウンサー渋谷浩子さんの2人が隔週で担当していました。

 

 私は映画館『フォーラム』のスタッフとして、それまでもYBCに様々な企画上映の宣伝に足を運んでいたことが認められたのか、女性ディレクターから「新旧問わず映画の紹介をして欲しい」と依頼されたのでした。「メモリアル・シネマのコーナー」として渋谷浩子さんの日に7分ほど紹介。作品によっては、聴き手の渋谷さんが涙を流して聴いてくれるのです。

 そんな訳でノッて気持ち良く4年近く喋らせてもらいました。そんな渋谷さんが93年10月でYBCの番組を卒業することになりました。渋谷さんは、87年頃から日曜朝9時から「チェイサー・サウンドシャワー」という番組を担当。その音楽とおしゃべりの1時間番組はお洒落でセンスに溢れるもので、個人的に番組のファンでもありました。

 

 渋谷さんはYBCにおける長年の功労者ですので、西川町間沢の「玉貴」で送別会が開催されました。参加者は40名程の賑やかなもの。私も上座の渋谷さんの隣に座らせられたのです。

 食事が進むと、参加者一人一人が順に渋谷さんとの想い出、感謝の言葉を語りだしたのです。そして私の番。「渋谷さんの『チェイサー・サウンドシャワー』は初めて聴いた時にその素晴らしさに全国区の番組だと思っていました。その渋谷さんがYBCの番組からいなくなるというのは、山形県のリスナーは、美味な食べ物を食べられなくなり、不味いものばかり食べさせられ、美味なものが分からなくなるということで、大変残念です。」当時、生意気盛りで、「フォーラム」スタッフの一環としてラジオに出演していたので、出られなくなっても何てことは無いと無礼を顧みず本音を語ってしまったのでした。いま考えると冷や汗が出ます(苦笑)。

 

前列左から2番目に村川監督、左となりが大類さん。「村川透映画祭」の会期中、山形市内にて(1994.11.12)

 

 その二日後に、YBCのラジオディレクター伊藤康紀さんからのお電話で「うちの大類局長が『ハッピーロード』の中で映画紹介をして欲しいと言ってます。」という依頼も貰ったのでした。もうYBCラジオに出演することはないと割り切っていた処、あの玉貴での送別会に大類さんもいらして、私を「こいず、おもしゃい男だな」と評価してくれたようなのです。正に青天の霹靂でした。

 

 私は、「メモリアルシネマのコーナー」から間隔を開けることなく、翌火曜日には『ハッピーロード』内「シネマしま専科」で秋山裕靖、奥山さち代アナウンサーを相手に映画紹介を毎週させてもらうようになったのです。伊藤ディレクター、秋山・奥山アナのチームは素晴らしいもので、私の意向に沿った楽しいコーナーにさせてもらいました。

 

 94年1月2日正月から、ラジオの生放送にYBCを訪れた際に大類さんから声をかけられました。「今日、夕方時間あっか?トオルさん(大類さんは村川監督をこう呼ぶ)のうぢ(家)さ行ぐべ。」 私「トオルさん?」 大類さん「村川透監督よ!しゃねが?」私にとっては村川透監督は雲の上の憧れの映画監督。その村川監督のお宅にお邪魔できる。これほど有難く、名誉なことはありません。一も二もなく「行きます!連れて行ってください!」とお願いしたのでした。

 

 因みに、私が大学4年の秋、銀行の内定を貰って以降、銀行に顔を出さなくなった私を不安に思った人事課長の長沼龍平さんが、映画好きな私に「東映の招待券をあげるから人事部に顔を出しなさい。内定は確定ではないので、みんな顔を出すんだぞ。」とアメとムチの電話を戴いたのでした。

