特集の傍流
「松の木枕」を説いた一人の研究員。故人の意思を受け継ぐ山形の名所案内。
山形県立博物館 研究員(当時) 野口一雄さん
山形県山形市
山形市本町の「つたや旅館」に生まれた玉井茂さんは、昭和51年頃に自宅の蔵から写本の一つ「山形風流松の木枕」を発見したことを機に、同書の研究を始める。当時、山形県立山辺高等学校の教員であった玉井さんは、学校内で古文書の勉強会を開き、中身を読み進めていった。その内容を手書きしガリ版で印刷。同僚の寺崎厚一さんに表紙を描いてもらい、本にまとめたそうだ。

(左)昭和53年に作られた、玉井氏の最初の研究本。(右)左の本に脚注などを加え、再編集した研究本。

「松の木枕」の中には、現在も行なわれている鳥海月山両所宮の神事「穀だめし」や、「山形大花火大会」の祖ともいえる、馬見ヶ崎川の河原での花火の様子も書かれている。それらを丁寧に書き写し、注釈を加えたりした。
注目された「松の木枕」の2つの謎
その後、玉井さんは昭和57年に山形県立博物館に研究員として赴任。遺稿をまとめた一人で、山形県立博物館元学芸員の野口一雄さんにお話を聞いた。
「玉井先生が『松の木枕』で特に注目したのは大きく2点でした。まず1つ目は、繰り返し写本がされてきた『松の木枕』には、旅籠屋の主人と客人の物語のみを書いた【概説本】と、内容についてより細かに記した【割注本】の2種類があるという点。そしてもう1つは、記述される旅篭町念仏寺の常念仏の日数を基礎に本の成立を推定できないかという点です」。原本が見つかっていないため、はじめから原本に割注があったのかも、本が成立した年代も、玉井さんが研究していた当時はもちろん現在も未だに正確にはわかっていない。しかし、玉井さんが研究の成果を本にまとめ発表をしてきたことで、論争には広がりを見せていった。
しかし、玉井さんは、ガンに侵され40歳の若さで昭和58年に永眠してしまうのだった。悲報を聞いた仲間たちから声が上がり、同僚や同級生、教え子やその保護者ら300人が集まり、生前の玉井さんの研究成果をまとめ遺稿を出版することとなる。「ガリ版でまとめていたものや、亡くなる間際まで口述筆記していた研究内容を、古文書研究会の仲間らと改めて読み直し加筆し、挿絵を入れ、編集を進めていきました」と当時を振り返る。昭和59年に遺稿『山形名所案内松の木枕』を発行。江戸時代の山形を紐解く書物の一つとして、研究などに活用されている。

江戸時代の山形市を記した「松の木枕」の写本の一つをもとに研究した玉井氏の成果をまとめた、「玉井茂先生遺稿 山形名所案内松の木枕」。描写から想像される挿絵や、関連する資料なども合わせて掲載されている。

玉井氏の遺稿本の発行にふれた新聞記事。
江戸時代のベストセラーは、玉井さんの研究やその意思を受け継いだ人々の手を介し、再び現代へと受け継がれていくのだ。
形に残すことで、時代を超え長く広く伝わり続ける。一冊の本が繋ぐ、過去・現在・未来。
「〝松の木枕〟として一冊にまとめられていなければ、私たちは江戸時代の暮らしや文化を知る機会を逃していました。そして、その本を玉井先生が研究し、本にまとめ発表したことで、写本の種類や系統などの議論も進みました」と野口さん。形に残すことで、著者の思いや考えが広く知られ発展していったのだ。また、野口さんは「玉井先生の遺稿の出版以降、一部関心をもつ方々の研究資料としては使われていましたが、一般の方に知っていただく機会はあまりありませんでした。今回、こうして紹介いただいたのも、本として残っているからこそで感慨深いものがあります」と喜ぶ。形に残っているからこそ、縁が繋がっていくのだ。
(※TOP画像は、玉井氏の研究成果を解説する資料を広げながら語る野口さん)
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