特集の傍流

2016.12.6

〝おいしいコーヒーを届けたい〟それがコーヒーマンの使命。

2017年1月号(147号)幻の一杯を復活に導いた物語。
珈琲専科 道 オーナー 田中浩彦さん
珈琲専科 道(山形市)

「ソフトな、上品な感じでしょう。フルーティーだし、もう一杯飲みたくなるようなこの酸味が、本当の酸味なんです」
トラジャの人々の伝統家屋〝トンコナン〟を模した特徴的な外観、扉を開けばふくよかなコーヒーの香りと、人々の楽しげな話し声。穏やかに迎えてくれたのは、創業43年を数える山形市内の老舗喫茶「珈琲専科 道」(http://cafe-michi.jp リンク先新しいタブで開きます)2代目オーナーの田中浩彦さん。レギュラーコーヒーの製造販売大手、キーコーヒー株式会社に勤めた経験があり、約30年前に同喫茶店を受け継いだ。
「どうぞ、温かいうちに」と、いれてくれたのは「トアルコ トラジャコーヒー」。アラビカ種の最高傑作と名高く、かつては「幻のコーヒー」と呼ばれた「トラジャコーヒー」の中でも、厳しいカップテストによる品質基準項目を4回以上クリアした豆でいれられたコーヒーだ。

 

気品あふれるカップにいれられたトラジャコーヒー。ちなみに、「トアルコ(TOARCO)」とは、「トラジャ アラビカ コーヒー(TORAJA ARABICA COFFEE)」の単語の頭を2文字ずつ取ったもの。1本のコーヒーの木からたった36杯分程しかとれない厳選豆を使用している。

気品あふれるカップにいれられたトラジャコーヒー。ちなみに、「トアルコ(TOARCO)」とは、「トラジャ アラビカ コーヒー(TORAJA ARABICA COFFEE)」の単語の頭を2文字ずつ取ったもの。1本のコーヒーの木からたった36杯分程しかとれない厳選豆を使用している。

 

幻のコーヒー復活に携わったその人は、山形県の生まれでした。

 この「トラジャコーヒー」は、赤道直下のインドネシア・スラウェシ島にて、現地でも独自の文化を営む少数民族・トラジャの人々と、日本の熟練コーヒー職人たちの手によって一粒一粒丁寧に作られている。
第二次世界大戦以前、オランダ領であったインドネシア。そのスラウェシ島、トラジャ県は特に、コーヒー栽培に必要な気温・雨量・土質・水捌け・日光と日陰のバランスなどの条件を、理想的なまでに備えていた。オランダ人はこれに着目し、トラジャの人々にコーヒーを栽培させたのだ。
オランダに送られた「トラジャコーヒー」は絶賛され、オランダ王室御用達のコーヒーとなり、「セレベス(スラウェシ)の名品」と謳われるほどに珍重された。しかし、度重なる戦禍により栽培どころではなくなってしまい、大戦後、インドネシアの独立に伴ってオランダ人が去ると、農場は荒れ果て、いつしかコーヒーは市場から姿を消し、「幻」とまで呼ばれるようになってしまったのだ。これは、戦前栽培されていたトラジャコーヒーがあくまで「王侯貴族用」であり、ごく一部の人々に珍重されるだけだったことにも起因していた。
その「トラジャコーヒー」を復活させたのが、キーコーヒー株式会社だ。インドネシアの直営農場から甦った、その芳醇な香りとまろやかな酸味、しっかりとしたコク、上品で深い味わいは、日本人のみならず世界中の人々を魅了してやまない。まさに、日本とインドネシアが共につくり上げた、世界に誇れる一杯なのだ。
この「トラジャコーヒー」復活を牽引した人物の中に、山形県出身のとある一人の男がいた。全ての始まりは、木村コーヒー店(現・キーコーヒー株式会社)本社の役員室に届けられた、ひと握りのコーヒーの生豆。それを受け取った人物こそ、当時副社長であった、山形県天童市出身の大木久氏だった。

 

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世界に冠たるコーヒーを復活に導いた、大木氏というコーヒーマン。

