特集の傍流

2019.6.10

換算すると年俸約280億円?虎将と呼ばれた最上義光とは。

2019年7月号(177号)やまがたと山形藩。
最上義光歴史館 館長 松田明彦さん、学芸員 揚妻昭一郎さん、義光会の方々
山形県山形市

 その本性は謀略家か。それとも領民を愛した人情家か。今なお評価が分かれる、山形の初代藩主、最上義光。義光が統治した57万石は、現在の価値で1石を約5万円と考えると、年俸280億円。家来は約12000人を従えていたという。山形城は71万坪の広さを持ち、東日本では江戸城に次ぐ規模で、義光による山形藩の始まりがとても輝かしいものであったことがわかる。

 

誤解され続けてきた領民想いの優しき藩主

「最上義光には長年、負のイメージが定着していました。これは山形城主が何度も代わったため最上家に関する資料が少なく、敵方であった伊達家や上杉家の資料から読み解くケースが多かったことや、大河ドラマ〝独眼竜政宗〟での描かれ方が影響していました。しかし、実際は内政を重視し、領民の生活向上を考える良き藩主だったのではないかと思います」と話すのは、最上義光歴史館の学芸員・揚妻昭一郎さん。

 

最上義光の肖像として伝わっているこちらの画も、時代考証を行うと、義光時代の肖像と認めるには無理があることが判明している。

 

揚妻さん(右)と、館長の松田明彦さん(左)からもお話をうかがうことができた。

 

 義光は政治だけでなく経済や宗教の面からも領民に尽くした。一と九を除く、二日町から十日町までの商人町を形成し、その数字の日に市を開いた。鍛治町や銅町、蝋燭町、桶町といった職人町も作られ、鋳物などは伝統工芸として現在も受け継がれている。また、信仰心が篤く、戦乱によって失われた寺社仏閣の再建・保護にも努めた。国宝・羽黒山五重塔(写真下)をはじめ、宝珠山立石寺(山寺)の根本中堂や寒河江慈恩寺の三重塔など、186カ所にもおよぶとされる。
 1612(慶長17)年には、北館大学助利長に命じて北楯大堰を建設し、庄内平野の治水・かんがい工事を精力的に行い、荒地だった庄内平野を日本有数の穀物地帯へと成長させている。また、酒田港活用のため、最上川の三難所(碁点・三ヶ瀬・隼)の開削を行い舟運を発達させ、庄内と新庄、庄内と村山を結ぶ街道の改修や拡幅も行った。その結果、江戸や京の文化が広くもたらされることとなった。

 

義光が建設させた北楯大堰。最上義光歴史館内の展示パネルより。

 

 戦の面でいえば、だまし討ちや敵の重臣を寝返らせて勝つという一見、卑怯な戦をすることもあったが、これは領民が無駄な血を流さないためという見方もされている。また、義光が統治していた時代には、一揆が起こった記録はないそうだ。それだけ、領民の支持を集めていたということなのだろう。

 

3歳上の徳川家康とは旧知の仲だった義光

 最上義光は、「長谷堂合戦」からもわかるように、3歳上の徳川家康と早くから懇意にしていた。安土桃山時代の織田信長、豊臣秀吉らとの謁見は、徳川家康を通していたという。また、最上義光が病に侵された後、徳川家康のいる江戸城を訪れた際も、籠に乗ったまま入城することを特別に許され、薬をいただいて帰ってきたという。19世紀前半に編纂された江戸幕府の記録『徳川実紀』にも、最上家の記載がある。

 

歴史館内に展示されている「長谷堂合戦図屏風左隻」(写真は部分)。赤い衣をなびかせているのが最上義光。

 

授けられた官位から名付けられたニックネーム

 江戸時代後半に山形を訪れた儒学者・塩谷宕陰は、漢詩で義光のことを「虎将」と称し讃えている。由来は、義光が1611(慶長16)年に叙任した官位「左近衛少将」の漢名「虎賁中郎将」からきていると考えられ、現在判明している最も古い義光の通称である。もしかしたら、長谷堂合戦で敵軍と勇ましく戦った義光に思いを馳せ詠んだのかもしれない。このように、義光の評価は、時代や語り手により全く異なるのである。

 

義光が愛用した「三十八間総覆輪筋兜」は、織田信長より拝領したと伝えられ、長谷堂合戦で敵の弾が当たった瑕がある(写真中央よりやや右上)。

 

高い再評価のワケは、豊かな教養にあり

 近年は、ゲーム「信長の野望」などの影響も手伝い、義光の人物像が見直されている。特に、複数人が和歌の上の句と下の句を互いに読み合っていく「連歌」の才能に優れていたと評価が高い。

 

館内には、義光らが詠んだ連歌も展示されている。写真中、「光」とは義光のことだ。

 

「当館で義光の連歌について調査し、インターネットで発信したところ、国文学の分野で注目を集めました。一流の文化人達が参加する連歌の会にも呼ばれていたようで、義光も同じように一流の文化人として認められていたことを証明しています」と揚妻さんは話す。作品数は、戦国時代の武将では、細川幽斎、前田玄以に次ぎ3番目と多い。京都の貴族との華やかな交流もあった義光は、藩主としてのみならず、多方面で魅力的な人物であったことが伺える。
 なお、義光は塩鮭が大好物で、家臣から贈られ非常に喜んだという記録もあり、庄内への進出も塩鮭目当てだったのではと冗談混じりに語られるほどだ。近年はインターネットを通して逸話が広く知られ、「鮭様」の愛称でも親しまれている。

 

 また、現在でも「よしみつ」などと、名前を読み間違えられることの多い義光だが、実はその読みが「よしあき」であると判明したのは、伊達家へ嫁いだ、妹の義姫(お東の方)に宛てた手紙が発見されたため。当時、女性への手紙はひらがなを使用するのが一般的で、そこには「よしあき」と署名されていたのだ。館内には、その手紙の署名部分が、パネルとなって展示されている。

 

「最上義光書状 お東様宛(年不明 文月八日)」署名部分。仙台市博物館所蔵。問合せは、仙台市博物館情報資料センター(022-225-3074)へ。当館では7月12日から9月1日まで、企画展「戦国の伊達氏―稙宗(たねむね)から政宗へ」が開催される。詳しくは https://www.city.sendai.jp/museum/ にて。

 

義光が伊達政宗の叔父だということも、あまり知られていないのだとか。館内には、政宗に宛てた義光の手紙も展示されている。

 

地元の殿様の素晴らしさを広める伝道師ボランティア

 最上義光歴史館のガイドを務めるのは「義光会(ぎこうかい)」と呼ばれる市民ボランティアのみなさん。一般から公募し、現在は47名で活動中だ。「最上義光の素晴らしさを評価していただきたい」と、地元愛に溢れた活動を行なっている。

 

取材当日にお会いすることのできた「義光会」の方々。

 

解説をするボランティアの長岡武さん。

 

 館内のガイドは、ときに山形弁を交えながら、来館者の知識に合わせて丁寧に解説。観光客はもちろん、山形の方も、地元の殿様を改めて知る機会になるので、訪れてみてはいかがだろうか。また、最上義光歴史館では、開館30周年を記念して、義光が戦で使っていたという長さ86.5cm・重さ1.75kgの鉄製の指揮棒の復元も進めている。こちらは今年度中に完成予定とのことだ。

 

無料で開放されている最上義光歴史館。新たな時代を迎えた今だからこそ、山形の初代藩主に思いを馳せるいい機会かもしれない。

 
 

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