特集の傍流
かつて山形にあった〝アマゾン〟。世界的にも貴重だと注目されている文化資源が今、危機に瀕しています。
アマゾン研究所 所長 山口吉彦さん・山口考子さん
出羽庄内国際村(鶴岡市)
フランスの社会人類学者であり民族学者のクロード・レヴィ=ストロースが集めた、アマゾン・インディオ(※アマゾン流域で暮らす先住民)の民族資料に心を奪われ、アマゾンのインディオと交流しながら物々交換をし、膨大な民族資料を蒐集してきた山口吉彦さん(アマゾン先生)。当初は個人でのフィールドワークだったそれに妻の考子(なすこ)さんも加わり、調査研究は夫婦協働の活動となった。
覚えていますか?山形にあった〝アマゾン〟のこと。
山形とアマゾン。一見、何のつながりも無いように思えるこの組み合わせ。今や「アマゾン」と聞けば地球の反対側にある大河や密林地帯よりも、ウェブ通販サービスを思い浮かべる人が多いだろうが、かつて山形県鶴岡市には、アマゾン流域の民族資料を展示する世界的にも珍しい「アマゾン民族館」と「アマゾン自然館」があった。同2館は鶴岡市の観光宣伝や外国人観光客誘致のきっかけとなっていたが、2014年3月末に惜しくも閉館してしまったのだ。
なぜ山形にアマゾン? 夢を追い続けた男の存在。
当時の展示品・収蔵品はもちろん今も残っているが、それらは全て鶴岡市出身の山口吉彦さんと、妻の考子さんによって集められたものだ。
元々、蝶や虫が好きな「昆虫少年」だった山口さんは、小学校の図書館で読んだ『アマゾン探検記』、そして中学生の時に地元の致道博物館で行われていたアマゾン展を観て、アマゾンの魅力にはまっていくように。その生物学的な興味から東京農業大学に進学し、熱帯農業を専攻したが、フランス留学で訪れたパリの博物館にて、前述したレヴィ=ストロースのアマゾン・インディオの民族資料に心奪われることになる。

山口吉彦さん)文化人類学研究者。アマゾン民族館・自然館の館長を務め、外国人留学生と庄内の若者を交流させる「庄内国際青年祭」の実施、「庄内国際交流協会」の発足など、国際理解と交流に傑出した活動を行ってきた。現在はアマゾン研究所(鶴岡市内)所長。
民族資料とは、その民族の生きてきた証しであり、暮らしのすべてが詰まっている。「モノには真実が詰まっている」と感じた山口さんは、1967年頃からフィールドワークを開始し、アジア、アフリカをはじめ85カ国を回る。
サハラ砂漠では盗賊と遭遇し所持品を奪われ、砂漠を3日3晩さまようこともあったが、日本人学校の教師として念願のペルーに滞在する機会を得てからは、教職の傍ら、アンデス、アマゾンの調査活動に励んでいった。

アマゾン奥地での交通手段はカヌーと徒歩のみ。カヌーが転覆してピラニアに噛まれることもたびたびだった。
1975年、考子(なすこ)さんと結婚し、アマゾンの調査研究は夫婦協働の活動となる。ご夫妻は日本で出会ったということだが、その出会いも、アマゾンでのコレクションがきっかけだったという。

山口考子さん)一般社団法人 ラフターヨガ・ネット代表理事。現在日本初のラフターヨガ・マスタートレーナーとして、「アマゾンなすこ山口」の名で世界中で活動中。
アマゾンでの品々に興味を持った考子さんはフィールドワークに同行。「アマゾンがなかったら(吉彦さんと)一緒になってはいませんね」と朗らかに笑いながら、アマゾンがなければ彼と結婚することもなかっただろうと語る。

