だれかの散文

2018.8.10

第4回:小山田健一さん 私が憧れた山形が生んだ野球人〈前編〉


今年100回目の記念大会となる「全国高校野球大会」出場を目指して酷暑のなか連日、高校球児が熱闘を繰り広げている。

今から50年前の1968年、小学5年生の私は、ジャイアンツ長嶋茂雄への憧れからプロ野球選手を夢見て野球ボールを暗くなるまで追いかける野球小僧だった。この年、この野球小僧を夢中にさせる高校球児が地元に出現する。それは日大山形高の四番打者小山田健一捕手。

 

ヤクルトのブルペン捕手時代の小山田さん(写真提供:M.Oyamada)

 

この日大山形チームはとにかく強く、春の東北大会で優勝して、夏の甲子園予選県大会は2回戦から出場。4回戦までコールド勝ち、準々、準決勝も圧倒的勝利を収め、決勝の山形東戦は17対0という桁外れの強さでねじ伏せ優勝。左腕のエース柳橋明は、長身から投げおろす速球と鋭いカーブを武器に5試合で失点1、奪三振66の快投。打線も切れ目なくどこからでも点を取り、守備も内外野よく鍛えられ、他チームとは格段の開きがあった。このチームの四番を打つ小山田さんの勝負強い豪快な打撃はほれぼれするもので、連日、山形市営球場に足を運んでいた私の脳裏に今でも焼き付いている。特に準決勝対山形工戦での阿部、小山田連続三塁打には快哉を叫んだ。この頃は、山形県代表と秋田県代表が戦う西奥羽大会を制した学校の1校しか甲子園に行けず、山形県はなかなか秋田県の牙城を崩せずにいたのですが、この年の日大山形は東北でも圧倒的な強さを誇っていたので、久しぶりに秋田代表を打ち破り甲子園に出場するものと思い込んでいたら、この年は50回記念大会で1県1校が出場できるということで拍子抜けしたのでした。

 

日大山形は全国での評価もAクラスで、甲子園での県勢初勝利どころか上位進出も夢ではないのではと期待されたが、初戦の山岩国商(山口県)戦に0対1で敗退する。小山田さんのバットから快音が聞かれることもなかった。それでも、この年のドラフト会議で小山田さんは東映フライヤーズからドラフト6位指名され入団する。

この年は豊作で法政大学の田淵幸一、富田勝、山本浩二の三羽ガラスに明治大学の星野仙一、亜細亜大学の大橋譲、近畿大学の有藤通世、箕島高校の東尾修、社会人野球部では山田久志、加藤英司、福本豊など後にプロ野球界を牽引する選手揃いで「花の43年組」と呼ばれ、小山田さんもその一人でした。

 

1997年ヤクルトスワローズ日本一になり、祝勝パーティーで本塁打王のドゥエイン・ホージーと抱き合って喜ぶ小山田さん(写真提供:M.Oyamada)

 

小学6年生になっていた私は、自分の夢を小山田さんに重ね合わせ、東映で張本勲や大杉勝男とクリーンアップを打つ日を楽しみにしていたが、その日が来ることはなかった。一軍でさしたる活躍のないまま’78年ヤクルトに移籍。同世代の捕手・大矢、八重樫が居座るヤクルトでは東映以上に出番がなく、’78年現役を引退して球団職員としてブルペン捕手となる。ブルペン捕手は、投手の投球練習を務める捕手のことで”カベ”と呼ばれる決して脚光を浴びることのない役割だった。

 

中学の野球部で己の実力を自覚しプロ野球選手への夢を諦めた私は、随分長い間、小山田さんを思い出すことのないまま年を重ねてきたが、突然、その存在が浮かび上がってきた。

 

2001年ヤクルトがセ・リーグ優勝を果たし、近鉄との日本シリーズも4勝1敗で制した。日本一が決まった神宮球場での優勝セレモニーで、ヤクルト選手が場内を一周する際に池山隆寛選手(現東北楽天ゴールデンイーグルス二軍監督)が誰かの遺影を掲げていたのである。その夜のスポーツニュースでその遺影の主が小山田健一さんであることが判明した。ゲスト出演の池山も、元同僚の栗山英樹キャスター(現日本ハム監督)も、小山田さんのことに触れると感極まり話せなくなってしまったのである。