 長沼課長は山形大学演劇部で、俳優・成田三樹夫さんと一緒だった縁もあり、毎月、東映の招待券が送られてくるのだそうでした。成田三樹夫さんは酒田東高から東大に進学しましたが、校風が合わないと1年途中で退学し、翌年、山形大学を改めて受験し合格し入学。長沼さん曰く「いつも詩を誦じていて我々とは別次元の人でした」とのこと。東大を中退してまで入った山大さえ、俳優になるために俳優座養成所受験しようとしたら、卒業後では年齢制限22歳を過ぎてしまうので中退し、受験・合格。当時、俳優座養成所は“演劇界の東大”と呼ばれるほどの狭き門でしたが、やはり別次元の人だったようです。

 

山形市スズラン街「なべ勝」にて(1998.4)

 

 大分廻り道をしました。私は人事課長に戴いた招待券で観たのが、村川透監督で主演が松田優作の『野獣死すべし』(1980年10月4日公開同時上映『さらば、わが友 実録大物死刑囚たち』)でした。クラシック音楽の静謐な荘厳さとバイオレンスに圧倒され、観賞後はどうやって帰宅したのかも覚えていないほどでした。その頃はまだ、村川監督が山形県人とは知らずにいました。

 

 私が山形県映画センターのスタッフになった1987年に、朝日新聞 山形版「舞台再訪」というコラムで、牛田誠記者が村川監督のデビュー作『白い指の戯れ』を取り上げ、映画監督としての根底にあるのは村山市で生まれ育った体験が大であるといったことを綴り、それを読み初めて村川監督が山形県人であることを認識した次第でした。

 

村川監督お宅の庭で(1999年夏)

 

山形市の村川監督宅で、左から田中邦衛ご夫妻と村川監督、荒井(2000.6.29)

 

 村川監督のお宅へは大類さん、本間和夫さん(20年後YBC社長)、村川由紀子アナウンサー(現旗本姓で東京で活躍)と私の4人で伺いました。お宅は150坪ほどの平屋の日本家屋で、東側には二〜三百坪ほどの芝生の庭が拡がる豪邸でした。村川監督の奥様は、後に鋳物作りで人間国宝になる高橋敬典さんの一人娘で料理はプロ級。一品一品運ばれる懐石料理が本当に美味しく、ビールや日本酒を戴きながら貪るように食べました。

 しばらくしたら、大類さんが「荒井君が勤めっだ映画館で透さんの特集したらいいべした!」と提案。私は経営者でもないのに「分かりました!やりましょう!」と安請け合い。それを監督は殊の外喜んで下さり、以降、電話や手紙で「いつ、特集をやることになった?」とやいのやいのの催促です。

 

 当時の村川監督は映画こそ遠ざかっていましたが、藤田まこと主演『はぐれ刑事 純情派』、宇津井健主演『さすらい刑事 旅情編』をメイン演出家として抱えただけではなく『火曜サスペンス劇場』等も抱えお忙しい身でした。その仕事を整理して開催期間中の1週間は、休みにして毎日映画館に顔を出したいという意欲に満ち溢れていたのでした。

 

山形市七日町セブンプラザ5階ヌーベルFでの「村川透映画祭」初日(1994.11.6)

 

「村川透映画祭」会場となったセブンプラザエントランスのサイン。

 

 ところが、映画館経営者は「動員は難しい」と思い込み、なかなか日程を決めてくれません。漸く決まったのが11月6日(月)~13日(日)の12日(土)を除く6日間。会場は、第2劇場である山形市七日町「セブンプラザ」5階の「ヌーベルF」での上映。上映時間は20時40分からの1回のみ。13日(日)だけ18時からの上映で、19時40分からは私を聴き手に村川監督のトークショーと決定。この郷土が生んだ偉大な監督を軽んじる扱いが、私にフォーラムを辞める決意をさせたのでした。

 

 上映作品は6日『野獣死すべし』、7・8日『白い指の戯れ』、9日『大都会「私生活」「俺の愛したちあきなおみ」』、10日『探偵物語「聖女が街にやってきた」「サーフシティ・ブルース」』、11日『ブレイクアウト行き止まりの挽歌』、13日『NYアンダー・カバー・コップ』これらは全て村川監督所蔵の16ミリフィルムでの上映。配給会社やテレビ局には村川監督自ら交渉して下さり、格安で上映することができたのでした。

