だれかの散文

2019.8.7

第16回:赤塚真人さんとの想ひ出


俳優・赤塚真人と訊いてすぐに顔を思い浮かべられる人は少なくなったのかもしれないですが、顔を観れば「あゝ、この人!」と50代以上の人ならピンと来るのではないでしょうか。

 

私が赤塚さんと出会ったのは1997年5月ですから22年前になります。ごくごく親しくして毎年何度か山形に遊びに来て、私とトークショーをしたり、ラジオ番組にゲスト出演してもらったりしていたのですが、8年前の小さな出来事から口論となり決裂し、距離を置いたままになっているのは残念です。今となっては互いの狭量の成せる業と理解、反省しています。しかし、赤塚さんの俳優としての実力への評価は何ら変わることなく“当代一の名脇役”だと思っています。

 

赤塚真人さんとの初対面1997年4月、東京駅構内のカフェにて。

 

御巣鷹山の日航機事故から8月12日で34年になります。

赤塚さんを慕う脚本家や若手俳優と、「マリア…映画館、襲撃!…そして優しい闇の訪れ」という芝居に取り組んだのは2001年6月のことでした。この芝居の成功により、赤塚さんが座長となって「劇団TA2」を旗揚げ。その劇団はのちに「裏長屋マンションズ」になっていきます。劇団で上演を重ねてきたのが『8・12』(’04年〜)です。

不慮の事故で志半ばで若くして逝った赤塚さんの親友の無念、悲しみを代弁したいの思いから、原作・脚本を自ら手掛けたものでした。1985年8月12日の、日航ジャンボ機墜落事故の犠牲となった520人の中に、赤塚さんの友人・勝見隆さんがいました。

 

ドラマー志望の彼は、渋谷のライブハウスでウエイターをしながら、ドラムを叩いていました。店の常連だった赤塚さんは、勝見さんと将来の夢を語り、励まし合う間柄になっていましたが、そんな矢先の事故死でした。’04年4月の初演は大好評。アンコールの声に応えて脚本を練り直し『8・12第2章-絆』として、翌年4月23~29日、アカサカVシアターで再演。「僕、なんで死んだんやあ。もっと生きたかったんやあ。やりたいこといっぱいいっぱいあったんやあ」。

ラスト近くでの犠牲になって一時だけ他人の身体を借りて舞い降りた若者の叫び、慟哭は、520人すべてのものに違いない。そして、遺族の怒り・悲しみも。ステージ上の涙が、嗚咽となり客席全体に広がっていきました。

亡き親友への想いから発した赤塚さんの演劇は「今を悔いなく、そして身近な人をもっと大切に生きなければ」と思わせてくれました。それは、取りも直さず、彼の生きる指針でもあります。この演劇は、彼にとってライフワークとなりました。子供の頃に慕った坂本九さんもこの事故の犠牲となりました。赤塚さんは毎年8月12日に日航機事故があった群馬県御巣鷹山への慰霊登山を劇団員と行っているのです。

 

赤塚さんと筆者。2005年11月、山形市高瀬 平石水地区 熊戸岩麓にて

 

私が中学3年の1972年、当時愛読していたみつはしちかこ原作同名漫画をドラマ化した日本テレビ『小さな恋の物語』で主演の沖雅也さん演じるサリーのドジでお人好しな友人・山下役でレギュラー出演していた頃から、赤塚さんを笑いとペーソスを表現できる俳優として注目していました。当時20歳そこそこの若さです。今だと矢本悠馬や太賀が近いかもしれませんが、20歳の若さでそれを演じられる俳優は見当たりません。

 

その後も石立鉄男主演ドラマや青春ドラマ、『ちょっとマイウェイ』(’79)、映画では藤田敏八監督『八月の濡れた砂』(’71)、山田洋次監督『同胞』(’75)、山本薩夫監督『あゝ、野麦峠』(’76)に出演するなど順調にキャリアを重ねました。特に『同胞』で演じた忠次という役は、青年団のディスカッション場面が多く、シリアスになりがちな中で笑いの部分を一手に引き受けていたような存在で、赤塚さんが持てるスキルをフルに発揮した作品でした。

大学時代に『同胞』に出会った私は、14歳の頃の私の目に間違いは無かった!と悦に入ったものでした。

 

私が、20代後半から山形県映画センターのスタッフとして県内各地で巡回上映活動をするようになると、日ごろ映画館では上映されないが、地域ホールや学校等で上映する低予算で良心的な‘児童映画’を手掛けることが多くなりました。その中でよく上映した大澤豊監督『ガキ大将行進曲』(’78)、『青葉学園物語』(’81)、『街は虹いろ子ども色』(’87)には、赤塚さんが人情味豊かな役で出演していて親近感を一層深くしたのでした。

 