 

写真提供:M.Oyamada

 

小山田さんは、同年開幕前3月20日に胃がんのため、50歳の若さで亡くなっていたのでした。池山は、翌シーズン終了後、19年間の選手生活にピリオドを打ち、2003年春、「池山隆寛のブンブンブン! 夢、ありがとう」を上梓。彼の野球人生に影響を与えた父、関根潤三、野村克也両監督や仲の良かった清原和弘、ヤクルト同僚 広沢克実、古田敦也らそうそうたる顔ぶれと並んで、小山田健一さんのことが書かれていた。「小山田さんは、ぼくがプロ野球選手として育つ過程でお世話になった人であり、野村監督時代には何度も優勝の喜びを分かち合ってきた仲間でした」という一節がある。プロ野球選手としては花開くことのなかった小山田さんでしたが、裏方として球団、選手のために黙々と労を惜しまず働き、ヤクルトの栄光を支え、選手の心に生き続けていることが伺え、感動した。

少年時代の私のヒーローは、やはり尊敬すべき野球人でした。

 

写真提供:M.Oyamada

 

小山田さんが日大山形3年で異彩を放ち私を夢中にさせた1968年。

この年は、マーティン・ルーサー・キング牧師とロバート・ケネディ上院議員が相次いで暗殺されるなど、米国内で政治や人種など、さまざまな問題が噴き出した年。それは米国だけではなく、「プラハの春」と呼ばれる民主化が進んでいたチェコスロバキアを、ソ連を主体とするワルシャワ条約機構軍が制圧。フランスでは「パリ五月革命」と呼ばれる大規模な学生デモ。「文化大革命」の中国では紅衛兵による粛清強化。そして日本でも、学費値上げ反対から反安保、反ベトナム戦争、三里塚闘争など全共闘運動が激化。連日、ゲバ棒を手にヘルメットをかぶったデモ隊と、ジュラルミンの盾を持った機動隊の衝突の様子がテレビに映し出された。「金嬉老事件」があり「メキシコオリンピック」では釜本・杉山の2枚看板の活躍でサッカーが銅メダルに輝き、年の締めくくりは「3億円事件」と、小学5年生の私が、社会にほんの少し目を見開かされた年でした。

 

しかし、この’68年は、私をそんなことはお構いなしに野球へと、のめり込ませてくれたのでした。アニメ「巨人の星」が春から放送開始。そしてプロ野球開幕と同時に、敬愛する長嶋茂雄(巨人)がハイペースで本塁打を量産し、42試合で20号到達という、史上最速記録を樹立(’01年、西武のカブレラに抜かれる)するほどだった。最終的に本塁打王は49本の王貞治(巨人)に持っていかれ、首位打者も8厘差で王に敗れたが、打点は125で王を突き離しタイトルを獲得。打撃三部門で「ON」がハイレベルに凌ぎを削った唯一の年だった。阪神の若きエース19才の江夏豊は、奪三振401個の世界記録を樹立。巨人・阪神戦で、バッキーの王へのビーンボールをめぐって巨人荒川コーチとバッキーの乱闘騒ぎがあり、広島の外木場は完全試合達成と、その年のプロ野球界は特別な輝きを放っていた。その輝きの陰に隠れて当時は目立たなかったが、後世に燦然と輝き続ける記録を、この年に残した投手がいた。その投手は31勝10敗、防御率1.61という驚異的な働きで、南海を最後まで阪急との優勝争いに導いた。ちなみに、1965年から今年までの53年間で、30勝を挙げたのはこの年のこの投手だけで、今後も出ることはないだろう。この”最後の30勝投手”の名は、米沢興譲館高校(当時米沢西高)出身の皆川睦男(現睦雄)さんなのである。皆川さんはこの年、プロ入り15年目の33歳でなんと、352回を投げ抜いている。しかも、彼は足腰に負担の大きい、下手投げ投手だったのだから恐れ入る。

続きは次号へ

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

バックナンバー
過去の記事

上へ