当時の写真を紹介する考子さん。
その後も危険と隣り合わせのアンデス、アマゾン地域の調査を続けるうちに、ご夫妻の興味は、生物学や文化人類学的なものから、次第にアマゾン流域で暮らす人たちの流儀や、道具や装飾品が生まれるに至った、彼らの生活の哲学へと移っていった。身近なものからいろいろな道具を作り、多くを獲りすぎずに自然と共存する生活そのものを保存したくなったのだ。「だから何度か死にそうな目にも遭いましたが、やめようと思ったことは一度もないですね」と穏やかな笑みを浮かべる山口さん。

インディオのリーダーとその家族と映る山口さん。インディオたちと寝食をともにし、時には一緒に狩りをしたり、踊ったり。警戒心の強いインディオの人々も、彼らの子供が山口さんになつき出すと徐々に信用してくれるようになり、次第に打ち解けていった。
その冒険譚もさることながら、圧倒されるのは何と言ってもその情熱がつまったコレクションの量。2万点以上にのぼる品々は、アマゾン地域の開発が進んで現地のインディオ(先住民族)の文化が消滅してしまう前に、そして、日本がワシントン条約に加盟する1980年前に手に入れたもの。今では国外への持ち出しが禁じられている貴重な資料だ。
これらを役立たせる良い方法はないものかと考え、故郷の鶴岡市に戻ることを決意した山口さんは、1982年、自宅の庭に収集品の収蔵庫「アマゾン資料館」を開設。そこを拠点に、草の根に国際交流活動を始めることに。

資料館開館当時の山口さん。後ろには動物たちの剥製が見える。

一般的な民家の玄関に手書きの看板をつけた素朴な外観。

当時の「アマゾン資料館」館内。
こうして約35年前、子供たちに夢とロマンを与えた物語が始まったのだった。
子供たちが道具に触れながら異なる文化を学んだのは、こんな場所でした。
現在も全国各地でアマゾンに関する講演を行い、子供たちだけでなく大人にも「アマゾン先生」と親しまれている山口さん。「子供たちに夢を届けたい」というその想いはもちろん、アマゾン民族館・自然館の開館当初からあった。
館内にはボタンを押すと子供向けの解説が流れるモニターや、インディオを取り巻く自然環境や生活文化を3Dで伝えるシアター、仮面や武器のレプリカに触れたり本物の楽器を奏でたりできるスペースがあり、子供たちは鮮烈なままに残された異文化を、手を伸ばせば触れられる距離で学ぶことができた。そういった貴重さから教育的利用も頻繁に行われ、大学生や研究グループなども数多く訪れて、文化への理解を深めていった。

現地で急速な開発が始まって以降、生態系が大きな影響を受けたため、入手困難な資料が多く残されていたアマゾン自然館。

色紙(いろがみ)を使ってインディオに似た格好になった子供たち(アマゾン民族館)。

今では失われた生活様式について理解を深めた学生たちの記念撮影(アマゾン民族館)。
先住民に関する民族学的資料約1万点、生物学的資料約2万点が収蔵され、個人収集によるアマゾン関連資料としては世界一の規模と内容を誇っているだけに、子供だけでなく大人も冷めやらぬ興奮や感動を覚えたことだろう。生き物文化誌学を研究し、ナマズの研究でアマゾン民族にも詳しい秋篠宮殿下も、当時の館内を何度も訪問し「もっとも優れた個人コレクションのひとつ」と感心されたという。
2施設は、入館者の減少や設置期限切れ、鶴岡市の財政状況を理由に閉館。その資料は山口さんの個人所有物だが、ある意味で日本あるいは鶴岡市が手に入れた人類の遺産、貴重な文化財であることには変わらない。
今では見られなくなった、アマゾンコレクション。
閉館した以上、展示品と収蔵庫の品は一般公開されていないため、本来なら見ることは叶わない。今回は取材ということで入館や撮影の許可をいただけたが、実はその収蔵品が今、散逸の危機に瀕している。詳しくは後の記事で紹介するが、まずは今では見ることができなくなってしまった文化や収集品の価値について改めて見ていこう。アマゾンと日本、そして山形。意外にも通じるところがあったのだ(次記事「アマゾンと日本、そして山形。国は違えど、どこか似ている私たち。」に続く)。
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