だれかの散文

2018.5.9

第1回:高畑勲監督との想ひ出


山形でラジオや新聞、テレビで映画を紹介するようになってから28年が経ちます。

その間、映画紹介と並行して「なつメロ」リクエスト番組を14年、山形の食や生産者にスポットを当てた番組を5年担当してきました。この仕事を通して様々な出会いを経験してきました。これら珠玉の出会いを紙面の許す限り ご披露していきたいと思います。

 

4月5日に肺がんのため82歳で亡くなった世界のアニメ界のレジェンド高畑勲監督との出会いは30年前の1988年9月のことでした。この年のGWに高畑監督『火垂るの墓』と宮崎駿監督『となりのトトロ』が2本立て公開されました。私は『火垂るの墓』に号泣する程感動。当時は県内各地を巡回上映する仕事をしていたのですが、この『火垂るの墓』を県内各地の人に拡く観てもらいたいの想いが叶い、この年の夏から各地のホール、公民館、学校体育館等で上映運動をしていたのでした。
こんな時にはご縁があるもので、高畑監督がこの前年に発表したドキュメンタリー映画『柳川掘割物語』を山形市で上映し、“自然保護”や“まちづくり”を考えるシンポジウム《水と人間を考える集い》を9月に開催することが決定。私も職場の先輩・高橋卓也氏(現・山形国際ドキュメンタリ−映画祭事務局長)と共に実行委員に参加したのでした。開催当日、高畑監督はパネリストとして参加。イベント終了後、山形駅前の東急インで監督を囲み懇親会。実行委員メンバーは皆 自然保護や街づくり に関わっている人達ばかりなので必然的に話題は一色。ところが、私は『火垂るの墓』を5ヶ月前に観賞以来惚れ込み県内各地で上映を行い、当日も午前中、山辺高校講堂で上映してきたばかりの『火垂るの墓』への熱い想いを監督にお伝えしたのでした。自然保護一辺倒の会場で 1人だけ『火垂るの墓』を語る私は高畑監督にとって奇異な存在で、余程 印象に残ったのでしょう。

 

約一年後の1989年10月末、高畑監督は鈴木敏夫プロデューサーを伴い、私を職場に訪ねて下さったのでした。生憎、私は仕事で留守をしていましたが、「ご相談があります。東急インに泊まりますので夜何時でも構いませんので電話を下さい。」のメモが残してありました。私は帰社するなり東急インに向かったのでした。
お二人が私に会いに来た目的は、岡本螢・刀根夕子原作の漫画『おもひでぽろぽろ』映画化を企画。原作にはないオリジナル エピソードで山形の紅花農家を舞台にする構想があるので、30才を過ぎて独身で農業に励んでいる青年を紹介して欲しい というもの。ところが、お二人にとっては折悪く、第1回の『山形国際ドキュメンタリー映画祭』が閉幕したばかりでした。映画祭ボランティアネットワークを組織して成り立ちから関わった私は、6月には中国で「天安門事件」、11月には「ベルリンの壁崩壊」という世界の激動の狭間で山形で開催された「世界の今を伝えるドキュメンタリー映画の祭典」を体験し、気持ちが昂揚したままで、お二人にお会いするなり一方的に映画祭の話を2時間もしてしまったのでした。
東京へ帰る電車の中でお二人は半ば呆れて「東北、山形の若者だからといって無口だとは限らないんですね」と笑い合ったそうです。『おもひでぽろぽろ』で山形の農業青年トシオがよく喋るのは多分に私のキャラクターが入っているとかいないとか(笑)

 

『おもひでぽろぽろ』の製作開始前に高畑監督から届いた手紙と、監督の直筆サインが入った著書「映画を作りながら考えたこと」

 

そして、翌1990年5月に高畑監督からお手紙が届きました。そこには、いよいよ『おもひでぽろぽろ』の製作を開始したので、写真やビデオを撮って送って欲しい風景や場所が詳細な依頼と私に 山形編のコ−ディネ−タ−をお願いしたい。という内容が書かれていました。謂わば“ひとりフィルムコミッション”の役割でした。

 

紅花農家、井上さん宅の前で、貴重な集合写真。中央が高畑勲監督。

 

その5月中旬にはジブリの高橋望さん、須藤典彦さんと3人で紅花の里・高瀬をロケハン。そして、紅花が咲き誇る7月12日に高畑監督、鈴木敏夫さんはじめジブリスタッフ総勢16名がシナリオハンティングに『おもひでぽろぽろ』のヒロインたえ子と同じ寝台特急あけぼの3号で山形駅に夜明け前に到着。高瀬の紅花畑、紅花の紅汁を取り出すための工程や村や家屋を丹念に観察して廻り、午後は全員で楽しく山寺を登ったのでした。高畑監督は、紅花生産者の井上市郎さんに様々な質問を浴びせたかと思えば、紅花の絞り汁で自分の白いハンカチを染めて色の変化を観察したりと探求心旺盛に紅花を調べ上げていました。

 

みんなで山寺の石段を登ったときの様子。

 

その後も、私は、音響効果スタッフ、雑誌「アニメージュ」スタッフ、日本テレビの番組スタッフをそれぞれ休日たびごとに高瀬に案内したのでした。音響効果スタッフは、ただ高瀬や蔵王の音を録音しにきたのでした。「川のせせらぎ、鳥やカエルの鳴き声だったら、東京近郊で間に合うのでは?」と問えば「高畑監督は誤魔化せません」ときっぱり。『火垂るの墓』で清太が畑泥棒でトマトを捥ぐ音の時、通常はビニールのヒモでプチッという音を出していたそうですが、高畑監督は納得せず、農家に弦付きのトマトを買いに行かせ、本物の音で録音したというエピソードを聞かせてくれたのでした。