 村川監督は宣言通り、毎日会場に足を運んでくださったので私が上映後、映写機を止めてからスクリーン前に走り、村川監督に前へ進んで戴き、連日作品ごとの貴重な話を伺ったのでした。

 

連日、上映後の夜10時半過ぎからスクリーン前で作品ごとにトーク。

 

映画祭最終日のトークショー(1994.11.13)

 

 村川監督は、3人の娘さんがいらっしゃるのですが、子育ては田舎で伸びやかにしたいと、山形市で奥さんと娘さんが暮らし、監督は東京でバリバリ仕事をこなすという二重生活を長年送ってこられました。57才の当時も最も忙しいドラマ演出家の一人でしたが、この「村川監督特集」の後は、山形へ帰られる頻度が多くなり、そのたびに連絡を戴き、ご一緒し、様々なお話を伺うようになりました。

 

 それからは、県校長会や私学連等から監督に講演の依頼があれば、私が聞き手を務めるトークショー形式で行うようになりました。監督からは本当に沢山のお話を伺いましたので、トークショーの話題には事欠きませんでした。

 

「山形県連合小学校長会 北村山大会」の講演会。村山市民会館大ホール(1997.6.12)

 

山形市スズラン街「なべ勝」にて(1998.4)

 

新庄市「レキシントンホール」にて講演(1999.9.18)

 

講座「むらやま・元気塾」にて村川監督と荒井。村山市民会館大ホール(2002.10.3)

 

講座「むらやま・元気塾」にて村川監督と荒井。村山市民会館大ホール(2002.10.3)

 

 村山市楯岡でのガキ大将時代、灰色だったという高校時代、そして福島大学経済学部に進学し、自動車部・山岳部・柔道部・演劇部・乗馬部・社交ダンス部等で活躍し、夜はキャバレーの生バンドでサックス奏者としてアルバイトに明け暮れ、さながら「若大将」のような日々を過ごしたこと。そして3年で卒業単位を殆ど取得し、1957年秋ごろからクラシック音楽家の兄・千秋さんの東京の部屋に頻繁に出入りしたこと。

 4年になった1958年に映画監督を目指し、当時、石原裕次郎を象徴として最も若く活気があった日活を受験し、見事合格。ところが入ってみたら、上野日活の営業をさせられたり、何か様子が違うと思い、確認したら、監督が受験したのは一般職で、映画監督への道は開かれていない部所ということに気付き、退社。同年秋に改めて日活助監督部を受験し直すのでした。そして見事合格。

 

 1958年は、日本映画の最盛期でわが国において映画館で映画を観た人数が11億2千8百万人。当時の人口が9千百万人ほどだったので、国民一人当たり年間12〜13回は映画館で映画を観賞していたのです。これは乳児や寝たきり老人も含めてのものですから、10代から60代までに絞れば年間50回以上観ていた人はザラだったのです。

 そんな時代ですから映画監督は憧れの職業のトップでしたので、東大、京大、慶應、早稲田、日大(芸術)等の有名国私立大卒業生が殆どでした。村川監督のように地方の国立二期校出身は稀少でした。

 

 余談ですが、1954年に松竹に監督候補としてトップ合格したのは京都大学の大島渚監督で、東大法学部の山田洋次監督は落ちていたのです。ただこの年に日活が戦後最も遅い再開をして、既存の映画会社から若手監督や有望助監督の引き抜きを行い、松竹は人員不足となり山田洋次監督は繰り上げ合格となり、大島監督と同期入社となったのでした。

 そんなハイレベルな中でしたので村川監督は当落線上でした。試験官の一人で当時、助監督だった今村昌平さんが村川青年の作文に感銘し、強く推してくれたことが大きかったようです。村川監督は助監督としては西河克己監督、森永健次郎監督、舛田利雄監督等に就きましたが、今村監督に就くことはありませんでした。

 

