特集の傍流
写真・資料協力/岸本誠司、鳥海山・飛島ジオパーク推進協議会、酒田市商工観光部観光振興課
山形県酒田市飛島
昭和38年に鳥海国定公園の一部に指定され、昨年9月には「鳥海山・飛島ジオパーク」として、日本ジオパークにも認定され、今後さらなる展開が期待される飛島。
そもそも「ジオパーク」とは、「地球・大地(ジオ)」と「公園(パーク)」とを組み合わせた言葉で、「大地の公園」を意味する。つまり、地球を学び、丸ごと楽しむことができるエリアのこと。NPO法人日本ジオパークネットワークによる定義では「ジオ(地球)に親しみ、ジオツーリズム(地形・地質や、そこに暮らす人の生活や文化について学ぶ旅)を楽しむ場所」となっている。
日本にある「ジオパーク」はそれぞれ、日本列島の形成に関わる太古の地質や、火山、海岸地形など、多様なジオサイトを有しており、複数の自治体にまたがるケースも多い。

島の西部の海岸より。
奥深き島、飛島に伝わるミステリーの数々。
大地の多様性を感じさせる、海岸特有の岩や地層。南北の植物が混生する、島特有の豊かな自然。海に生きる人々によって、培われてきた歴史と文化。この飛島の中には、その全てがある。
飛島といえば、「漁業と観光の島」という印象が強いが、実際に見て歩いたり、全体を把握するのにちょうど良い大きさの島の中に、これほど中身の濃い要素がこれでもかとつまっている島も、そうそうないだろう。
そんな飛島だが、先の記事にて少し触れたように、この島には数々の伝説や昔話が伝わり、語り継がれてきた。また、それらにちなんだ地名や風景も島内のあちこちに見られる。その謎めいたストーリーと歴史を読み解くヒントになるのが、現在の島の姿だ。大地の活動が生み出した飛島の景観や、周囲の小さな島々に現れる地形や、周囲の環境から、その成り立ちだけでなく、「なぜそのように伝えられてきたのか」という物語の背景をも知ることができる。さっそく、その一部を見てみよう。
洞窟の中から謎の人骨を発見?
勝浦と中村の境界にある、謎の洞窟として知られる「テキ穴」は、古くから神聖なところとされ「決して入ってはいけない」と、近寄ることが禁じられてきた。その昔、勝浦では、法木の寺の裏までつながると言われていたという。
ところが、昭和39年に地元の中学生が穴の中で人骨を発見したことを機に、事態は急変。中からは平安時代の人骨や土器が多数出土した。なぜそこに人がいて、隠れるように暮らしていたのか、その死因など、謎の部分が多く、様々な推測がされている。

テキ穴内部。流行病の人を遠ざけた説、「テキ穴」のテキは、えびすやえみしと読む「狄」であることから、エミシが住んでいた説、水難死者(エビス)を弔った場所という説などがある。
海賊が砦を築いて守っていた?
島の南方、巨大な一枚岩である館岩の崖上からは、勝浦港と勝浦・中村地区が一望できるが、ここには謎の石塁と、古代文字といわれる引っ掻き傷のようなものが彫られた石板がある。これは、島に住む海賊が、この地に砦を築いていたからではないかと言われている。

謎の石塁。

館岩から、勝浦・中村地区を望む。酒田港が西廻り航路の起点として栄えた理由のひとつに、外港として機能した飛島の存在がある。固い流紋岩でできた館岩が天然の良港となる地形をつくり、江戸時代から明治時代にかけて、多い年には年間500隻を超える北前船が飛島に停泊した。
賽の河原の積み石は崩しても元に戻る?
小松浜海水浴場から海岸遊歩道を西に。火山岩(流紋岩)が創りだす荒々しい景観のなかをしばらく歩くと、こぶしほどの大きさの丸石が大量に打ち上がった「賽の河原」が現れる。島民は滅多に近寄らない場所で、古くから死者の魂が集まる処と信じられてきた。御積島、明神社、そして亡き人の魂が集まるという賽の河原。島の西方は、聖地、霊地として意識されてきたのだ。
この賽の河原に積まれた石は、崩してもいつの間にか元に戻るといわれ、その理由についても、波の作用か、人の作用かと、様々な考察がされている。
また、この場所は、計測によって風速40メートルの風が時折吹くことが判明している。風の通り道でもあるので、風で石が少しなりと動くことは考えられる。しかし、このように三角形に積みあがるとは考えにくい。
一度、ある研究グループが「崩した石は本当に元に戻るのか」という実験のため、積み石を崩した。翌日見に行くと崩されたままだったというが、何日か後に再び見に行ってみると、元に戻っていたという。石が崩れているのを見て、信心深い観光客たちが少しずつ石を積み上げていったから元に戻ったのか、それとも何か別の理由なのか……。真相は不明である。