赤塚真人さんと最初のトークショー。2001年、米沢市置賜総合文化ホール。

 

そんな私に赤塚真人さんを紹介して下さったのは、当時親しくさせて戴いていた村山市出身の映画監督・村川透さんでした。村川監督がメガホンを取ったドラマ『おかしな夫婦2』(高橋英樹さん主演日本テレビ火曜サスペンス・1996年)に赤塚さんが出演していました。

私が村川監督に「赤塚真人さんは、昔から好きな役者さんなんですよ!」と言ったら、監督が喜んでくれて、連絡先を教えてくださったのでした。赤塚さんとは手紙のやりとりから始まり、1997年4月に、東京駅での初対面から意気投合。

 

赤塚真人さんラジオにゲスト出演、2001年YBCラジオスタジオにて

 

それからは、山形にちょくちょく遊びに来て、私の仲間とも親しくなり山形の自然や食を満喫していくようになりました。勿論、山形のご自宅に滞在中の村川監督とも。

サービス精神旺盛で、私がパーソナリティーを務めていた山形放送やFM山形のラジオ番組にも、時々友情出演。その明るいキャラクターで番組を盛り上げてくれて、知らない人は、山形出身の俳優と勘違いするほどでした。映画祭や地域や企業イベントでのトークショーも二人で20回ほど登壇致しました。

 

筆者、赤塚さん、須貝智郎さん。2002年3月、南陽市の須貝さんアトリエにて

 

赤塚さんは16歳の1967年、時代劇『剣」(日本テレビ)で名優・志村喬さんの息子役でデビュー。以来52年間、68歳の現在まで俳優人生を歩き続けていますが、その歩みは決して平坦なものではありませんでした。

青春ドラマの脇役として活躍し出した20代前半、主演俳優と衝突し、その責任を取り、これからという時に俳優を廃業し、調理師や左官業に就いていた時期がありました。

 

松竹で山田洋次監督に師事し、かつて赤塚さんをドラマで起用したことのある、米沢市出身の脚本家・高橋正圀*さんが、彼の才能を惜しみ、当時新作『同胞(はらから)』(’75・10・25公開)に出演する若い俳優を探していた山田監督に推薦してくれたのでした。山田監督の『男はつらいよ』シリーズが好きでたまらず、人生のバイブルのように思っていた赤塚さんにとって、山田作品に出演するのは夢のような話でした。

『同胞』には渥美清さんも出演していて、スタッフ・キャストでの懇親会の時に赤塚さんは寅さんの口上を披露し喝采を浴び、渥美さんからもお褒めの言葉を戴きましたが、山田監督は苦笑しながら「品がないねエ」と仰ったそうです。

 

山田洋次監督『同胞』より中央 倍賞千恵子さんの左からが赤塚真人さん、寺尾聡さん

 

私は間近で何度も口上を訊いていますが正に名人芸です。また1973年に山田監督が渥美清さんのために書き下ろした時代劇ドラマ『放蕩一代息子』(東芝日曜劇場)の再現芸も天下一品。

このドラマには先述の高橋正國さんも共同脚本で参加していました。大店の放蕩息子・徳三郎が渥美さん、しっかり者の妹が倍賞千恵子さん(この設定は寅さんと共通)、その父親大旦那様が志村喬さん、番頭に西村晃さん、大工の棟梁に江戸家猫八さん、放蕩息子が駆け落ちする浮浪女に奈良岡朋子さんという豪華な配役ですが、これを独り語りで再現してくれるのですが、それは熟成された古典落語のようでもあり、そのクオリティの高さはハンパないもの。特に渥美さん演じる徳三郎は、まるで渥美さんが赤塚さんに降りてきているようで爆笑してしまうのです。

 

赤塚真人さん、村川透監督、筆者。2003年米沢市八幡原広場にて

 

赤塚さんと筆者トークショー。2004年6月東根市にて

 

筆者と赤塚さん。2005年7月、山形市高瀬平石水の紅花畑にて

 

赤塚さんは、1951年3月19日に茨城県で誕生。少年期に家族とともに上京し、東京都江東区で育ちました。父親が家庭を顧みず留守がちだったことから生活が困窮。一時、妹と共に養護施設に預けられました。因みに、赤塚真人さんの真人は「まさと」と読みがちですが「まこと」と読みます。真人さんが誕生した時に父親が久しぶりに帰宅し「真人間に成るように」の願いを込めて名付けたそうです。

 

クリスマスにプレゼントを持って施設慰問に来てくれた坂本九さんを慕い、そして日活映画『赤いハンカチ』(1964年1月公開)のロケが近所で行われた時に見た石原裕次郎さんのカッコ良さに憧れて俳優になることを決意。江東区立深川第三中学校を卒業後、劇団ひまわりに入団。1歳下には『天国と地獄』『マグマ大使』などに出演する売れっ子で後にフォーリーブスで活躍する江木俊夫さん。2歳下には『バンパイヤ』主演の水谷豊さんがいました。