「情熱的な方でしたね。本当にあったかい人で、ざっくばらんとしていて。店にも度々顔を出してくれて、父とは冗談でも言い合うような感じで」。
「珈琲専科 道」の田中さんはそう語る。田中さんが氏と初めて出会ったのは、田中さんがまだ学生の頃だった。
「最初の思い出は、学生服を着て、父親と一緒に東京に行って社長室に入って、トラジャコーヒーをご馳走になったことかな」
氏と親交の深かった、「道」初代オーナーである田中さんのお父様と共に訪れた、キーコーヒーの社長室。大木氏はまさに、「雲の上の人」だと感じたという。
「一番の思い出は、私の結婚式に来てくれたことですね。いただいた祝辞の中で、『新しい時代が始まる』と。『トラジャコーヒーの農場やコーヒー自体も、一人の力ではできない。大勢の人のいろんな力があって、ここまで来るんだ』って話があって。何をするにも一人ではできない。それがすごく印象に残っています」。
その言葉が表すように、「トラジャ事業」は、多くの人の力無しには成し得ない難事業であった。

 

1970(昭和45)年、大木氏の元に、同社OBの宇佐美氏が、その品質の高さを惜しみ、「トラジャコーヒー」の生豆を持ち込んだ。「中南米にばかり行かないで、インドネシアの実態も見てもらいたい」と話す宇佐美氏に対し、当初は乗り気でなかった大木氏。しかし、彼の粘り強さに応えて、スラウェシ島のコーヒー農場跡を訪れる。果たして、市場から姿を消したコーヒーは、悲惨な状態となった旧農場の周囲で細々と栽培されていた。ところが、商品としてのコーヒーの品質に対する現地の人々の無知や無関心もあり、「トラジャコーヒー」の名はすっかり貶められてしまっていたのだった。
それでも、「トラジャコーヒー」を飲んだ氏は、その味に魅了され、復活を決意した。『トラジャ事業史』(キーコーヒー株式会社発行/トラジャ事業史編纂委員会編集)によれば、氏はこのように言葉を残している。
「原始的な方法を唯一の方法と考えている現地の人びとに対し、同じアジア人のひとりとして、彼等と共に幻のコーヒー園を再興させることこそ日本人にとっての適役ではないだろうか。技術も資力も不足しているだけに、世界に冠たるトラジャコーヒーを腐らせたままにしておくことは、日本のコーヒーマンとして見捨てることはできない。インドネシア自体にとっても、余りにももったいないことである」。

 

帰国後、「トラジャコーヒー事業化」を掲げた大木氏。しかし、社内の反応は薄かった。同社は業界に先駆けて焙煎加工の自動化を図るなど、技術力・開発力に定評はあったが、それでも農場開発は途方も無い難事業に思われた。この地における農場開発は、道路・密林開拓・電気・水道・住宅施工など、インフラ整備から始めねばならないことが想像に難くないからだ。
しかし大木氏は膝を折らなかった。社内を説得しつつ、東食との共同事業化を模索。そして1973年、開発計画はついに始動した。3年後、キーコーヒーは、ジャカルタに現地法人「トアルコ・ジャヤ社」を設立。自社農場はトラジャ県のパダマラン山麓に設営し、トラジャの人々と力を合わせ、まず人々の暮らしを整えるためにインフラ整備を開始。それから、コーヒー復活のための、近代的な栽培技術や品質管理方法を教えたのだ。

 

「やはり年齢からいって、大木さんは太平洋戦争を間近で経験してきた世代ですし、戦禍で市場からコーヒーが消えたことに、コーヒーに携わる人間として責任を感じていたはず。トラジャ事業には、日本人の手で復活させ、世界にそのおいしさを届けたいという、コーヒーマンとしての使命感があったんだと思いますね。使命感がないと、そこまでしないと思います。本当、死ぬ気だったと思いますよ。下手をするとクビだし、生半可な覚悟じゃできない」
田中さんはさらに続ける。
「もちろん、自社のオリジナルの製品がないとダメだという考えもあったと思います。当時は、キーコーヒーでしか飲めないもの、今でいうトラジャみたいなのはなかったんです、どのメーカーも。みんな、発想を他からもらってきて終わりっていう感じ。そういう中でいろんな人を説得して、直営農場を作ったということは、やはり、人心を掌握する力もないと難しいでしょうし、そもそも何事も、前例の無いものって難しい。成功するかも分からないし、結果が出るとしても10年後くらい。でも、今大事なのは、そういうふうな『世の中に無いもの』、今までしたことが無いものにチャレンジして創造する力だと思います。過去、既にあるものをずっと作っていたら、やっぱりジリ貧になってくる。(新事業は)ひとつの『賭け』だから。勇気がいることですね。
そういうことをみんな考えて、我々日本人だけでなく、日本人が飲むコーヒーによって現地の人も豊かにしたいという、今でいうソーシャルビジネス的な視点。それを大木さんは何十年も前に既に持っていて、実行した人ですね。そして(日本とインドネシアの)お互いの永続的な信頼関係を築き上げた。そういう意味で、私はすごく尊敬します。たとえ同じようなコーヒーであったとしても、そこに信頼関係があるかないかでも、出来上がってくるものがやっぱり変わってきますからね」

