特集の傍流

2019.8.5

かつて山形は「ハッカ」の主産地として、国内外に涼を届けていました。今また、山形のハッカに注目が集まっています。

2019年9月号(179号)やまがたとハッカ。
歴史出典/「山形県史本編2」、「南陽市史編集資料第12号」、「天童市史下巻」、「黒川中区史」、株式会社北見ハッカ通商ホームページ「北見ハッカ史」、「日本と世界ハッカ史」


現在、ハッカ生産量日本一を誇る北海道にハッカを持ち込んだのは、高擶村(現在の天童市高擶)出身の屯田兵・石山伝次郎氏一家だと伝えられている。明治中期に北海道永山村(現在の旭川市)へ渡った際に、山形から種根を持ち込み栽培に成功。永山村は、ハッカの主産地として栄えたという。その後、道内で野生のハッカも発見され、よりハッカ油がとれるような品種に改良が重ねられ、北海道のハッカが育まれていった。

 

〈左上〉北見ハッカ記念館(北海道北見市)は、北見ハッカの歴史を伝える多くの史料を収蔵。写真は昭和30年頃の手取り除草の様子。写真提供/北見ハッカ記念館。〈左下〉北見の街なみ。〈右〉北見で栽培されている薄荷の花。写真提供/北見市商工観光部観光振興室観光振興課

 

北見ハッカ記念館は、旧ホクレン北見薄荷工場の事務所を改修した建物。別棟の薄荷蒸溜館ではハッカの蒸溜実演を通年行っており、その様子を見学できる。写真提供/北見市商工観光部観光振興室観光振興課

 

ハッカ記念館の隣にある「薄荷蒸溜館」は、ハッカ蒸溜実演も行っており。歴史資料や蒸溜機の数々も展示。写真提供/北見市商工観光部観光振興室観光振興課

 

はるか昔から、人々に涼を与え続ける

 ハッカの歴史は古く、平安時代の書物には貴族らが山菜として食べていたことが記され、室町時代には薬用として利用されていたという記録も残っている。日本での本格的な栽培は、19世紀(幕末の安政年間)に岡山で始まる。その後、広島、新潟、群馬へと全国に広まっていった。

 

黒川能と薄荷

 同時期に山形にも入ってきたと考えられているが、櫛引町黒川(現在の鶴岡市黒川)では安土桃山時代と江戸時代を跨ぐ慶長年間にはすでに栽培しており、明治初年頃まで生産が盛んだったという説もある。いまは当地での栽培の痕跡はほとんどなく、地元でもその説を語る者は少ないが、当時の黒川のハッカは出羽三山の参詣者に人気で、参拝の後に黒川に立ち寄って、お土産に薄荷を買う人が絶えなかったという。

 

セト物で作った原始的な蒸留器でハッカ汁を絞り、煮詰めて出来る結晶ハッカを売店や行商での販売も盛んで、京都方面など県外にも行商に行ったといわれている。はるばる京都まで出向いたのは、現在にも伝わる黒川能の衣装を「西陣」で買う目的もあったようで、伝統芸能との意外な繋がりに驚く。高級絹織物の「西陣織」を買い求めることができたのは、ハッカ栽培で得た現金収入の支えがあったからではないだろうか。それも、黒川能が500年以上続いてきた理由のひとつなのかもしれない。

 

また、生活を支えるために鶴岡の幕末の下級武士たちが薄荷などを薬草として露店や行商で売薬し、黒川の農民たちもその組織に入って収入の保証を得たという記録も残っている。香具師(ヤシ)商人はテキヤの意味だが、もともとは野士(ヤシ)から語源であるいうから、庄内地方のテキヤのルーツが黒川周辺にあるというのも風説だとは言い切れないのだ。

 

黒川能と新潟の大須戸能のつながり

新潟県村上市大須戸集落に、江戸時代から受け継がれ160年を超える歴史を持つ新潟県の無形文化財「大須戸能」がある。この大須戸能は、山形県鶴岡市の黒川能が江戸時代に伝わったのが起源とされる。

