特集の傍流

2018.3.7

山形独自の酒造り集団〝大山杜氏〟と、〝大山酒〟の今昔をたぐる。

2018年4月号(162号)やまがたの日本酒と蔵人。
株式会社渡會本店 渡會俊正さん、渡會俊仁さん
山形県鶴岡市

山形県における酒造りの始まりがいつなのかは、残念ながらはっきりしていない。しかし、県内の主要な生産地のうち、戦国末期に家臣団が集住するようになった尾浦(現・鶴岡市大山地区)の城下町に起源を発するのが妥当とされている。
このようにかなり古い時代から、山形で酒の醸造が行われたと思われるが、江戸期に近江日野の商人が酒造に目をつけて投資したことから、清酒(すみざけ)の発展が見られたといわれる。

 

清酒発祥の地とされる伊丹の、江戸時代の酒造りの様子が記された『日本山海名産図会』(渡會本店「出羽ノ雪酒造資料館」蔵)。米洗いから搾りまでの各工程が細部まで正確に描かれている。

 

450年以上も続く酒造りのまち・大山に学ぶ、独自の酒造り集団の存在。

 山形県には多くの酒蔵が点在しているが、鶴岡市街から車で15分ほどのところにある大山地区は、古くから続く酒造りの町だ。江戸時代には天領(幕府直轄地)として、初期頃から本格的な酒造りが始まった。明暦3(1657)年には酒株制度が制定され、大山村50本の記述が認められるが、株高は一株あたり二石七斗余に過ぎなかった。
しかし、そこには「大山杜氏」と呼ばれた独自の酒造り工集団がおり、東北各地に出向いて酒造りを教えたり、逆に東北・越後の人々が修業にやって来たりしたという。

 

大正5年に発行された『大山酒史』。大山酒の歴史、沿革、醸造法、酒造家名およびその銘柄などが詳細に記されている。

 

「大山の杜氏集団はその昔、現在の宮城県大崎市古川や、秋田県の湯沢市の方に、酒造りの指導をしに行ったという歴史があります。また、秋田の湯沢や、福島の会津若松の末廣さんという酒蔵には、向こうから指導を依頼されて足を運んだとも伝わっています。南部杜氏や山内杜氏から酒造りを学んで大山杜氏が生まれたのではなく、大山杜氏が後の彼らに酒造りを教えたということなのです」
そう教えてくれたのは、大山に店を構えて400年余の蔵元であり、大山に関する膨大な古文書を有する、株式会社渡會本店の代表取締役、渡會俊正さんだ。
大山杜氏は、この大山の地に自然発生的に誕生した酒造り工集団であると推測されているというが、この時点で既に、他方へ酒造りを教えに行くことができるほどのノウハウを持っていたとは驚くべきことだ。

 

人、地理、そして幕領の恩恵を受けた大山の酒。

 酒造りのまちとして知られる大山は、「職人のまち」でもあり、かつては大工や左官、鍛冶屋など、職人町のようにそれぞれの職業ごとに集まって暮らしていたという。このような背景もあり、大山の杜氏集団は前職が職人であったり、あるいはそれを兼業している者が多かった。
「大山には、職人たちが互いに情報や技術を伝えあって磨き合う気風があったといい、それが大山の酒造りを支えたとされています」と渡會さん。江戸時代から幕末・明治にかけて、大山の特徴である各種手工業業者と密接に連携し、発展してきた大山杜氏は、町全体で「大山酒」という統一的な名称で酒造しており、「大山酒」の信頼を基盤として、情報と技術を高いレベルで共有していたという。

「また、大山の発展は人だけでなく、水が良かったことも大きく関係しています。大山の水は、鉄分が少なく酒造に適していましたが、どこでもその水を汲み上げられたわけではなかったため、蔵人は質と量を求め、大山川を越えたり、加茂まで水を汲みに行ったりしていました」。
また、大山川の水運によって、酒造米の入手や酒の輸送が比較的簡単だったことも、理由の一つとして挙げられる。さらには、大山は幕領ということで酒税も優遇されており、幕府の権威によって、庄内藩の自領酒擁護政策との紛争解決が非常に有利だった。こういった人的、地理的、そして経済的な要因が、大山という一地方の酒造業を発達させていったのだ。

