特集の傍流
最後の山形城主・水野家に仕えた若き家老・三郎右衛門元宣のこと。
豊烈神社 第6代宮司 齋藤博輝さん
山形県山形市
豊烈神社は、藩祖である忠元公を、遠江国浜松城主であった水野忠邦公が城内に祀ったことが起源と伝えられている。山形に最初の社殿が建てられたのは弘化5年(1848)のこと。忠邦公の子、忠精公が、山形移封に際し山形城二ノ丸内に遷座したのが始まりだ。その後、忠精公が近江国朝日山に遷座する経緯を経て、明治13年(1880)に水野範士を勧請して豊烈霊神様の御分霊を貰い受け、現在地に建立された遍歴を持つ。以来現在までこの地を守り守られてきた。
水野家が山形に移封された当時すでに幕末の混乱期にあり、藩主であった忠弘公は京へ出向いたきり軟禁状態にあった。よって山形城は最後まで藩主不在の城であり、代わりに指揮を執ったのが主席家老であった水野三郎右衛門元宣である。
豊烈神社の第6代目宮司を務める齋藤さんに話を伺った。
「藩主不在の山形城を切り盛りし、苦境にあった幕末当時の山形範士たちをまとめていたのは、三十路手前の元宣でした。彼が奔走した甲斐あって、敵対していた官軍が山形城に攻め入らず、戦禍を免れることができたのです」
「しかし明治維新の政変の際、山形藩は奥羽同盟に加盟し官軍に反旗を翻したとの罪で、元宣が反逆首謀の取り調べを受けることになりました。その時元宣は、“山形藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容のご処置を”との嘆願書を提出し、結果、武士であるにもかかわらず斬首刑を受けることになりました。弱冠27歳という若さだったそうです。山形藩の終焉にこうした史実があったこと、身を挺して山形城下を守った功績を記憶に留めていただければ」と話す。

豊烈神社には、元宣による嘆願書の下書きが残されている。
私たちがいる今は、
先人たちが守りつなげたかつての未来
時代の巡り合わせとはいえ、我々が今見ている街の姿は、こうした歴史のうえに成り立っている。普段何気なく見ている場所でも一歩踏み込んで情報を得ることで、じつは我々に深く関わる所縁にたどり着くことがある。活字を追うだけでなく、叶うなら実際にその場へ行き、歴史の面影を肌で感じてほしい。境内に佇む元宣像と向き合い、放たれた視線のその先を想像したとき、私たちは一体何を感じ取れるだろうか。

昭和21年に建てられた水野三郎右衛門元宣の像。豊烈神社境内にて。
10月6日例大祭で繰り広げられる
古式打毬は一見の価値あり
さて最後の山形藩主にゆかり深い豊烈神社へお出かけの際は、例大祭の日が最良だろう。例大祭は毎年毎年10月6日。神輿渡御のほか、国内のわずか3ヶ所※にしか残されていない神事、古式打毬を見ることができる。古式打毬とはその起源はイギリスのポロに等しいといわれ、紅白に分かれた競技者が専用の棒などを使って毬を毬門へ投げ入れる馬術競技。水野家が移封して以来、山形で代々受け継がれながら続いてきた文化遺産だ。豊烈神社の境内が馬場となり、毎年熱い声援が鳴り響く市民憩いの秋の祭典だ。

古式打毬写真提供/豊烈神社
※宮内庁、青森県八戸市の長者山新羅神社、山形県山形市豊烈神社の3ヶ所
豊烈神社
山形県山形市桜町4-47
TEL/023-642-7108
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