2026年に行くべき山形の“馬” 神社編

2026年2月号(256号)
特集|それいけ!ウマガタケン
山形県内全域

世界が注目する山形その暮らしを映す馬の存在

近年、山形が海外メディアから「行くべき世界の旅行先」などとして注目を集めている。その背景にあるのは、聖なる山々や古刹に象徴される、永く守り継がれた精神文化だ。それは祭礼に留まらず、食をはじめとする暮らしにも息づいてきた。古くから人とともに生き、働いてきた「馬」もまた、山形の歴史や民俗をいまに伝える存在といえる。

参拝客が多く訪れる出羽三山の御縁年

古来より人々の信仰を集めてきた出羽三山では、月山を卯年、湯殿山を丑年、そして羽黒山を午年の御縁年として定めている。御縁年とは、神仏が降臨、あるいは鎮座したとされる干支の年を、最も縁の深い年として定めたもの。その年に参拝すると12年分の御利益が授かるとされ、縁起が良いと信じられてきた。

2,446段の石段と杉並木が続く羽黒山の参道。画像協力:出羽三山神社

現世利益を願う、羽黒山の御縁年は午年

およそ1,400年前、崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が開山したと伝えられる羽黒山。御縁年の由来には諸説あるが、「欽明天皇十一庚午年羽黒権現添川嶽に出現」という社伝の記述が通説とされている。羽黒山山頂に鎮座する出羽三山神社では、明治の時代に羽黒山の代表的な景勝地として親しまれた「羽黒山八景」を雪解けとともに整備・復元し、8つの箇所に看板やフォトスポットを設置。さらに、当地八景を料理に見立てた精進料理を提供する。境内には白馬が描かれた高さ2.5m、横3.5mの大絵馬を掲げ、御縁年ならではの趣で参拝客を出迎える。

「羽黒みやげ」として親しまれた羽黒山八景の版画の一枚にもある「須賀の滝」。羽黒山頂へ向かう石段の参道、祓川をはさんで流れ落ちる。神仏分離以前は「不動滝」と称した人工の滝だ
詩情豊かな風景が和歌や絵画に表現された出羽三山は、信仰とともに親しまれてきた景勝地群が広がる。画像協力:出羽三山神社
東北地方では最古の塔といわれる国宝・羽黒山五重塔。創建は平将門と伝えられるが、現在の塔は、約600年前に再建されたものといわれる。ちなみに、関東の豪族の出身であり武士の先駆け「兵(つわもの)」として名を馳せた平将門は、馬を放ち軍事訓練を行っていたと伝承されており、馬との深い縁があることでも知られている
出羽三山神社境内にある、鐘楼と建治の大鐘(国指定重要文化財)。出羽山形藩の第3代藩主・最上家信の寄進で元和4年(1618)再建されたもので、山内では国宝・羽黒山五重塔に次ぐ古い建物だ
じつはこの鐘楼には謂れがあり、モンゴル帝国(元朝)と高麗による対日本侵攻「元寇(蒙古襲来)」の際、羽黒の龍神に修験者らが祈願したことによって、攻めてきた大船団は嵐で覆滅。羽黒山の霊威に感嘆した鎌倉幕府が、鎌倉から大工や職人を派遣して羽黒山に奉ったのがこの鐘楼と建治の大鐘であるという。2度にわたる「元寇」を返り討ちにしたといわれる、あの“神風”の由来は、ここ羽黒山にあったのだ
手前の「鏡池(御手洗池)」と三神合祭殿。この池を拝すれば、神のお姿に接することができると古来より信じられていた「鏡池(御手洗池)」と、日の入り間際の三神合祭殿。本殿は度重なる火災に見舞われ、現在の社殿は文政元年(1818)に再建したもの。
三神社号額が掲げられ、金剛力士像が睨みをきかせる三神合祭殿正面
御縁年こそ記念授与品も手に入れたい。午の日にのみ授与される御守や大絵馬と同デザインの絵馬のほか、2026年4月29日からは切絵の御朱印が登場。画像協力:出羽三山神社

武芸から五穀豊穣の祈りへ。馬とともに受け継がれる行事

流鏑馬は、馬術と弓術を一体として鍛える武士の訓練法として始まり、源頼朝のによって広められた馬上武芸。その後、神事として各地に受け継がれてきた。酒田一条八幡神社では、川岸の的場へ向かって矢を放ち、五穀豊穣を祈願する神事として毎年5月1日に奉納。また、寒河江八幡宮では、走る馬上から的を射る「古式流鏑馬」と、3頭の馬を競わせ、着順で翌年の稲の作柄を占う「作試し流鏑馬」が伝えられている。

酒田一条八幡神社の流鏑馬。酒田市の荒瀬川にて5つの板的を狙い、作柄を占う農業神事の一つ。画像協力:酒田一条八幡神社
酒田一条八幡神社の流鏑馬。画像協力:酒田一条八幡神社
寒河江八幡宮の古式流鏑馬。画像協力:寒河江八幡宮
寒河江八幡宮の古式流鏑馬。画像協力:寒河江八幡宮
作試し流鏑馬は全国でも寒河江八幡宮のみに伝わる。画像協力:寒河江八幡宮

馬を操り、毬を打つ。国内3ヶ所にのみ残る神事

騎馬打毬とは、紅白に分かれ騎馬で地上の毬を毬杖ですくい上げ、互いが毬門へ投げ入れる競技。その起源は紀元前六世のペルシャにまで遡り、西洋へ伝わったものは「ポロ」として知られている。中国を経て日本に伝えられたのが日本の打毬といわれる。日本では平安時代に盛んに行われていたが、現在行われている打毬は、江戸時代に八代将軍吉宗により復興されたもので、現在その系譜を伝えるのは宮内庁、青森県八戸市、そして山形市の豊烈神社の3ヶ所のみとなっている。

豊烈神社の打毬のもとは、水野家11代藩主水野忠邦公が、水野家藩祖である忠元公(豊烈霊神)の命日にあたる10月6日を例祭日と定めて神事として打毬を奉納したが、のちに12代藩主水野忠精公が山形城主になったことに伴い、山形でも打毬が継承された。

山形市桜町の街なかに構える『豊烈神社』境内には、豊烈霊神(水野忠元公)をはじめ、様々な神が祀られている。戊辰戦争の際に、自らの命と引き換えに山形市を戦火から守った首席家老の水野三郎右衛門元宣と明治維新殉難者24柱も合祀される
自分の陣に6個の毬を早く投げ入れた方が勝利。山形県指定無形民俗文化財に指定されているほか、2025年には「未来に伝える山形の宝」に登録。画像協力:豊烈神社
豊烈神社に伝わる打毬の形式や方法は、宮内庁に伝わるものとほぼ同一形である

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