 日活受験から40年近く経った1997年に公開された今村昌平監督『うなぎ』はカンヌ国際映画祭最高賞のパルムドールに輝きました。これは今村監督自身『楢山節考』(1983年)に続く14年ぶり二度目の快挙でした。ただ、今村監督は『うなぎ』撮影後、編集・音入れ作業を残した段階で脳梗塞で倒れ、救急病院に運ばれ生死の境をさまよったのでした。その時、対応した医師が村川監督のご長女だったのです。適格な処置が奏功したのでしょう、今村監督は杖を必要とするようにはなりましたが見事に復活し、映画を完成させたのでした。映画監督への道を拓いてくれた恩人である今村監督への、村川親子二代に亘る恩返しが偶然成り立ったというのも奇しき縁だったのではないでしょうか。

 

 また、助監督時代は、撮影現場に誰よりも早く入り、下準備を済ませ、監督が演出しやすいようにしておき、撮影後は後片付けをキチンと済ませ、現場を後にするのはいつも最後。『上を向いて歩こう』の撮影後に帰る際、多摩川の土手の上を疲れ切って歩いていると。子供たちが結んでおいたペンペン草に足を引っかけ転び、口惜しさから涙が出そうになり、「♪上を向いて歩こう!涙がこぼれないように〜♪」を唄いながら帰ったこともあったそうです。

 

 当時、人気絶頂の青春歌謡の歌手が主演の映画で助監督についた際、その高校生役の主演俳優が学生鞄を常にマネージャーに持たせていたので、村川助監督は「鞄くらい自分で持つように!」と注意したそうです。そうしたら翌日からその現場を外されたということです。つまり、助監督時代の村川監督は、監督が言いにくいことも代わって直言し、撮影の場づくりは完璧にこなしていたのです。

 後年、日活時代からの昔馴染みの高橋英樹さんにインタビューをしたら「村川ちゃん(そう呼びます)はすぐ喧嘩するんだよ。あゝ、またやってる。」と呆れてましたよ。舛田利雄は「村川に任せておけば監督は「ヨーイ、スタート」と「カット」と言ってれば良かった。」と如何に優れた助監督だったのかを言い表していました。

 

 石原裕次郎さん主演『赤いハンカチ』(舛田利雄監督)、吉永小百合さん主演『伊豆の踊子』『青い山脈』、や小林旭さん主演『渡り鳥シリーズ』等日活の数多い人気作で助監督をした村川監督ですから、裕次郎さんや小百合さん、渡哲也など俳優からの信頼も厚いものでした。

 

 先述したように、村川監督が日活に受験したのは日本映画最盛期。晴れて入社した1960年はピークから下り坂を下り始めた時でした。裕次郎、旭、赤木圭一郎、和田浩二のダイナマイトライン主演映画を量産していた時代から、裕次郎の大怪我、赤木の事故死などの不幸が重なり、日活は、小百合・浜田光夫青春コンビを中心に松原智恵子、和泉雅子らに、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦、三田明らのヒット曲をモチーフに彼らを主演にした“歌謡青春映画”、高橋英樹主演の任侠モノ、渡哲也主演の無頼モノ等々に活路を見出そうとしていましたが、1960年代にはいるとテレビ受像機の家庭への普及が急速に進みだし、映画産業は斜陽産業の代表的存在になっていきました。

 村川監督は助監督として優秀であればあるほど、監督たちから必要とされたのと業界の斜陽化が重なり、監督への出世が遅れ、漸く監督としてデビューできるという1972年には日活の社名は「にっかつ」となっていました。つまりポルノ路線に方針が切り替わっていたのです。

 

 会社には裕次郎、旭、渡、英樹、ルリ子、小百合、智恵子、雅子、錠らスターは皆退社していました。よってデビュー作の『白い指の戯れ』(1972年6月7日公開)にはスターは皆無。ヒロインに当時、劇団には所属していたものの素人同然の伊佐山ひろ子を抜擢。相手役には谷本一、そして荒木一郎。

 荒木一郎は女優・荒木道子の息子でいわば二世俳優の走り。1960年代半ば、自身が作詞・作曲して歌った「空に星があるように」「今夜は踊ろう」「いとしのマックス」などが立て続けにヒット。テレビドラマで主演、映画でも新人男優賞を受賞するなど、日の出の勢い。そんな絶頂期の1969年2月にワイセツ事件容疑で逮捕され、結果的に無罪となったもののマスコミからバッシングされ、以来不遇を囲っていました。

