特集の傍流

2019.5.10

東京生まれの〝どんどん焼き〟が、どうして山形に定着し進化したのか探ります。

2019年6月号(176号)やまがたのどんどん焼き。
CoCo夢や 代表取締役 工藤真一さん
山形県山形市

 今から18年前に発行された『やまがた街角』※の創刊号に掲載されている「どんどん焼き考」にこう記されている。
〝 山形どんどん焼きの生みの親、大場亀吉さん 〟
『やまがた街角』に寄稿した工藤真一さんによると、取材当時にどんどん焼きを焼いていた人のなかの最高齢者、川口松雄さん(取材当時78歳)に伺った話では、川口さんがどんどん焼きを焼き始めたのは昭和33年(1958)。その時すでにどんどん焼きは棒に巻いてあったという。ただし巻かれた箸は1本だった。この1本巻きは初心者には難しく、川口さんは箸を2本使って巻き始めたのだという。では1本巻きの創始者〝大場さん〟とはどんな人物だったのだろう。

 

山形におけるどんどん焼きの変遷を、お話をうかがった工藤さんに『鉄板居酒屋 夢はな』にて再現していただいた。

 

先駆者が研鑽を重ねて、山形県民に愛されるローカルフードに。

 川口さんに取材をした工藤さんによると、大場さんがどんどん焼きを始めたのは戦前の昭和13年(1938)以降。それ以前に山形にどんどん焼きは存在しておらず、大場さんは東京で学んだのち山形へ戻り、屋台を引き始めたという。

 

1938年、来県当初の経木にのせて売られていたどんどん焼きを再現。

 

クレープ状であっさりした味で、当時はキャベツが入っていたのかもしれないと予想。

 

 当初は生地を折り経木にのせて売っていたが、その状態では熱くて子どもたちが手の平に乗せられず、その姿を見た大場さんは棒に巻きつけることを思いついたよう。試行錯誤を繰り返し、木っ端から箸を作り、ついに1本巻きのどんどん焼きが完成する。これが山形どんどん焼きの誕生伝だ。

 

1本の箸に巻くスタイルを再現。棒に巻くことが前提になってからは、形状が丸型からだ円形に進化。具材は鰹節、ねぎ、そぼろ、紅しょうが、ごまなど7種類から3種類を選ぶセレクトスタイル。約90秒でステキなおやつのでき上がりだ。

 

サイズは約長さ10cm、厚さは今よりはるかに薄く、小学校低学年でも簡単に持てるくらいの重さだったという。大場さんの屋台では1銭で売られていたといい、かけそば1杯が10銭だったという昭和10年頃の物価を基準に推測すると、10銭=400円、よって1銭は40円くらいだろうか。

 

戦後の混迷期にも笑顔を運んだソウルフード。

 大場さんも当初は太鼓をドンドン鳴らす東京スタイルを続けていたが、その鳴り物は次第に鐘へと変化。鐘の音を響かせながら山形市内を練り歩いていたという。しかし戦争が始まると商売は成り立たなくなり一時休業を余儀なくされる。それでも戦後ほどなく復活を遂げ、昭和30年頃までは大場さんが唯一の存在として人気を集めるように。昭和33年頃には大場さんを含む5〜6人のながし屋台が存在していたそうだ。
 戦後復興の兆しが見え始めた当時。安くて早くて素朴な味わいのどんどん焼きは人々が気軽に買えて楽しめる存在だったに違いない。まさに日本におけるファストフード、キッチンカーの走りでもある。そうして山形の人をすっかり虜にしたどんどん焼き。昭和40年代に入るとその屋台の数は18人ほどになっていたという。

 

現在は、青のり、えび粉、魚肉ソーセージ、海苔といったおなじみの上乗せに、鰹節、ねぎ、紅しょうが、天かすなどの具材が入ったどんどん焼き。大きさは約長さ16cm、厚さ4cmほどで、重さは約180g。200〜250円で食べ応えもばっちり。

 

※2019年3月1日発行の第88号を以って休刊した山形のタウン誌。TOP画像は平成最後の桜が見頃を迎えた天童市の天童公園(舞鶴山)。多くの露店のなかにどんどん焼き屋台も肩を並べ、訪れる人々の舌を楽しませていた。

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