 

渡會本店に併設している「出羽ノ雪酒造資料館」内で、展示されている古文書を前に説明している渡會さん。

 

出羽ノ雪酒造資料館では、古文書はもちろん、酒造りの道具や酒器など、日本酒の歴史を物語る貴重な品々が展示されている。

 

ところが、大山を庄内藩の管轄にする幕府の命令が下り、これに反対する「大山騒動」が、弘化元(1844)年に発生。当時の大山酒の発展は、地売市場においても私領酒を圧迫しており、これは私領酒と幕領の大山酒の対立が最も大きな形で現れた政治闘争だった。この騒動は、住民の敗北に終わる。
「約3千人が処罰を受けたといいます。騒動には、幕領の恩恵に与れなくなるとして、大山の酒造にかかわる人々も多く加わっていました」と渡會さん。
しかし、これを機に大山酒は従来の鶴岡への売り込みだけでなく、秋田、津軽海峡を越えて松前、西廻り航路を通って江戸や新潟、さらには長州、加賀、長崎にまで販路の拡大に努めていった。これが、大山酒を全国に知らしめることになるのだ。大山の造石数の変遷を見てみると、寛文元(1661)年は、1,146石(40軒)に過ぎなかったが、天保13(1842)年には8,905石(37軒)、明治元(1868)年は10,872石(36軒)、明治15(1882)年には15,000石(22軒)と、最盛期を迎えていく。

 

一般的に、遠国への大量の廻酒は大山酒の繁栄の証とされているが、実際は庄内地方での不振により、残酒の処分に苦しみ、損失を覚悟して行ったことだった。安政3(1856)年、大山に滞在していた国学者・鈴木重胤(しげたね)に仲介を依頼し、大山酒は江戸へ発つ。重胤のような商売の素人を頼らなければならなかったのは、それまで江戸との取引がほとんど無かったことを示していた。
この廻船は、嵐で樽が海に消えたり、江戸の酒問屋の反対を受けたりと、大損失を残して失敗する。しかし、このような不利な条件にもかかわらず、これを契機に沖出しは度々行われるようになり、結果、大山酒は独自の販路を開拓し、全国に進出していく。幕藩体制の崩壊期にあたり、不利な条件を克服しながら、特権的な流通機構の合間を縫って進出する大山の酒蔵たち、商人たちの意気やたくましいエネルギーを感じるエピソードだ。

 

「殆ど上国(かみがた)の佳醸に譲らず」と、一世を風靡した大山の酒。

 また、現在、酒どころとして有名な新潟県だが、かつてその新潟で大山酒が高い評価を得ていたことを記録に残す文書がある。
「安政の頃に書かれた『新斥富史(にいがたふし)』には、『酒は羽州大山より来る物を善しと為す、殆ど上国の佳醸に譲らず』と書かれ、その時代、新潟や函館では〝大山〟が良い酒の代名詞のように使われていたといいます」と渡會さんは話す。また、明治8年発行の、全国各地の名産品を紹介した『日本物産地引』には、羽前国の名産として大山酒が四方に輸出され、その味は東北一だと書かれている。
「200年ほど前から明治10年代ほどまでは、だんとつでこの町の酒があちこちで売られたという記録があります。やはり大山の酒が、それ相応の評価を受けたということでしょう」と渡會さんは解説する。
ところが、大山酒の造石数は明治20年に入ると数千石に減少する。その原因は、明治17年にあった大火の打撃であると一般的には考えられているが、それよりも、明治14年の不況、酒造税の増徴、そして、東北本線の開通に伴う北海道市場への輸送上の不利などの、経済的・社会的条件が重なったと見る方が適切だ。

 

こういった中で酒屋も軒数を減らしてしまったが、現在は、羽根田酒造株式会社、株式会社渡會本店、冨士酒造株式会社、加藤嘉八郎酒造株式会社の4軒の酒蔵が残っており、少数ながらも高い品質を守り続ける酒造りが続いている。また、毎年2月には4蔵を巡って酒の試飲ができる「大山新酒・酒蔵まつり」が開かれている。