 監督は「危ない奴、はみ出す奴は、才能がある奴が多くオレは好きなんだ」と、荒木一郎をカムバックさせたのでした。ポルノ映画は一般映画に比して低く見られがちでしたが、その年のキネマ旬報日本映画ベストテンの9位に入り、伊佐山ひろ子は、『忍ぶ川』主演の大本命、栗原小巻を抑えて主演女優賞に輝き、村川監督の演出手腕は高く評価されたのでした。

 

 しかし、その後、ポルノ映画を2本(『官能地帯 哀しみの女街』72年9月16日、『哀愁のサーキット』72年12月27日公開)手掛けたものの、会社からの「もっとエロに」という要求に嫌気がさし、日活を退社し、山形へ帰って来たのでした。山形では、兄・千秋さんの「山形交響楽団」設立運動の事務局として活動。当初は、奥様の父・高橋敬典さんが経営する「山正鋳造」を事務所代わりに、従業員の送迎バスを楽団員のために使用していたのでした。

 

 「山形交響楽団第1回定期演奏会」から48周年に当たる今年9月28日には、あの時演奏したベートーベン劇音楽「エグモント」作品84序曲を、「やまぎんホール」にて山形交響楽団が創立名誉指揮者の村川千秋さんの指揮で演奏したのでした。御年87才の兄が指揮する姿を、二階席で感慨深げに見つめる村川監督の姿がありました。

 村川監督は山響草創期には青年会議所の会員にもなり、山響普及に奔走していました。その間も昔の日活関係者に脚本を書いては送っていたのでした。そんな或る日、日活時代の仲間だった石原裕次郎さん率いる石原プロがテレビドラマ制作に乗り出すから東京に帰ってこないかとの誘いがあり、師匠の舛田利雄監督らと共に1976年1月からスタートした日本テレビ『大都会―闘いの日々―』の演出を手掛けることになったのでした。

 

 当初は山形から通いでしたが、物理的に厳しくなり、東京に住まいを借り、山形・東京の二重生活が始まったのでした。村川監督は、山形に帰っている頃、『太陽にほえろ』でジーパン刑事を演じていた松田優作さんの姿・形、テンポ、型に捉われないけど演技の組み立てはキチンとできている等これまでの既存の俳優とは違うスケールの俳優が出てきたと注目していましたが、彼は74年から75年に数度の暴力事件を起こし、謹慎を余儀なくされていました。「危ない俳優」とレッテルを貼られていた優作さんの才能を惜しみ、76年1月27日放送『大都会』第4話「協力者」のゲストに招いたのでした。

 松田優作さんは、そこで演じた隻眼の暴力団員役の好演が認められ、『大都会PARTⅡ』(77年4月~78年3月)では、渡哲也さん演じる黒岩の部下である徳吉刑事としてレギュラー入りしています。この辺りから村川監督と優作さんは「共に映画を作ろう」と夢を語るようになり、78年から80年にかけての東映セントラル制作『最も危険な遊戯』(78年4月8日)、『殺人遊戯』(78年12月2日)、『処刑遊戯』(79年11月17日)の「遊戯シリーズ」、角川映画製作『甦える金狼』(79年8月4日)、『野獣死すべし』(80年10月4日)に繋がり、二人のコンビ作品は一世を風靡することになります。

 

 優作さんは私にとっても憧れの俳優でしたので、彼の話は随分伺いました。監督にとっては息子であり弟、そして同志のような存在だったようです。村川監督はこの間も『大都会PARTⅢ』(78年9月~79年9月)、石原プロがテレビ朝日で新たにスタートさせた『西部警察』(79年10月~84年10月)、優作さんとの日本テレビ『探偵物語』(79年9月~80年4月)そして角川映画『白昼の刺客』(79年4月17日)、『薔薇の標的』(80年4月26日)等を手掛けているのですから驚くばかり。40代前半の働き盛りとはいえ超人的な仕事ぶりです。台本を3冊ぐらい抱えながら走り回っていたのでしょう。