 

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1978年、「幻のコーヒー」はついに復活を果たす。「トアルコ トラジャコーヒー」は3月10日に全国一斉発売され、店舗での品切れ続出という、当時の予想を大きく上回る反響を得た。1983年には、直営パダマラン農場で本格的な生産と収穫を開始。トラジャコーヒーは大豊作となった。ゼロからのプロジェクトがまさに実った瞬間だった。
また、「トラジャ事業」は、トラジャの人々の生活をも大きく変えることとなった。日本だけでなく、トラジャの人々の豊かな暮らしに貢献したことから、トラジャの人々は日本人にとても感謝しているという。それを証明するように、現地には大木氏の名前がつけられた「大木橋」もあるほどで、今も人々の暮らしの支えとなっている。

 

「日本は確かに戦争したけれど、海外と全然違うのは、(相手国に対して)インフラ投資をしているところ。他の国はどっちかっていうと(相手国に対して)植民地扱いなんですよ。奴隷として扱って搾取するだけ。日本はそれと違って、その国を同じアジアの一国として、羽振りの違いはあれ、発展させるという思いがベースにあったから、感謝されるんですよ。『日本ありがとう』って。我々がインドネシアに行ったときも、すごい日本語しゃべれるおじいさんがいて、とても感謝された。やっぱり、やってきたことが違うんですよね。ちょっと考えすぎかもしれませんが、そういったことも見てきている大木さんには、その血が流れているんだと(思います)」

田中さんはそう語る。トラジャコーヒーが、インドネシアと日本だけでなく世界中に感動を与えたように、「コーヒーは、人と人をつなぐもの」であり、「時代を作るもの」だという田中さんは、その根底にある想いを話してくれた。

 

コーヒーが、人をつなぐ。仕掛け人は先駆者であれ。

「珈琲専科 道」は、山形県内唯一のトラジャマイスター店という貴重な店舗であり、遠方からも多くの人が足繋く通う。
「やはり責任感はありますよ。お客様をがっかりさせたくないし、もっと言えばその一杯で感動してほしい。誰がいつどこで飲んでも同じに感じるものでなく、我々は常に最高のものを目指して、一杯一杯に気持ちを込めています」。

 

現代は、爆発的なIT化によって、一人でいるときの時間の使い方も変化しているが、「その時間を素敵に過ごすためのお手伝いをしているんです」と田中さん。「じっくり本を読んだり、話をしたりというときに、そこにやっぱりおいしいコーヒーがあるというのは大事ですよね」。その時間のために提供するコーヒーやスイーツは、「一つひとつが作品」であり、マシーンでは出せない時間のかけ方や腕が必要とされる。

「時間も場所柄も含めて、手間暇を惜しまないってことですね。たとえ同じコーヒーを出すにしても、機械で出したものと我々とでは、そこに至るまでの至るプロセスが全然違う。材料から作り方から全て、納得いくまでやってから出しています」

 

さまざまな人が集い、語らい、そして繋がっていく『道』。「ここに来るお客さんがそれぞれの人生の主人公で、私はそのワンシーンの名脇役でありたいと思っています」と田中さん。

 