 

渡會本店の酒蔵の玄関にて。軒先の杉玉が、今年の新酒が出来たことを告げている。このような杉玉は、元々は酒の神に感謝を捧げるものであったとされる。杉玉はやがて枯れて茶色がかってくるが、この色の変化が人々に新酒の熟成の具合を伝える。

 

「庄内というのは特殊なところだと思いますよ。国立や県立の施設、農業試験場などもありますが、農家の方が様々な特色のあるいい米を作ってくれる。また、明治維新以来、昭和30年近くまで、全国で唯一、農民育種が行われていた地方でもあります。しかしそれ以前から、大山杜氏のような特殊な人々がいたんですね」。渡會さんは誇らしげに語ってくれた。

 

庄内の民間育成種。

 

特に重要なその譜系が、パネル展示されている。

 

 

渡會本店の酒蔵にて。向こうに神棚が見える。酒造りの起源を考えても、やはり神とは切り離せないものなのだ。

 

対象となる神によって、神前に供える幣(ぬさ)の形も違ってくるのが興味深い。

 

古の製法と新しい試みで受け継がれる大山酒造り。

 「出羽ノ雪」、「和田来」などの代表銘柄で知られる「渡會(わたらい)本店」は、庄内の土地の利を活かし、「温故知新・不易流行」をキーワードにした酒造りを、17代にわたって行っている。
創業は1615年(江戸時代元和年間)。大山の地に創業し、400年余。飲む人により深い感動を与えることを目指して醸される酒は、全国新酒鑑評会において連続で金賞を受賞するなど、輝かしい賞を多数獲得し、その酒質の高さがうかがえる。

 

 

銘柄が彫られた判子。

 

伝統の生酛造りと、現代の純米吟醸造りの融合。

 仕込み水には、月山・朝日山系の豊富で良質な伏流水を独自に精製して使い、原料米は庄内で栽培された高品質の酒造好適米や特別栽培米を、平均約60パーセント以下にまで磨き込む。また、自社酵母を培養するための設備や研究体制が整っているのも特徴だ。特定名称酒の麹は蓋麹を使い、最新の洗米機を使って酒米を限定吸水させるなど、酒質向上のため、手間暇を惜しまない手造りを続けてきた。

 

 

 

 

さらに、伝統的な生酛(きもと)造りにも力を入れており、多様な原酒のブレンドによって味の広がりを引き出すのを得意としている。大山地区の酒蔵で生酛造りを行っているのは本蔵のみであり、仕込み水に純米酒を使った貴醸酒造りも同様だ。〝不易〟であるところの生酛造りと、〝流行〟であるところのを吟醸酒づくりを織り交ぜ、新たな日本酒の価値を創造している。

 

杜氏を務める渡會俊仁さん。実際の仕込みの様子を拝見させていただいた。

 

 

 

 

 

渡會本店が手がける銘柄(一部)。左から、「和田来」、「出羽ノ雪」、酒造好適米・雪女神仕込みの「純米大吟醸 出羽乃雪」。

 

新しい価値づくりで、海外にも販路を開拓。

 現在は国内外に販路を広げ、首都圏はもちろん、アメリカ、台湾、イタリアをメインに輸出を行っており、輸出量は全生産量の5パーセントを超えている。「ミラノ万博で出展した際、特に生酛系の純米酒に確かな手ごたえを感じました」と、代表取締役専務にして杜氏の渡會俊仁さんは語る。

 

 

近年は、日本酒を世界に広める活動を行う「WAKAZE」(鶴岡市)とタッグを組み、日本酒造りで一般的に使う黄麹だけでなく白麹をも使った、洋食に合う日本酒「ORBIA LUNA(オルビア ルナ)」など、従来とは違うやり方で日本酒にアプローチする商品開発も行っている。「WAKAZE」からリリースされる「LUNA(ルナ)」は、酸味と甘味が調和したテイストに仕上がり、山形の一部の店舗や首都圏はもちろん、パリや香港などでも購入可能、その味を楽しむことができる。老舗が取組む新しい日本酒の価値づくりに、今後も目が離せない。

 

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