蛸井甚助氏という黒川の能役者(太鼓役者)が、薄荷行商人として村を出て、米沢を経て新潟の大須戸を訪れた途次に宿泊先の風呂に浸かりながら謡曲の一節を歌っていたとき、たまたま唄を聞いた隣の旧家の主に乞われ、能の師匠として二十年滞留し、村人が熱心な指導を受けたという。これが大須戸能のルーツといわれ、大須戸と黒川は現在も交流が続いているというのも興味深い話である。

 

春日神社の神事能として500年もの間伝えられてきた黒川能。昭和51年に国の重要無形民俗文化財に指定され全国から注目されている。写真提供/公益社団法人山形県観光物産協会

 

国外需要の高まりとともに急成長するハッカ栽培

 山形の内陸地方で栽培が始まった時期については、そのほかにも江戸時代後期の寛政年間や文化年間とも言われ、正確な時期は定かではないが、明治初年には置賜や村山の各地で栽培ブームが起こったという。

ハッカの栽培を山形に持ち込んだのは、漆山村(現在の南陽市)出身の多勢長兵衛氏と『山形県史』に記されている。彼は明治初年に上方地方(現在の近畿地方周辺)を旅行した際、現地で地方物産としてのハッカの将来性を知り、山形に種苗を持ち帰った。以降、置賜地方で栽培されたハッカの種根は、今の天童市や東根市にも広まっていくのだった。当初は小規模で国内向けに栽培・加工されていたが、1873(明治6)年に山形産が初めて国外へ輸出されたのを皮切りに、海外の需要も徐々に増加。それに伴い、県内の栽培も一層盛んになっていく。

 

乾燥した状態の高擶薄荷。

 

明治23年に山形市内の神社に奉納された絵馬「薄荷栽培製法之圖」には、ハッカ産業の様子が描かれている(現在非公開)。絵馬によると、10月下旬に根を植え、7月上旬に一番刈りを行っていたようだ。収穫後の加工方法も記され、右側にハッカ油を抽出するための蒸留器も描かれている。いかに主要な産業であったかが伺える。写真提供/山形市教育委員会社会教育青少年課

 

日本人初のレコード歌手、佐藤千夜子氏の生家を移築、復元し、民俗資料等を展示している天童民芸館(現在閉館中)には、明治期に使われていたという蒸留器が眠る。

 

北海道のハッカの由来は天童にあり!?

 北海道でのハッカの栽培は、1884(明治17)年に日高門別で、翌年に八雲で始まったが、そのときは失敗に終わってしまう。しかし、1891(明治24)年に北海道永山村に移り住んだ天童市出身の屯田兵・石山伝次郎氏一家がハッカの種根を持ち込み、栽培に成功。同時期に、福島県出身の渡辺精司氏が道内で野生のハッカを発見する。渡辺氏はハッカ栽培の有望性を確信し、永山村で手に入れた苗を元に北見で栽培を始め、今なお全国に名高い北見ハッカの歴史へと繋がっていくのだった。当時の北見ハッカの栽培者には、遠軽町に入植した現東根市出身の小山田利七氏もおり、彼も大きな利益を上げたという。

 

明治時代とともに終焉、失墜するブランド価値

 一方で山形のハッカは海外輸出が主となり爆発的に増産。しかし年によって価格変動が激しく、北海道などの他産地との競争、ハッカ以上に利益が得られる桑栽培の台頭などから、1897(明治30)年頃をピークに衰退してしまう。
粗悪品が多く出回ってしまったことも原因だった。収入の少ない農民は流行を追いやすく、みだりに植えられ粗悪品が多く広まってしまったという。信用失墜から県も対策を進めたが、大正9年以降はほぼ消滅してしまう。明治とともに訪れたハッカブームは、時代とともに終焉するのだった。

 

しかし今、かつて山形で栽培されていた〝高擶ハッカ〟をよみがえらせ、地域を盛り上げようと活動している人々がいる。次の記事では、歴史を紡ぐ「ハッカの風再びプロジェクト」に関わる方々をご紹介する。

 

天童市立高擶小学校の校庭に育つ高擶ハッカ

 

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