 

当時、勤務していた映画館で私は、《音楽映画傑作選》と題して『ラウンド・ミッドナイト』『ナイト・イン・ハバナ』『ローズ』の3作を1週づつ夜一回の上映を行いました。最後の『ローズ』が終了した翌日、休みを取って、当時 吉祥寺にあったスタジオジブリに遊びに行きました。そしたら高畑監督と鈴木プロデューサーが嬉しそうに迎えてくれ、「実は、主題歌をレコーディングしたばかりなんですよ。聴いてください」と私を奥の部屋に案内して聴かせてくれたのでした。流れてきたのは昨夜まで連日観ていた映画『ローズ』の主題歌「THE ROSE」ではないですか。イントロのピアノの音二つ目で「ローズ?!」と私。「エっ、どうして わかったんですか?」と驚き、ちょっぴりガッカリしたようにお二人。元々好きな映画の主題歌で前日まで1週間聴いていたので反射的に答えてしまったのですが、日本語で唄っている女性歌手が最後まで分かりませんでした。「都はるみさんです」と高畑監督がドヤ顔(そう見えた)で教えてくれたのも良き想い出です。

『おもひでぽろぽろ』は1991年7月20日公開され興行収入31億8千万円とその年のNo.1ヒットを記録したのでした。

 

旧・山形駅にて、高畑監督をお見送りしたときの様子。

 

その後も、ジブリに訪れたり、高畑監督が山形にいらしたりと交流は続きました。

『平成狸合戦ぽんぽこ』公開後の、1994年11月には高畑監督を南陽市の農民シンガー須貝智郎さんのお宅にお連れしてお酒を飲まない高畑監督の前で智郎さんと私がベロンベロンに酔っぱらうという大失態を演じたこともありました。その後、智郎さんがリリーズした『鍬』というアルバムの推薦文を監督に書いていただくという思わぬ副産物が生まれました。

 

山形の合唱団「じゃがいも」が2009年1月25日に東京カメアリリリオホールで『合唱オペラ セロ弾きのゴーシュ』(音楽;林光)をやることを主宰者の鈴木義孝さんに伺った時、高畑監督は1982年に『セロ弾きのゴーシュ』を脚本・監督してアニメ映画化していたので、もしかしたら興味を示してくれるのではないかと電話でお知らせしたのでした。「宮沢賢治には思い入れが強く、また映画化したいと思っていますし、林光さんは昔から尊敬する音楽家ですから是非、伺います」と嬉しいお答え。公演を観た翌日、「素晴らしかった、大変良かった。楽しませてもらいました。」と高畑監督から電話で報告を戴く。私は嬉しさのあまり、「地元新聞に感想を書いて戴けませんか」と厚かましいお願い。「今、2月10日までの締め切りを抱えていますけど、そのあとでも良ければ喜んで書かせてもらいます。」との答えを戴きましたが、2月10日前後には原稿は届いていました。それは、山形新聞2月18日夕刊に掲載なりました。文章の最後は「~そんな「合唱団じゃがいも」に心から拍手。聴きに行ってほんとうによかった。ありがとう。そしてこんなすばらしい合唱団が活動している山形にも乾杯。」という有難い言葉で結んでくださいました。

 

長井へロケに来た時の様子。

 

2009年12月には山形農協スタッフと炊き出し企画で『借りぐらしのアリエッティ』製作中のスタジオジブリに伺い、ジブリスタッフ百人に正式販売前の県産米つや姫おにぎり、芋煮、オカヒジキの辛し和え、食用菊のおひたし、温海カブの漬物、ラ・フランス、リンゴ等をふるまったのでした。若手の米林宏昌監督の作品ですが宮崎駿監督、鈴木敏夫さんも山形の食べ物に舌鼓を打ち喜んでくれましたが、参加予定だった高畑監督が、当日朝、奥様が自転車に乗っていたら自動車に撥ねられ脳挫傷の重体で入院したということで来られなくなっていました。高畑監督は残念でしたが奥様の快復を祈るのみと思っていたら、炊き出し後半に高畑監督がいらしたのでした。そしたら、誰よりも早く宮崎監督が脱兎のごとく高畑監督に駆け付け「奥さんは大丈夫ですか?」と声をかけたのでした。ふたりの強い絆を目の当たりにし感激しました。心配した高畑監督の奥様がその後 快癒したのは言うまでもありません。

 

遺作となった『かぐた姫の物語』公開前の2013年12月にもスタジオジブリで高畑監督とお会いし旧交を温めたのですが、監督に夕飯に誘われながら大学時代の友人と会う約束がありお断りしたことが悔やまれます。

まだまだお元気で映画を作り続けるものと思っていたので その日が最後になるとは思いませんでした。

 

高畑勲監督はフランス芸術文化勲章オフィシエを叙勲したりアニメーション映画のアカデミー賞といわれるウィンザー・マッケイ賞を共に2015年受けるなど国際的に高く評価、敬愛される監督です。その監督が山形を舞台に『おもひでぽろぽろ』を撮ってくださったことの有難みを今更ながら噛み締めています。

今年は高畑監督が『太陽の王子ホルスの大冒険』で監督デビューしてから50周年の記念すべき年に当たり、ご一緒にオモシロいことをやらせてもらいたいと思っていた矢先に逝かれてしまいました。悲しいです。寂しいです。

 

出会いから30年、沢山のやさしさを有難うございました。

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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