 

 俳優でいえば、監督は優作さんに続いて、当時、ミュージカル劇団「東京キッドブラザース」で頭角を現してきた柴田恭兵さんに目を留めました。それは「動きにキレがあり素晴らしい役者だ。優作とやらせてみたい」との想いに駆られ、主催者の東由多加さんに「柴田恭兵君をテレビに貸してくれないか」と交渉。本人に直接オファーして欲しいと言われ、恭兵さんとさしで呑み、東京キッドの汗と涙の熱い世界に燃えていて、テレビドラマの世界を否定する恭兵さんに対し「恭兵くんがどう動こうとも全部撮ってやるから」と熱心に説得し、『大都会PARTⅡ』15話「炎の土曜日」(77年7月12日)にゲスト出演させることに成功。それが柴田恭兵さんにとっての映像デビュー作となったのです。

 

 村川監督の狙い通り評判が良かった恭兵さんを、36話「挑戦」(77年12月6日)に再度招いたのでした。その後、柴田恭兵さんの映像での快進撃が始まり、村川監督とは『大追跡』(日本テレビ78年4月~9月)、86年の日本テレビドラマから2016年劇場版に至る『あぶない刑事』シリーズ、テレビ朝日『風の刑事・東京発!』(95年10月~96年3月)、『はみだし刑事 情熱系』(1996~2004)、『越境捜査シリーズ』(2008~11)』等で長きに亘りタッグを組むのでした。

 

 映画『最も危険な遊戯』(78)では、冒頭の場面で優作さん、石橋蓮司さん、内田裕也さんと雀卓を囲む役で、『白昼の死角』(79)では内田良平さんと共に殺し屋役で出演しています。2005年2月に、監督の故郷山形県村山市で『第1回 村川透映画祭』を開催する時、柴田恭兵さんにゲストでオファーしたら「村川監督は私を映像の世界へいざなってくれた恩人です」と快諾してくださり、息子さんを二十歳で亡くされた2か月後にも拘わらず、その事実を伏せて参加して下さったことからも、監督との絆の深さを再認識したのでした。

 

「村川透映画祭2005」初日。左から村川監督、柴田恭兵さん、荒井。村山市民会館大ホール(2005.2.5)

 

 『村川透映画祭』にも触れておかねばなりません。村川監督と接し、話を伺えば伺うほどそのお人柄とお仕事ぶりに心酔していきました。そんな監督が、ある時、「山形の人間は、オレのことをポルノやアクション映画の監督ぐらいにしか思ってないんだよ」と寂しそうにポツリと漏らしたのでした。

 そこで私は監督の故郷、村山市の人に村川監督の本当の価値を知って欲しいと思い『村川透映画祭』の実現に向けて走り出したのでした。まずは、私が県内各地で上映運動の仕事をしていたころに、村山市教育委員会で「若妻会」の担当者として一緒に上映会作りをした安達きわさんを頼り、人探しから始まりました。早坂幸起さん、井上敏春さん、阿部典子さん、古澤聡さんなど有志が集まりました。

 

村山市制施行50周年記念事業として開催された「村川透映画祭2005」のフライヤー。

 

 3年間ほど紆余曲折はありましたが、村山市の主催で2005年2月5・6日の二日間、村山市民会館大ホールでの開催が決定。私がゲストを招くことを提案すると村川監督は、柴田恭兵さん、舘ひろしさん、高橋英樹さん、風吹ジュンさん、樹木希林さん、平泉成さんらの名前が挙がりました。私は、村川監督の初の映画祭には柴田恭兵さんが相応しいと思い「恭兵さんをお願いします。」監督は「そうか!」と納得し、監督自らオファーをしてくださり、前述したように快諾して貰ったのでした。

 

