特集の傍流

2017.10.6

東北最古のワイナリーがもたらしたワイン造りの黎明。そして、山形県産ワインの飛躍。

2017年11月号(157号)やまがたワイン考《前編》
酒井ワイナリー 代表取締役 酒井一平さん
菊地園芸 代表取締役 菊地善和さん
山形県南陽市
歴史監修・写真提供/酒井ワイナリー、大浦葡萄酒

 山形のワイン造りのあけぼのは、酒井ワイナリー(南陽市)の創業者、酒井弥惣氏によってもたらされる。そもそも、南陽市は江戸初期にぶどう栽培が始まった山形県ぶどう発祥の地であり、「甲州(現・山梨県)の鉱夫が甲州ぶどうを持ち込んだ説」と、「出羽三山に通じる街道を通って修験者がぶどうを持ち込んだ説」の2つがあるという。(南陽市鳥上坂「ぶどうの碑」より)

 

国道13号線沿い、南陽市鳥上坂にある「ぶどうの碑」。全国的にも珍しい碑で、ぶどうに関する歌碑とともに建てられている。


 

「ぶどうの碑」裏面。


 

 文献などにしか残されていないこれらの説を証明することは不可能だが、当時この地は金鉱山で栄えていたと言われている。「いずれにしても、この地で金が採れなければ、人もやって来ることはなく、ぶどうが持ち込まれることもなかったでしょう」と語るのは、今回、山形におけるワインの歴史についてお話と監修をいただいた、酒井ワイナリー5代目にして代表取締役の酒井一平さん。「この地に金鉱山があった名残は、地元の〝金山〟〝金沢〟といった地名や〝金渓ワイン〟〝紫金園〟といった、ワインやぶどう農園の名前にも表れています」。

 

山形におけるワインの歴史についてお話いただいた酒井一平さん。


 

 結果として、江戸時代後期にはすでに、南陽市の一帯では甲州ぶどうが作られていたと考えられており、また、ところ変わって旧朝日村では、ワインという名前さえ知らなかった昔から、地元民や修験者たちが野生の山ぶどうを自然発酵させ、滋養強壮や疲労回復、増血などに効能があるとして愛飲する風習があったという。これを地域活性化に生かそうと、昭和54年に月山ワインが製造を開始している。こうしてみると、山形県土着の文化も、この地がワインの産地となるべき土壌を作ったと言えるだろう。

 

 明治になり、欧州種や米国種のデラウェアなどが入ると、山形はいよいよぶどうの産地として栽培が盛んになった。
「昔の人は、欧州種や米国種の名前に馴染みがなかったため、ぶどうを交雑番号や愛称で呼んだんです。デラウェアは小姫(こひめ)と呼ばれていました。今はもうそのように呼ぶ人はいませんが、弊社ではデラウェアから造ったワインに〝小姫(こひめ)〟と名付けて販売しています。せめてワインの名前にして残そうと思ったんですよ」と酒井さん。小姫とはなんとも可愛らしい響きだが、「大切にされ可愛がられた証でしょうね」とのこと。
 そんな中、1874(明治7)年、後に米沢牛の美味しさを全国的に広めることに貢献するチャールズ・ヘンリー・ダラス氏が赤湯を訪れる。しかし、「こんなに美味な牛肉(米沢牛)があるのに、それに合う酒がない」と嘆いていたという氏。そんな氏は赤湯にあった甲州ぶどうを見て、ワイン造りの方法を伝えることになる。ちなみに、甘みが強いデラウェアは、辛口が主流で好まれた明治時代当時はワイン用としてはあまり価値がなく、もっぱら生食用のぶどうとして生産されていた。
「ぶどうからワインという酒が造れるということを、初代はおそらく親から聞いたのでしょうか。けれど、初代は当時、幼年だったものですから。ワイン造りを志したのは25歳と聞いております」

 

店内に飾られている、酒井弥惣氏の胸像。


 

