特集の傍流

2019.6.11

栄華を極めた最上氏時代から最後の水野氏まで、山形藩主の想いが息づく場所へ。

2019年7月号(177号)やまがたと山形藩。

山形県山形市

 最上家により始まった山形藩は、最も長く藩主を務めた秋元家でも78年、最短の堀田(正仲)家は1年と、藩主の交代が非常に頻繁だった。義光の頃には57万石あった石高も、最後の藩主・水野家の頃には5万石とかなり減少。それだけ波乱の時代であったことが伺える。最上家が改易された後、山形藩主となり山形城の大規模改修や馬見ヶ崎川の流れを変える工事を行なった鳥居忠政や、後に会津藩祖となる徳川家光の末弟・保科正之など、歴代の藩主は義光に限らず役者揃いだ。
 ここでは、歴代の山形藩主たちにゆかりのある寺院をピックアップして紹介。創建の経緯や背景を知ることは、街の履歴を知ることだ。現場に立ち、自身の目で見ることは、教科書を読み解く以上に得るものが大きい。ここに広がる景色をかの藩主たちの眼差しに重ねて見てみよう。

 

県内最古のひとつといわれる名庭園の景色を、いまに残す光禅寺

 光禅寺(山形市鉄砲町)は最上義光の菩提寺で、最上氏の旧家臣らにより護持されてきた歴史を持つ。義光の五輪供養塔のほか、殉死した4人の家臣の墓が傍に佇む。境内には県内最古といわれる庭園があり、とくに江戸時代初期の作とされる遠州流心字の池は山形市の名勝に指定されている。

 

義光の五輪供養塔。

 

15歳で豊臣秀吉の命により処刑された駒姫ゆかりの寺院

 

専称寺(山形市緑町)の駒姫の墓。境内の最も奥まった一隅にある。

 

 東国一の美女とも讃えられた義光の愛娘、駒姫は1581(天正9)年に誕生。出羽の名山「御駒山」にちなんで名付けられたが、いわゆる「秀次事件」にて豊臣秀次が切腹させられたことを受け、秀次の側室として上洛したばかりだったにもかかわらず、三条河原で処刑されることとなった。専称寺には、その後を追うように亡くなった、駒姫の母である義光の妻も弔われている。

 

専称寺外観。

 

 文祿4年(1595)8月1日、秀次の寵愛を受けていた女性たちはそれぞれに親しい人たちに手紙を書き、形見の品を分けととのえ、沐浴をして身を潔め、死出の旅支度をしたという。その際に駒姫も形見を残した。山形市門伝の皆龍寺では、駒姫の侍女の末裔という人から寄贈された、駒姫着用と伝えられる衣裳の一部を大切に保存しており、皆龍寺ホームページにて写真を公開している。

 

皆龍寺外観。

 

鳥居忠政の山寺侵掠の事実を証明する宝篋印塔

 最上家の改易後、庇護者が不在となった山寺(宝珠山立石寺)。最上氏の後に入部した鳥居忠政は「寺領は〝藩領〟なり」と城の普請に使うため、寺領内の松の美林を大量に切り倒したばかりか、殺生を破るなど迫害を繰り返した。山寺を手厚く保護していた最上家の〝色〟を払拭したい、という意地があったのではないかと言われているが、幕府の圧迫が強く、藩の財政難にも影響していたことが侵掠の理由であるようだ。
 鳥居忠政は寛永5(1628)年に病死したが、あまりの仕業に山寺側の呪詛によるものとの噂が流れたほど。鳥居忠政の後を継いだ鳥居忠恒は、山寺との和解交渉に向け、寄進とともに鳥居忠政供養の宝篋印塔を建立している。

 

宝篋印塔は山門手前の山側に立つ。写真中央、奥まった塔がそれだ。

 

ズームしたものがこちら。手前に柵があるため、奥まで近寄れないようになっている。

 

尊厳ある最期を遂げた山形藩士・水野元宣ゆかりの寺、長源寺

 最上氏の後、鳥居氏が山形へ入部した際、移封に伴い建てられたのが長源寺(山形市七日町)だ。墓所に鳥居忠政の墓碑が鎮座するほか、最後の山形藩主の主席家老、水野元宣が刑死した場所でもあり、その石標が残されている。

 

鳥居忠政の墓碑。

 

水野元宣の墓。

 

訪問時の数日前が水野元宣の命日だったこともあって、墓には瑞々しい花が手向けられていた。

 

長源寺外観。

 

本堂の伽藍。漆喰で作られ、迫力ある仁王像が参詣者を見下ろす。

 

山形最上氏の初代からゆかりのある、風流な名を冠す歌懸稻荷神社

 

歌懸稻荷神社外観。

 

 山形最上氏の初代である斯波兼頼が、山形城の守り神として、城内(現在の山形駅付近)に建立したのが始まりと伝えられる。もとは五佛山吉祥院という寺院であったが、神仏習合により京都伏見から勧進されたお稲荷様を祀ったことから、歌懸稻荷神社として鎮座するようになったという。
 この風流な社名の由来は、社殿の近くに歌を読まなければ渡ることが許されない橋があり、訪れた人々が歌を読み短冊に書いて奉納する風習があったことに起因しているのではと推測されている。また、文学に親しみ、歌を読むことを趣向としていた最上義光が吉祥院の時代には健在であったことも、そうした風習に影響したのかもしれない。

 

敷地内からは山形城三ノ丸跡を見ることができる。

 

敷地内には三ノ丸跡の碑も建っている。

 

三ノ丸までを含めた城全体が、全国5番目に広い面積を誇った山形城跡

 かつては全国5番目、奥羽地方では最大の大きさを有していた山形城。本丸と二ノ丸といった城郭の中心部は最上義光時代に57万石の大大名となった威厳を示すかのように大きく、圧倒的な存在感に溢れている。二ノ丸東大手門に続き本丸一文字門の現時点での復原が終了し、新たな観光名所として親しまれているなか、霞城公園では引き続き本丸西堀跡や土塁跡の調査などが進められている。

 

本丸一文字門は、石垣、大手橋、高麗門、枡形土塀の復原が完了している。櫓台石垣の上にあった一文字櫓のみ、史料が見つかっていないため現段階では復原できないのだという。

 

史料がもっとも多く残る江戸時代中期(堀田氏時代)の史料に基づき、威厳ある姿で蘇った二ノ丸東大手門。

 

 貴重な山形城初期の遺構が見つかるなど、400年を越える時代の面影をいまにつなぐ事業は、2033年をめどに完了予定とのこと。史実に基づく壮大さを、現場に立って感じたいものだ。

 

山形の技術の結晶、最上義光像と、山形を代表する企業の社長の想いに応えた職人たち

 霞城公園に建つ、重さ3トン、前後7メートルの最上義光像は1977(昭和52)年に完成したもので、株式会社でん六の創業者・故 鈴木傳六氏が寄贈した。当時は義光への反発が強く、像の建設や配置に反対の声も多くあったが、従来の風評に左右されることなく義光を尊敬していたという鈴木氏の熱意のもと、製造が進められた。山形鋳物で知られる株式会社西村工場(山形市銅町)によって製作され、長谷堂合戦の際に指揮棒を持ち陣頭指揮を執る様子が表現されている。馬の後ろ足2本で立つ騎馬像は世界的にも珍しく、山形のものづくりの技術の高さを象徴している。

 

重心を像の中心に置くことで、地震で像が揺れ動いてもヤジロベエの原理で元に戻るように設計されているという。

 
 

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