時代の変遷に合わせて、コーヒーやスイーツの出し方を変えるということはあるのだろうか?
「時代に合わせるというよりも、むしろ、時代を作るんです。合わせる気はさらさらないし、合わせたときもない。我々がやっている仕事って、10年先をやってるんです。だからうちでやってることって、だいたい10年後に世の中でヒットしてくる。スタッフもわかっているし、お客さんからもよく言われますよ。だから、時代に合わせて、ってのはある程度は考えるけども、それよりも自分たちが今後どういう風に考えていこうかってことを常に形として出していく。いろんなものを仕掛けていますが、それが浸透するまで時間がかかるんですよ、早いから、我々(笑)。10年くらいの余裕を持って、仕掛けていくってことですね」

 

写真は「グラマラシューアップルコブラ」。田中さん自ら、多彩なメニューを全て考案している。その独創的なアイデアは、世の中の様々な分野や人に対する興味を持ち、常にアンテナを張っているからこそ湧いてくるのだろう。

写真は「グラマラシューアップルコブラ」。田中さん自ら、多彩なメニューを全て考案している。その独創的なアイデアは、世の中の様々な分野や人に対する興味を持ち、常にアンテナを張っているからこそ湧いてくるのだろう。

 

また、カフェ「道」は様々な人が出入りする「大人の学校」でもある。
「昔からカフェっていう場所は、職業・年齢問わずいろんな人が来て、フランクに喋ることができる場所。カフェは楽しい学びの場なんです。訪れた人がお互いに刺激を受けて、インスパイアされて、沢山の『掛け算』が起こる。その種を持ち帰って、いろんな場所で花開く。発信地はここなんです、だいたい。そこで飲むコーヒーが、全然知らない、関係無いような、いろんな人と人をつないで、架け橋になっている。コーヒーが、時代を作っている」

 

 

「我々は先駆者です。だからやっぱり、今やっていることも、10年先を考えてやる、無いものを仕掛けていく。今までしたことが無いものに挑戦して、新しく創造する。こういうことが今、求められているんだと思います」。
それは大木氏も同じ考えだったのかもしれない。田中さんの目を見ていたら、そんな考えがすとんと腑に落ちた。

 

おなじみの特徴的な外観。「道」と名付けたのは初代オーナー。「最初はなんでこんなに固い名前をって思いましたけど、〝道〟ってね、生き方なんです」と田中さん。「いろんな人が集まってきて、それぞれの生き方を教えてるんですよ。だから〝道〟なんです」

おなじみの特徴的な外観。「道」と名付けたのは初代オーナー。「最初はなんでこんなに固い名前をって思いましたけど、〝道〟ってね、生き方なんです」と田中さん。「いろんな人が集まってきて、それぞれの生き方を教えてるんですよ。だから〝道〟なんです」

 

「カフェは本当にいろんな人が出入りします。我々は毎日店に立っていますけど、その人その人の人生ってみんな見せられますよ。それで、その人たちと一緒に年を取っていくわけじゃないですか? 私は実は、今こうやって喋ってるっていうのも、初めてでないって思ってます。一緒に働いてるスタッフも、妻も、来られるお客さんもみんな、必ず過去にどこかの国で一緒に生まれてるはずだと信じてる。

 

同店でともに働かれている田中さんご夫妻。

同店でともに働かれている田中さんご夫妻。

 

そして、今こうやってまたお互いこういう時代に生まれて、一生懸命それぞれの立場で仕事しているけれど、この時代・世界がなくなってから、次、多分、形を変えてまた会うだろうと。そういうふうな気持ちでいると、全然人付き合いって変わってきますよね」

ということはきっと、大木さんと出会われたことも……?

「だと思いますよ。間違いなくそれは感じます。だって、やってることも共通していること、いっぱいあるんですもん。だから、コーヒーを通して、世の中をどれだけ幸せにできるか、そこだと思います。コーヒーを飲むその人を幸せにするということですね。いろんな悩みや、それぞれの問題意識を抱えてやって来られるから、どうやったらそれが解けるか、その手伝いといったものを、コーヒーをたてながら常に考えます。どうすればその人の気が抜けたり、はっと、幸せになるかなって。その人なりのお役に立てないかなって。(ここは)そんな、人とのつながり方を教えるお節介な場所です(笑)」

 

2013年に88歳にて永眠された大木久氏。コーヒーマンとしての氏の、理想のコーヒーづくりに懸ける情熱とこだわり。それは、今も人々の間に脈々と受け継がれ、息づいている。そう思えた。

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