 

赤塚さんは1966年東宝に所属するようになり、1967年日本テレビの時代劇『剣」で俳優デビューを果たし、同年日本テレビ『でっかい青春』(1967・10~68・10)の高校生役でレギュラー出演。以降、前述したようなキャリアを重ねていきます。

「山田先生の『同胞』に出してもらってから、それを見た監督やプロデューサーから、ドンドン出演依頼が来るようになったんだよねぇ」と赤塚さんは述懐。

 

三船敏郎さん主演時代劇『剣と風と子守唄』(’75)に1年間レギュラー出演。NHKドラマ『塚本次郎の夏』(’77)ではタイトルロールを演じ、芸術祭優秀賞を受賞。再浮上のきっかけを作ってくれた山田洋次監督『幸福の黄色いハンカチ』(’77)では端役でしたが、『男はつらいよ 知床慕情』(’87)では渥美清さん、三船敏郎さん、淡路恵子さん、竹下景子さん、すまけいさん等名優に囲まれながら、知床のお人好しで純朴な青年を好演し作品にコクを加えていました。

 

杉良太郎さん主演『同心暁蘭之介』(フジTV ’81)では下っ引き役でレギュラー出演。後に92年から94年にかけて3シリーズ続く『喧嘩屋右近』(テレビ東京)でも岡っ引き役でレギュラー出演し、杉さんの座長芝居にも呼ばれています。

 

売れっ子俳優となり、順調にキャリアを重ねる赤塚さんでしたが、忙しさにかまけ、次第に家庭を顧みないようになり、ふと気付けば、妻は赤塚さんの許から去っていってしまった。これはトーク番組で「買い物に出掛けたままいまだに帰ってこない」とネタのように語っていますが、8歳の女の子と5歳の男の子が、ぽつんと残されました。

そこからは男手ひとつで、子供たちを育てなければなりませんでした。俳優という職業は家を空けがちです。幼い子供たちと一緒にいてやりたいという思いから、彼は俳優を辞め、調理師の腕を生かしてラーメン店を開こうと決意します。

 

そんな時に、長女が「テレビに出ているお父さんを見るのが楽しみなの。俳優を辞めないで」と、泣きながら懇願。子供心に、父親が自分たちのために好きな俳優を辞めることに、心を痛めていたのでしょう。自分への健気な思いやりに、熱いものが込み上げてくるのでした。

 

赤塚さん、山形市東原の友人宅で得意の手料理を振る舞う。2005年11月

 

子育てをしながら俳優を続けるために、彼は、それまで住んでいた東京・代官山から、年老いた母親が一人で暮らす、故郷 茨城県筑波郡伊奈町に移り住みました。「茨城在住子供二人のシングルファザー俳優」の奮闘努力が、ここから始まるのでした。

 

赤塚さんは、子供たちと一緒に居てやりたいとの思いから、遠くでのロケが多い仕事は極力断るようにしました。仕事と収入は減りましたが、子供と田んぼでザリガニやドジョウを捕ったり、川や沼に釣りに行ったりの田舎暮らしは楽しいものでした。

朝晩の食事だけでなく、毎朝子供たちの弁当を作り、学校行事にも積極的に参加しました。長女が高校、長男は中学に進学し、手が掛か らなくなってきた辺りから、再び俳優業に本腰を入れようと思い始めます。

 

『村川透映画祭』での筆者、赤塚さん、村川監督トークショー。2005年2月6日村山市民文化会と館にて

 

2000年代に入り、私と親しくなった赤塚さんは、頻繁に山形に来ては私がパーソナリティを務めるラジオ番組に出演したり、私を相手にトークショーをやり、ユーモア溢れる軽妙な話術で爆笑を攫っていきました。

 

2007年2月17日《荒井幸博と唄おう!~昭和歌謡のひろば ~》米沢市伝国の杜大ホールにて

 

そんな折、山田洋次監督が『十五才 学校IV』(2000年11月11日公開)のキャンペーンで山形にいらっしゃいました。インタビューをさせて貰った私は、終了後に山田監督に「監督の『同胞』で忠次を演じている赤塚真人さんと親しくさせて貰っているんです。よく私のラジオ番組にも出て戴くんですが、山田監督のことを話されるんですよ。」と番組の同録テープを差し上げたのでした。すると監督は「赤塚君かア~!!」と暫し天井を見上げたのでした。

 

2009年11月27日、東北学院大学山形支部 同窓会

 

子育てに軸足を置くようになった赤塚さんは、1987年の『男はつらいよ 知床慕情』以来、山田作品には出演していませんでした。山田監督の反応は明らかに、赤塚さんのことを忘れていたけど再びみつけた!そんな反応でした。その後、山田監督は、「まだオフレコだけど、今度、藤沢周平さんの『たそがれ清兵衛』を映画化するんだよ。」と教えてくれたのでした。