石積の傍らには地蔵様が祀られているが、人気もないのにこの辺りの草が寝て(倒れて)いると、七日もしないうちに島で葬式が出たといわれる。
なお、この丸石は安山岩という岩だが、付近の岩とは種類が異なるもの。沖に見える烏帽子群島には「グズ浜」という、丸石が集まった浜があるが、この浜の石は賽の河原と同じ種類の岩であるため、賽の河原の丸石は烏帽子群島に由来する石ではないかと推測されている。つまり、かつて何らかの要因で石がここまで運ばれてきたと考えられるのだ。
写真には写っていないが、積まれた石と浜を挟んで向かい合うように、海側に存在している岩が、ちょうど積まれた石の土台部分の高さで削られている。つまり、そこまで波が来て、長い時間をかけて削られたということ。その光景は、実際に足を運んで見てほしい。

ここの石を持ち出すと良くないことが起こるといわれているため、決して石を持ち帰ってはならないと繰り返し強くアナウンスされている。軽い気持ちで持ち帰ってしまった観光客が、のちに返しにくることもあるという。
女人禁制の風習が残る、龍の棲む穴がある?
「御積島(おしゃくじま)」は、島の西方約1キロにある、標高75メートルの島。洞窟の内部には、黄金に光る龍の鱗のような岩肌が見られる。島では古くから、海神である龍神の住む聖地といわれ、島民や船乗りの篤い信仰を集めてきた。この鱗状の岸壁はウミネコの糞の成分の化学変化によるものと判明したが、この島やその近辺で不思議なことが起こったという話は昔から尽きない。

島には船がないと行くことができないため、原則立入禁止だ。御積島の奥の洞窟は、遠賀美(おがみ)神社の御神体である。明神社は御積島を飛島から拝むための遙拝(ようはい)社である。

島内の遠賀美神社。扁額(へんがく)には龗(おかみ)神社とあるが、古くは、遠賀美の賀は濁らないため、そのように呼ばれていたと考えられる。龗(おかみ)とは日本における代表的な水の神。龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。

かつて、この明神の社も女人禁制の掟が守られていた。

風から守るため社の周囲は石塀(いしぺい)で囲まれていて、独特の雰囲気が漂う。その昔、ここを訪れた女性の髪が、伸びてきた松の木の枝に絡め取られたという言い伝えもあるほど。

従来は小物忌大明神という名の社だったといい、屋根には「小」の文字がある。
島と本土を結んだ橋桁が岩になった?
西方沖に浮かぶ「烏帽子群島」には、火山岩がゆっくりと冷え固まったときにできる、鉛筆のような六角形の柱状の割れ目「柱状節理」が見られる。島の人が「材木岩」と呼ぶこの島々には、かつて飛島を訪れた弘法大師が、離れ島の不便を哀れんで島と本土の間につくった橋が崩れ、その橋桁が流れ集まったものだという伝説が残っている。

「烏帽子群島」は火山活動でできた島々。伝説では「朝、一番鶏が鳴くまで橋を見にきてはならぬ」という約束を破った人々に怒った弘法大師が橋を崩したという。
ストーリーには島の人々の生きざまも表れる。
自然の景観に神や霊的なものを見出したり、「~してはいけない」という決まりを昔から忠実に守ってきたりと、物語の随所からうかがい知ることができるのは、島の人々の信心深さでもある。飛島には神社が5社、寺院が2寺あり、様々な祭礼が受け継がれていることからも、それを思い知らされる。

海の民にとって島と山は大きな目印。鳥海山と飛島、周囲の小島を見て位置を確かめるとともに、漁や航海の無事を祈願した。
先に紹介した「火合わせの神事」の他にも、例大祭や大漁祈願祭などが各地区で行われている。危険と隣り合わせの海に生きる者にとって、「海上安全」、「大漁満足」は切実な祈りであり、そうした生きざまも、言い伝えに滲み出ているのだ。
先人が残した物語を、歩いて読み解く愉しみ。
このように、飛島に見られる多様な景観、自然が創り出した造形に、神秘と畏敬の眼差しを向けた先人たち。洞窟、浜、岬、岩、小島など、飛島には大地と人の物語が色濃く刻まれ、今、生きている我々も実際に体感することができる。知れば伝えたくなる面白さのある飛島は、多くの発見と、学びに満ちている。次の記事では、言い伝え以外の学びのスポットについて見ていこう。
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