特集の傍流
ルーツは千利休のお茶会にあり!?全国各地に派生していった粉物文化とは。
どんどん焼きのルーツは古く、安土桃山時代まで遡る。茶人・千利休が主催した茶会の記録に数多く登場する菓子「麩の焼き(ふのやき)」。これは「水で練った小麦粉を鍋に薄く伸ばして焼き、片側に味噌を塗り巻いたもの」で、今でいうクレープのようなものだったと推測され、現代のお好み焼きやもんじゃ焼き、そしてどんどん焼きの遠い祖先と考えられている。江戸時代に入り、麩の焼きが庶民にも広がると、鉄板に文字が書けるほどに薄い生地を焼いた「文字焼き」へと進化を遂げていった。

江戸時代の文字焼き。葛飾北斎『北斎漫画』より。
もんじゃ焼きをテイクアウト用に開発。
明治時代に入ると、文字焼きを前身とした、桜えびや切りいか、あげ玉、紅しょうが、野菜などを小麦粉の生地と焼いた軽食が、東京下町の駄菓子屋で食べられるようになる。はじめは店の人が焼いていたが、次第に子どもたちが自ら焼くようになり、現在のもんじゃ焼きに近づいていったという。
その後、大正時代には駄菓子屋とは別に屋台でも売り歩くようになっていくのだが、店で提供していたもんじゃ焼きのように、多めの水で溶いた小麦粉の生地では持ち帰りに適さなかった。そのため、生地を固くして焼くようになり、これがどんどん焼きと呼ばれるようになり、東京から徐々に全国各地へと広がっていった。どんどん焼きの屋台で今川焼を販売していたケースもあり、今でも「どんどん焼き」とは「今川焼」を指す地域もあるという。
ちなみに、山形のようなスティック型のお好み焼きを「どんどん焼き」と呼ぶのは全国で山形県、宮城県、富山県の3県のみであり、希少な部類に入ることが判明している(Jタウンネット調べより/2017年)。また、全国の半数にとって、スティック型お好み焼きは未知の食べ物であり、「はしまき」という呼び方と「そもそもスティック型のお好み焼きを見たことがない」という地域、さらにはその両者が拮抗しているところも多く見られる。
路上のファストフードが、多様なスタイルで全国に伝播。
関西方面に伝わったどんどん焼きは、家庭料理にはまだ珍しかったソースが使われていたため「一銭洋食」と呼ばれるようになり、戦後、現在の「お好み焼き」へと発展していく。実は「お好み焼き」よりも「どんどん焼き」のほうが歴史的には古いのである。
東京で生まれ全国に広がっていったどんどん焼きは、それぞれの地域の生活に根付き、愛されながら、独自の進化を遂げていくのだった。
山形の蕎麦も愛したあの文豪も大好物。商売まで考えた?
『鬼平犯科帳』や『剣客商売』で知られる小説家、池波正太郎氏もどんどん焼きを愛したひとりだ。残念ながら山形のどんどん焼きではなく、少年時代を過ごした東京下町のどんどん焼きだが、その熱い想いを多くの著作に書き残した。エッセイ集『食卓の情景』では、昭和初期から10年代にかけて出店されていたどんどん焼きの屋台について詳細に書き連ねている。その内容によれば、当時のどんどん焼きは、鉄板へ小判型に敷いたメリケン粉に具材をのせ、またメリケン粉をかけて両面を焼いたものだった。メリケン粉(小麦粉)と溶き卵を合わせた生地に、切りいかや干しえび、牛や豚の生肉、あげ玉、卵などをメニューに応じて加え、焼き上げたという。特に、池波少年は豆餅を入れたどんどん焼きの「餅てん」が好きだったそうだ。
エッセイの端々から垣間見える、どんどん焼きマニアの愛。
池波氏は、どんどん焼き職人への弟子入りや自らの出店も考えたほどで、実際に子どもの頃に新メニューを考案したり、屋台の店主に頼まれ店番をしたこともあったという。池波少年を含め、古くから多くの子どもたちを笑顔にしてきたどんどん焼き。材料もレシピもシンプルな料理だからこそ、その魅力は奥深く、ハマってしまう人も多くいるのかもしれない。

東京下町のローカルフードとして知られるもんじゃ焼きだが、その名前の由来は「文字焼き」が訛ったものであると推測されてもいる。現在も、かつて下町の屋台で売られていた「どんどん焼き」が販売されているところも。
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