特集の傍流
宝珠山 立石寺 住職 清原生田さん
山形県山形市
天台宗の高僧・慈覚大師(円仁和尚)が開山してから、まもなく1160年が経とうとしている東北屈指の古刹、宝珠山立石寺。通称“山寺”として親しまれている。
創建にあたっては山ひとつが切り開かれ、300を超える堂塔が建てられたという。天台宗の教えを学ぶ修験場として、民の信仰を集める拠り所として幾多の時代を見守り続けてきた霊場だ。
今年「山寺が支えた紅花文化」という歴史ストーリーが日本遺産認定の誉れを受け、その背景についてあらためて立石寺第70代住職の清原正田さんに伺った。
歴史をたどりながら、はじまりを想う
「山寺と紅花を直接的に結びつける資料が残されているわけではありません。創建期である平安時代初期のこの辺り一体は野山があるのみで、人々も日々の暮らしを営むことで精一杯だったことでしょう。ましてや紅花から染料を作る技術などなかったと思います。当時の人々はみな生成りの着物を召していた時代でしょうし。そんなところへ清和天皇の勅令がくだり寺院を建立すべく慈覚大師がこの地へやってきました。慈覚大師は空海や最澄らとともに唐へ渡った最後の遣唐師のひとつです。その留学中に仏教の教えを学ぶと同時に、日本よりはるかに進んでいた唐の文化を体得していたと思われます。慈覚大師が山寺を訪れたことで、天台宗の教えだけでなくそうした暮らしの知恵や文化も持ち込まれ、そのなかのひとつに紅花を染料や薬草として使う技術の伝来もあったかもしれません。創建の折に慈覚大師が注進したのは、およそ114万坪という広大な寺領でしたから、ここに集まった僧侶や人々も相当数に上ったと思います。それだけ食料や日用品が必要になるということ。それを支える手段のひとつに紅花栽培もあっただろうとは思います」と話す。

紅花の栽培から加工までを、和紙で作った人形で再現したもの。紅の蔵(山形市)の街なか情報館内に展示されている。

女性の口元や目元にさした紅。陶器に幾重も塗り重ねられた紅は、やがて玉虫色の妖艶な輝きを放つこととなる。
安土桃山から江戸時代初期には、のちの山形藩藩主最上家の祖、斯波兼頼の時代になると、近江商人たちも出羽国へ入りし商いをするようになる。天台宗の総本山である比叡山延暦寺は滋賀県大津市にあり、近江国とは同郷でより親しく感じていて然り。そうした縁から山形に根付いた近江商人たちは、紅花交易で得た富をもって熱心に山形藩の財政を支え、また立石寺への手厚い寄進も行っている。
「今日の立石寺の姿は、義光公が紅花栽培を推奨し紅花商人たちが叡智を持って交易を成し遂げ、彼らの深い信仰心に支えられて存続したといえるでしょう。義光公は立石寺に1420石もの寺領を寄進しています。一石が現在の価値でいうとお米150kg分、およそ5万円ほどですからとても大きなことですね」と清原住職。
山寺と紅花、互いの存在が糧となり支え合い、山形に豊かさをもたらした。先人たちの功績と受け継がれたいまある文化を誇りに、我々の故郷が歩んできた歴史ストーリーに想いを馳せてみたい。
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