 それは2004年10月の本番4か月前の事でしたが、私は早速、ブログで『村川透映画祭』開催と、ゲストに柴田恭兵さんがいらっしゃることを告知しました。そうしたら大反響で、いつもはブログへの来訪が150人足らずなのが2000人ほどに跳ね上がったのです。そして柴田恭兵さんのファンサイトを管理している女性から問い合わせ。それは「柴田恭兵さんはトークショーや講演はなさらない方です。荒井さんのブログにゲスト参加とありましたが、本当ですか?」という半ば否定的な問い合わせでした。そこで「村川監督が私を映像の世界へいざなってくれた恩人ですから」と二つ返事で承諾してくれたんですよ」と伝えると納得してくださり、記録的大雪の中、映画祭に足を運んでくれたのでした。

 

 恭兵さん人気もあり、前売り券1000人分は忽ち完売。そして当日の上映と私が聞き手を務めての村川監督と恭兵さんのトークショーは、時折笑いを交えて大盛り上がりとなったのでした。

 上映作品は村川透監督『最も危険な遊戯』(1978)、村川透監督『もっともあぶない刑事』、日本テレビ『大追跡』から「横浜チンピラ・ブギ」(78)、『大都会 闘いの日々』より「協力者」(76)、『探偵物語』より「聖女が街にやって来た」(79)。

 

「村川透映画祭2005」初日。左から村川監督、柴田恭兵さん、荒井。村山市民会館大ホール(2005.2.5)

 

「村川透映画祭2005」2日目。左から荒井、赤塚真人さん、村川監督。村山市民会館小ホール(2005.2.6)

 

「村川透映画祭2005」2日目。「獣たちの熱い眠り」上映前にあいさつする村川監督。(2005.2.6)

 

「村川透映画祭2005」2日目。「獣たちの熱い眠り」上映後のトークをお揃いのスタジャンで。左から荒井、村川監督。(2005.2.6)

 

「村川透映画祭2005」閉幕にて実行委員記念撮影。前列には脚本家・映画監督の柏原寛司さん、村川ご夫妻、赤塚真人さん。村山市民会館小ホール(2005.2.6)

 

 二日目は小ホールで俳優・赤塚真人さんと村川監督とのトークショー。こちらは赤塚さんの個性もあり、より笑いが主体のものになりました。上映作品は、村川透監督『獣たちの熱い眠り』(81)映画祭は大好評で、翌2006年5月27日に『第2回村川透映画祭』が開催されました。日活時代1962年からの40年以上の付き合いでテレビ朝日『西村京太郎トラベルミステリー』シリーズでも長年タッグを組んでいる高橋英樹さんと監督の秘蔵っ子の須藤正裕(当時・雅宏)さんをゲストに招き、二部構成での上映&トークショーを開催。

 

「第2回 村川透映画祭」で高橋英樹さんをゲストに招いて。村山市民会館大ホール(2006.5.27)

 

「第2回 村川透映画祭」で須藤正裕さん(当時は雅宏さん)をゲストに招いて。村山市民会館大ホール(2006.5.27)

 

「第2回 村川透映画祭」控え室にて。左から荒井、村川監督、赤塚真人さん、高橋英樹さん(2006.5.27)

 

 上映作品は前半、須藤さん出演『行き止まりの挽歌~ブレイクアウト~』(1988)、後半、西川克己監督、高橋英樹出演、村川透助監督『伊豆の踊子』(1963)、中平康監督、高橋英樹主演『若くて、悪くて、凄いこいつら』(1962)。2回目からは、村川監督の大ファンでマニアの石川宗高さんが埼玉県から実行委員会に参加するなど大いに盛り上がったのですが、当時の村山市長の不祥事による辞任等で、映画祭が2回だけで終了したことが残念でなりませんでした。それでも、私の当初の目的だった村川監督の偉大さを古里の方々に知らしめるということは成し遂げられたのではないかと思います。

 

横浜市・日本郵船内の「あぶない刑事リターンズ」撮影現場にて。左から荒井、村川監督、仙元誠三カメラマン(1996.6.9)

 

「あぶない刑事リターンズ」先行試写トークにて。左から荒井、村川監督、出演女優の大竹一重さん(1996.9.9)