 ワインの造り方の手本があるわけでなく、当時栽培されていたぶどうは醸造にも程遠い量だったという。そんな中、氏はぶどうの本格的生産のため、1887(明治20)年に鳥上坂にぶどう園を開墾。周囲を山で囲まれた赤湯は、平野部に白竜湖があるため、一面が田園地帯になっている。田んぼのような水気の多い土地ではぶどうは育たないため、氏は平地の栽培ではなく、山の斜面での栽培を考えたのだ。氏は1892(明治25)年、ワイナリーを創業し、ぶどう酒醸造に着手する。
 地元民に受け入れられ、売れるワインを造りたいと、帝国大学農科大学の古在由直氏に教えを乞うが、当時のワインはどれも辛口ばかり。氏は独自にワイン造りを研究し、甘口ワインを造ることに成功。狙い通り、甘口ワインは大ヒットする。全国的にもワインは国民に広く知れ渡り、生産量も上がっていくことに。
「初代は後に当時の赤湯町長となりましたが、町有地の十分一山(白竜湖に向かった南斜面)を開放して一般に貸し付けて、ぶどう園として開いたんです」と酒井さん。その山は、赤湯初の観光農園となる須藤ぶどう酒工場の初代、須藤鷹次氏をはじめ、人々の協力によって全山ぶどうの山となる。大正初期には、ぶどうは米より高値が付き、景気に沸いたという。

 

酒井ワイナリーに残る、同社の大正時代当時のラベル。ラベルを作れるほどに、ある程度の量産をしていたことがうかがえる。


 

 ぶどうから作った純粋な甘口ワインを造り続けていった酒井ワイナリーも、ぶどう景気によってワイン醸造だけでなく、生食ぶどうの栽培や、ワインを蒸留したブランデー造りなど、多岐に渡る経営で好景気であった。しかし、第二次世界大戦が始まると、美味なワインを追求するワイナリーはどれも、厳しい状況に立たされることになる。
 ワインからは、ぶどうに含まれる酒石酸がとれることがあるが、実はこの酒石酸、絶縁体としての機能を持つ。戦時中、絶縁体には硫黄が使われていたが、戦局が深まるにつれ、硫黄が全て火薬に回されると、酒石酸が代用品として注目され、急速に需要が高まった。

 

ワインより抽出した酒石酸。(同南陽市の大浦葡萄酒にて撮影)


 

 電波探知機に使うための酒石酸を大量に造れという軍の命令で、国策によってワインの醸造免許が簡単に入手できるようになると、ぶどうを栽培していればワインの知識に乏しくとも醸造が許されたため、「多い時では赤湯だけで60軒以上もの醸造所があったといいます」と酒井さん。
 あの物資統制の厳しい時代に、葡萄と葡萄酒はいくらつくってもよいといわれたほどで、醸造所は酒石酸工場として終戦近くまで毎日酒石酸とりに追われることに。当然、戦争で男手はなく、女手やお年寄りなどの手による作業がいかに大変だったかは想像に難くない。しかし、酒石酸がなぜ電波探知機の役にたつのかは、軍の機密によってか、知らされていなかったという。
 また、『南陽市史 下巻』には、酒石酸をとるのが最優先のため、ぶどうの収穫期に入ると、巡査が目を光らせて生食用のぶどうの買い出し人をしめ出したという記述が見られる。
 酒石酸を取った後に残ったワインは、「捨てるのはもったいない」と配給ルートに乗せられ、瓶詰めして販売もされた。しかし、当然ながら味は悪く、酸味も香りもないワイン。「赤湯のワインは飲めたものではない」との定評が根付いてしまうのに、そう時間はかからなかった。
 戦争が終わり、酒石酸の需要が無くなると、酒石酸のためにワインを造っていた醸造所のほとんどは閉業し、生食ぶどうの生産に戻っていった。そんな中でもこだわりを持ち、自社独自の強みを活かしたワイン造りを守ったのが、酒井ワイナリー、タケダワイナリー(上山)、須藤ぶどう酒工場、大浦葡萄酒、佐藤ぶどう酒の5軒のワイナリーである。これらのワイナリーが、山形ワインの礎を築いていくのだ。

