七所明神にまつわる外伝。使命を果たしながらも行いを悔やみ、新庄で生涯を終えた連臣とは

2025年12月号(254号)
特集|カラダに効く、効いた 逸話のもとへ
山形県新庄市

七ヶ所を巡って健康祈願する七所明神の伝説(外伝)

七所明神の言い伝えを要約すると、

1. 応神天皇の第2皇子であった大山守命は、兄の大鷦鷯命(おおさざきのみこと/後の仁徳天皇)に皇位を譲ろうと、自ら奥州へ旅立った。

2. 大鷦鷯命の臣等は叛意と誤解して追手である連臣(廷臣)をさし向け、最上川畔である庄内町余目(千河原)あたりで大山守命は捕らえられた。

3. 大山守命は、自身の遺体を7つに切ってそれぞれを鮭延庄の各所に埋めて崇めるようにと遺言を残し、殺された。

4. 皇子の身体は七つに斬られて連臣によって別々に葬られ、それぞれの埋葬地に神社が建てられた。7つの社はいまも崇められている。

5. 新庄市宮内の七所明神は、大山守命の首を葬ったとされる第一の宮である。

6. 皇子を討った連臣は、罪なき皇子を討ったことを悔やみ、都には還らずについに新庄の地において一生を終えたといわれる。

7. 自らの罪を悔いて新庄で生涯を終えた連臣(廷臣)を、地元の人々が憐れみ祀ったという御堂(新庄市関屋)の跡地にはいまも「連神宮碑」が残っている。

昭和時代の頃と推定される連神宮碑と光明真言碑。当地はいまも周辺の三角山や亀割山が見える長閑な風景が広がっている。画像協力:新庄市、新庄デジタルアーカイブ(撮影者不明)

無実の皇子を討った罪を悔やみ、新庄で一生を終えた連臣の伝説

連臣にまつわる言い伝えはいまだ当地に残っており、新庄市史第1巻より抜粋した文章(部分)を以下に記しておく。

〜難波皇子は連臣(廷臣)に、近日中に大山守命(稚郎子皇子)を誅戮(ちゅうりく)すべしと命じた。勅命によって、連臣は心ならずも出羽国に向かった。大山守命も無実の罪で死ぬことを好まず、方々に隠れていたが、とうとう庄内余目のあたりで討たれることになった。皇子が最後に仰せられたことは、「わが身を7つに斬って、最上郡の7か所に崇め祭るべし」ということであった。連臣は遺言に従い、御遺体を舟に乗せ最上川をのぼり、7 カ所に葬った。即ち、宮内には首、升形には胴、鳥越には左手、角沢には右手、本合海には男根、京塚(鮭川村)には左足、松坂(戸沢村)には右足を埋め奉祀した。これが現在の七所明神である。

7カ所のうちで宮内を宗廟(そうびょう)としているのは、御首が祀られているためであると伝えられている。一方、皇子を討った連臣は、罪なき皇子を討ったことを悔やみ、都に還らず、ついに当地において一生を終えた。村人はこれを憐れみ、関屋地区の田んぼの中に祠を建てて、その霊を鎮めた。今に残る連臣堂がこれである。今でも、七所明神に参詣する者は連臣堂には参らず、連臣堂へ参る者は、七所明神を拝することを忌むという。

昭和時代の頃と推定される連神宮碑と光明真言碑。画像協力:新庄市、新庄デジタルアーカイブ(関屋濫番連臣宮 新庄市史別巻民俗編355ページより)
現在の連神宮碑と光明真言碑(令和7年11月撮影)。光明真言の意味は「宇宙の光明を象徴する大日如来の力を借りて、あらゆる災いを取り除き、心身を清める」という意味を持つ

濫番連臣堂・連神宮碑と光明真言碑(新庄市関屋)

皇子を殺した罪を償うために都に戻らず、この地で一生を終えた連臣を村人たちは憐れみ、関屋に濫番連臣堂(らんばんれんじんどう)を祀り、その霊を慰めたというものだ。その御堂はいまは無いが、関屋入り口である田んぼの一角に「連神宮」の石碑がある。
新庄市関屋
場所はこちら(GoogleMapコード Q886+2R 新庄市、山形県)
※MAPコードで検索する際は数字記号と市町村名のどちらもご入力ください。

作家 黒木あるじ(記事監修)
青森県出身山形県在住。東北芸術工科大学卒業。同大学文芸学科非常勤講師。2010年に「怪談実話 震(ふるえ)」でデビュー。著者に「黒木魔奇録」「怪談四十九夜」各シリーズのほか、ノベライズ作品「小説ノイズ【noise】」や連作短編「春のたましい神祓いの記」などミステリー作品も手がける。河北新報日曜朝刊にて小説「おしら鬼秘譚」を連載執筆中。

gatta! 2025年12月号
特集|カラダに効く、効いた 逸話のもとへ

gatta! 2025年12月号
特集|カラダに効く、効いた 逸話のもとへ

(Visited 5 times, 5 visits today)