 

 この他、映画『あぶない刑事リターンズ』(96)に取材で伺ったついでに出演させてもらったり、私が担当していたラジオ番組の提供社「JAやまがた」のスタッフと『西村京太郎トラベルミステリー』(高橋英樹主演2007年11月)、『鉄道捜査官』(沢口靖子主演2008年9月)撮影現場で炊き出しをして、スタッフ・キャストに山形の美味いものを食べて貰ったりと様々な貴重な経験をさせて貰いました。

 

南陽市の農民シンガー須貝智郎さん宅で。左から荒井、赤塚真人さん、須貝智郎さん、村川監督(2003.11.3)

 

米沢市八幡原にて。左から赤塚真人さん、村川監督、荒井(2005.7.24)

 

「鉄道捜査官」山寺ロケにて、荒井が郵便配達員役で出演。村川監督、沢口靖子さんと(2007.5)

 

2012.11.4放送「西村京太郎トラベルミステリー」山形ロケ(東根市)で農家親父役で出演。高橋英樹さん、高田純次さんと(撮影は2012.6.10)

 

 2014年から村川監督は、村山市楯岡の実家をリノベーションした「アクトザールM」に有志を募り、コンサートや上映会を開催し、地元の人たちの文化・いこいの場として提供しています。私は、2012年夏に、このご実家から荷物を運び出すところまでお手伝いをして、あとは袂を分かつようになりましたので「アクトザールM」の活動には参加していませんが、15年前の『村川透映画祭』の時に集まった方々が中心になってくれています。2016年2月には山本俊輔・佐藤洋笑共著「映画監督 村川透 和製ハードボイルドを作った男」が上梓されました。

 

 監督は3年前から東京のお宅を引き払い、山形市の自宅で暮らすようになっていますが、83才の今も尚、現役で高橋英樹主演『西村京太郎トラベルミステリーシリーズ』、沢口靖子主演『鉄道捜査官シリーズ』、東山紀之主演『棟居刑事の捜査ファイル』等のメガホンを取り続けているのは流石です。『さらばあぶない刑事』(2016年1月31日公開)のメガホンを取ったのも村川監督でした。私にとって村川監督は大恩ある方であることに変わりはありません。未だ尽きることなきエネルギーと衰えない足腰には感服いたします。

 

旧シネマ旭を会場に「第1回 山形国際ムービーフェスティバル(YMF)」でのトーク。村川監督と右隣が女優の村井美樹さん(2005.10.9)

 

山形駅前「こう助」にて村川監督を囲んで、村山市「村川組」の方々と(2009.1.30) 前列右端が2018.12.29に54歳で急逝した早坂幸起さん。

 

「旧 鶴岡まちなかキネマ」開館の年に小林好雄社長と(2010.7)

 

「YMF 山形国際ムービーフェスティバル」の第1回目から選考委員長を務める村川監督(2010.11.13)

 

 私を村川監督に引き合わせて下さった恩人・大類啓さんは2015年3月17日に74才で永眠。また、2005、06年開催『村川透映画祭』の実行委員から成る「村川組」の中心になってくれていた早坂幸起さんが2018年12月29日に心筋梗塞で54才の若さで急逝。

 そして、長年映画作りを共にしたお仲間たち、プロデューサー 黒澤 満さん(2018年11月30日 85才)、伊地智 啓さん(20年4月2日 84才)、撮影監督 仙元誠三さん(20年3月1日 81才)、俳優 渡瀬恒彦さん(17年3月14日 72才)、大杉 漣さん(18年2月21日 66才)、樹木希林さん(18年9月15日 75才)、山谷初男さん(19年10月31日 85才)、渡 哲也さん(20年8月10日 78才)が近年、相次いで亡くなりました。そして、去る10月17日に、私が監督に紹介して以来20年以上厚い信頼を寄せていた弁護士の佐藤欣哉さんも74才で逝ってしまいました。

監督の悲しみは如何ばかりかとお察しいたしますが、この方々の分も長く現役でご活躍を続けることを願ってやみません。

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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