特集の傍流

2019.6.5

約400年の歴史をもつ山形藩。礎を築いた藩主と家老を通しやまがたを紐解く。

2019年7月号(177号)やまがたと山形藩。
最上義光歴史館 学芸員 揚妻昭一郎さん、豊烈神社 第6代宮司 齋藤博輝さん ほか
山形県山形市

 山形藩の始まりは、およそ400年前の1600(慶長5)年。現在の山形市南西部で行われた出羽の関ヶ原といわれる「長谷堂合戦」で、山形城の第11代城主・最上義光が徳川方として、豊臣方の上杉景勝の重臣・直江兼続と戦い、約半月の攻防の末、最上軍が山形を死守した。
 その功績により、義光は幕府から57万石を与えられることとなる。その領地は置賜地域を除く山形県全域と秋田県南部で、徳川・豊臣一族を除くと全国第5位の規模。最上義光は57歳で山形藩の初代藩主として大大名となったのである。
 義光は、1546(天文15)年に山形城主・最上義守の長男として生まれた。子供の頃は「白寿丸」と呼ばれ、15歳で元服した際に室町幕府第13代将軍・足利義輝から「義」の字をもらい「義光」と名乗る。25歳で最上家の家督を継ぎ城主となった後は、69歳で病死するまで山形城を守り続けた。七日町や十日町といった城下町の整備や、寺社仏閣の保護、最上川三難所の開削、庄内平野の治水・かんがい工事を行い日本有数の穀倉地帯にするなど、藩主時代の功績は、現代に残るものも多い。

 

度重なる城主交代に翻弄された山形城

 山形城の初代城主は、清和天皇から分かれた氏族である清和源氏で足利氏の流れを汲む斯波兼頼。室町幕府の羽州管領として出羽国の統治を図るために1356(延文元)年に入部し、翌年に山形城を築いたという。最上義光が山形藩主となる200年前のことだ。その後、兼頼の子・直家が「最上」を名乗り始め、義光の2代後となる13代の義俊まで266年に渡り、最上家が城主を務めることとなる。
 しかし、最上家以降は、現代に伝わる山形城や山形五堰を整備したと言われる鳥居忠政らの鳥居家や、秋元家、掘田家と、山形城主は頻繁に入れ替わっていく。石高も激減し、水野家を最後に山形藩は終焉を迎えるのであった。城主の度重なる交代により、残る記録が少ないことや、大河ドラマの影響で、最上義光にネガティブなイメージをもつ人は少なくない。今回の特集では、そんな義光をはじめとした山形藩主らを改めて紐解き、現代に続くやまがたの礎を振り返る。
 2019年7月号(6/5発行号)特集「やまがたと山形藩」。特集のレポートは順次更新していきます。お楽しみに。

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