 

幾度も起こったブームの中、注目され始めた「山形ワイン」。

 昭和50年頃になると、不味い酒のイメージを払拭し、山形のワインを再生しようと、山形県の全ワイナリーが団結していく。この頃にはワインも食卓において一般的になりつつあり、将来的な消費拡大が期待され始めたことから、大手酒造事業者もワイン造りに取り組むようになっていった。
 その中で、山形県のワイナリーの交流勉強会など、山形のワインを大きくアピールするための取り組みが始まり、山形ワイナリー協会が発足。昭和60年には山形県ワイン酒造組合となり、県の支援を受けられるようになった。
 県の工業技術センターによる品質向上ための研修や技術指導も、山形のワインの質を大きく飛躍させ、山形のワインは少しずつ全国的に知られるようになっていく。輸入果汁から造られる国産ワインや、バルクワインとの混合による国産ワインが多い中、山形のワインの多くは県産ぶどうだけで造ってきたこともあり、消費者の心や信用をつかむことに。こうして、ワイナリー同士の団結と各ワイナリーの努力が実り、今では全国的に「山形のワインは美味しい」と認められるようになったのだ。

 

 現在、国内のワイン市場は拡大しているものの、醸造用ぶどうの生産量は減少傾向にあり、ぶどうの確保は難しくなりつつある。また、安価な輸入ワインの流通が増加し、国産ワインとの競合は今後もさらに激しくなると考えられる。
県内でも醸造用ぶどうの生産量は、作り手の高齢化や担い手不足もあって、長期的に見て減少傾向にあり、生産者の育成や生産の拡大が急務となっている。
 また、国産ブドウ100%の日本ワインの需要が高まる中、ワイン用ブドウ苗木の注文も殺到している。害虫を予防するために接ぎ木の苗を植えるのが主流だが、扱う専門業者は全国で10数軒。そのうちの7軒が、ここ山形にある事はあまり知られていない。

 

お話しいただいた菊地園芸の菊地善和さんの苗木畑にて。


 

苗木は、害虫に対する抵抗性を持つ台木に穂木を接ぎ木する。


 

このように、きっちりと組み合うように木は削り出される。


 
 苗木を生産する菊地園芸(南陽市)にも、全国から注文が殺到している状況だ。代表取締役である菊地善和さんに話を聞くと、「今年はもう予約で完売」とのこと。
「来年の予約も既に入っていまして、需要に応えるため畑を増やしたり、業者間で情報を交換し、生産効率を高める努力を続けています」と菊地さん。慢性的な苗木不足の打開に、弛まぬ努力が注がれている。

 

 

菊地園芸では1年で3万本以上の出荷も。


 

 このように生産者、醸造者ともに厳しい状況に立たされている中だからこそ「ワイナリーを守っていくこと」を大切に掲げる酒井さん。近年は、地元よりも県外、都市部からの来客が多く、遠方の人から注目を浴びている酒井ワイナリーだが、地元の人々からもさらに愛され続けるために、同市で恒例のワインフェスティバルなどを通して人々との交流を図っている。

 

 

酒井さんが醸造した「鳥上坂 金沢」。カベルネ・ソーヴィニヨンを原料とする。


 

「その土地の味を大切にしたワインづくりを守っていくことですね。土地の味を出すということが分かっていないと、ワイン造りは厳しい」と話す通り、土地の味はワインにそのまま表れる。だからこそ、酒井ワイナリーでは堆肥を外から購入するのではなく、育てたぶどうのしぼりかすや畑にいる羊のふんを使用。「その地域にある物を集めて作ることで、この土地ならではのブドウができると思いますし、それが本来の文化だと思います」。
 この地でできることにしっかりと取り組み、地元のぶどうを守り抜き、次世代に赤湯ワインを伝えていくこと。創業125年を迎え、さらに奥深い味わいを追求する姿がそこにあった。

 

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