特集の傍流

2016.1.5

これこそ猿の恩返し、西川生まれの猿酒伝説。

2016年2月号(136号)やまがた猿話
猿酒伝説の子孫:荒木哲夫(源内)さん
山形県西村山郡西川町

『猿酒』小倉の荒木源内という男が、赤松に休養のためある川を渡ろうとした時、川の中州に取り残された小猿を助けようと、難儀している親猿を見つけて、これを救ってやった。その後、こんな出来事はすっかり忘れていたが、源内の妻が重病にかかり今にも危ないという時、猿神が源内の夢枕に立ち、「俺は昔、小猿を救ってもらった事のある親猿である。お方の重い病を治すには、俺の猿壺に酒を盛って飲めば、たちどころに良くなるであろう」と告げた。目を覚ますと、はたして枕元に一つの猿のされこうべが置かれてあった。すぐ猿神の言うようにして、妻の病を治すことができた。これがおこりで、後々まで小倉の猿酒とか猿壺といって村人ばかりでなく、三山行者へも分け与えて諸病を救い、多くの人に求められた”(出典/『日本の伝説(4)出羽の伝説』(角川出版) 須藤克三・野村純一・佐藤義則 著)
 

キャプション:江戸末期から明治初期に建てられた荒木源内宅の写真。猿酒と鉱山で築いた財によるものか、大きな屋敷である。(本文より小さな文字)

江戸末期から明治初期に建てられた荒木源内宅の写真。猿酒と鉱山で築いた財によるものか、大きな屋敷である。


 
山形県内の猿にまつわる話を探すうち、「日本の伝説(4)出羽の伝説(角川出版)」という一冊の本に出会った。そこにはこの『猿酒』という、実に不思議な話が記されていたのだ。時は江戸末期まで遡るが、現在の西川町間沢、間沢川地区小倉というところに、その霊験あらたかな神酒はあったそうで、そこに住む山師が、猿酒づくりの初代とされる荒木源内氏であった。間沢川地区はかつて鉱山として栄え、源内の先祖は、慶長十六年(1611年)永松銅山を発見している。また、江戸後期の間沢金山にも関与している。
 
小倉の山里を案内してくださった、西川町在住の清野幸夫さん。

小倉の山里を案内してくださった、西川町在住の清野幸夫さん。


 

その猿酒を求めて、山里にある小倉地区に来た私たちを案内してくれたのは、西川町在住で町の歴史を調べている清野幸夫さん。聞くところによると、荒木源内氏の子孫がいまもおられるということ。さっそくご自宅に案内してもらった。聞いた通り氏の家系は今も続いており、子孫である荒木哲夫(源内)さん(荒木家では源内の名を代々襲名し、現在は哲夫さんもその名を継いでいる)によれば、猿酒は書物にあった通り夢枕に立った猿神によってもたらされたものだと代々伝わっていた。それは壺のなかに猿の頭蓋骨と清酒を入れて熟成させた薬酒であり、小倉の村人はもちろん、三山行者や遠方から買い求める者が後を絶たなかったという。そうやって猿酒は、荒木家によって広められていったのだ。以来、時代の流れとともに、販売数は自然と減少していくが、「子供だった頃、父が壺に猿酒を作り小分けにして販売していた」とのことで、猿酒づくりは哲夫さんの父の代まで長らく続いていたという。いまは藁葺きの大きな屋敷も取り壊され、哲夫さんが所有する作業小屋の裏にひっそりと跡地が残るだけである。
 

源内さんの住宅跡地(左上)。現存する猿酒の資料(右上)。村の守り本尊があった場所にのこる不思議な祠(ほこら)のようなもの(右下・左下)。

源内さんの住宅跡地(左上)。現存する猿酒の資料(右上)。村の守り本尊があった場所にのこる不思議な祠(ほこら)のようなもの(右下・左下)。


 

哲夫さん宅に現存する猿酒の資料の一部を見せてもらった。貸し出しなどによりレシピなど貴重な資料の多くは行方不明、梵字で書かれた巻物などもあるが何が書かれているかも不明だ。また、哲夫さんの親戚にあたるおばあさんがいて、その方が猿酒について大変詳しく、猿酒に関する様々な資料や酒を入れていた壺もあったという。だが、2014年にその方は逝去され、いまではその在りかを知る人はいなくなってしまったし、あるかどうかも定かではない。現在、猿酒の製法を記す書物は、そのほとんどが失われてしまったのだ。しかしながら、そのことにより西川町の猿酒の話は、今の時代に一番近い地元の伝説となったのである。小倉にある山の頂には、荒木家の先祖が猿神への感謝と鎮魂の念を込め建立した庚申塔があるというので、清野さんに案内していただいた。睡眠中に三尸の虫が体から抜け出し、その人の悪行を天帝に告げるとされた庚申信仰。その教えの一端として、日本各地で建立されたのが庚申塔だ。荒木家ではこの庚申塔を小倉に建て、大切に供養していたといわれる。そんな話を訊いていたからなのだろうか、辺りにはどこか清廉な空気が漂う。はるか昔、神託を告げた猿神は、きっと迷うことなく旅立っていけたのだろう。〈N〉

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