 

赤塚さん、村川監督、筆者。2010年8月山形市村川監督宅にて

 

2010年、東北学院大学同窓会山形支部総会でトークショー(山形市国際ホテル)

 

赤塚さんから弾んだ声で電話があったのはそれから数日後のことでした。

「荒井ちゃん、山田先生からキャスティングされたよ。藤沢周平原作の『たそがれ清兵衛』っていうんだ。」

 

私は思わず「ヤッター!」とガッツポーズ。赤塚さんの役に立てたという想いと、役者を捜していた山田監督に「誰か大事な人を忘れちゃあいませんか?!」という森の石松の千石船じゃありませんが、赤塚さんのことを思い出してもらえた満足感がありました。赤塚さんの役は真田広之さん演じる海坂藩下級武士・井口清兵衛の同僚・矢崎。清兵衛にシンパシイを感じながらも陰口を叩くような役どころ。役はそれほど大きくありませんが、お調子者の矢崎を赤塚さんならではの表情や言い回しで、清兵衛を陰で揶揄すればするほど、真田さん演じる清兵衛の律義な清廉さがより強調されるのでした。

 

『たそがれ清兵衛』のキャンペーンで山形市の旧シネマ旭で山田監督が舞台挨拶をする際、私が司会を務めました。終了後に近くの金澤牛肉店ですき焼きを食べながら、山田監督とお話をさせてもらいました。「赤塚君がね、彦根城での撮影が最後だったんだけど、私に“監督、一緒に写真を撮らせて下さい”って頼むから並んで撮ったんだよ。そしたら泣いちゃってね。可愛い奴だよ」と微笑みながら教えてくださいました。「赤塚さん良かったなあ」と心の底から思ったものでした。

 

赤塚さんにそのことを訊いてみると、山田作品にはそれまで、脚本作も含め7本ぐらい出ているのに、記念写真をお願いしたのは初めて。念願かなって山田監督と一枚の写真に納まった赤塚さんは、感激のあまり人目もはばからず大粒の涙を流したそうです。

 

赤塚真人さんと山田洋次監督と。2002年3月彦根城での撮影後

 

赤塚真人ここにあり!を示した赤塚さんは、山田監督の藤沢周平原作の次回作『隠し剣鬼の爪』(’04)にも永瀬正敏さん演じる主人公・片桐宗蔵の同僚下級武士・矢崎(前作と同じ)役で、そして続く『武士の一分』(’06)でも木村拓哉さん演じる三村新之丞の同僚で友人の下級武士・山崎兵太役で3作連続での出演を果たしたのでした。

 

『隠し剣鬼の爪』鶴岡市撮影現場に陣中見舞い。2003年11月、俳優 北山雅康さん、筆者、赤塚さん

 

「荒井ちゃん、俳優は待つのが仕事なんだよ。だから僕は絵を描くようになったんだよ。」私と山形の仲間に絵を贈ってくれたことがありました。彼が描く田園風景は何故か懐かしく温もりある赤塚さんの人柄が現れたもので、技術も玄人はだし。古典落語にも秀で、時折落語会をやり、劇団で落語芝居もやっています。

 

左から、赤塚真さんが描いた、茨城県の自宅近くの水田を描いた水彩画、山形市蔵王上野冬の風景

 

もともと演技力には定評がありましたが、傑出したおしゃべりの面白さは、バラエティ番組で活きると思うのですが、よそ見をせずに、愚直なまでに俳優として邁進しようとしています。 幼かった子供たちは、35歳、32歳と立派に成長し、巣立っていきました。母と妹はすでに鬼籍に入りました。

赤塚真人68歳。俳優生活53年目ですが、「生涯一役者」としての歩みは、まだ途上です。

 

* 高橋正國さんが脚本を手掛けた主な作品

テレビ「まんさくの花」(1981年、NHK総合テレビ「連続テレビ小説」)、「陽だまり横丁のラブソング」(1984年、NHK総合テレビ「銀河テレビ小説」)、「はっさい先生」(1987年、NHK総合テレビ「連続テレビ小説」)
映画「釣りバカ日誌5」(1992年、松竹)「釣りバカ日誌7」(1994年、松竹)

 


幸博荒井

プロフィール:

荒井幸博

1957年山形県山形市生まれ。地元での銀行員、自主上映及び映画館スタッフとして勤務し、1995年4月から独立。山形を拠点にシネマ・パーソナリティとして映画の魅力の醍醐味を語り、執筆し、映画ファンの裾野拡大に奮闘中。

公式サイト「いい日。ミーハーでいこう」
http://www.araiyukihiro.com

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