特集の傍流

2019.7.10

原産地ではマリアの聖木、教養と精神美を表す幸福の果実。その歴史をたどる。

2019年8月号(178号)やまがたとさくらんぼ。
歴史出典:山形県庁農林水産部園芸農業推進課「さくらんぼ年表」、寒河江市役所農林課「さくらんぼ大百科事典」


「さくらんぼを食べたがった、聖母マリアの口もとまで枝がたわんできた」というヨーロッパの言い伝えがあるほど、さくらんぼの歴史は古い。紀元前65年に、ローマの将軍が現在のトルコのギレスン付近でさくらんぼの木を見つけ持ち帰り、ヨーロッパ諸国に広まったとされ、ギレスンはさくらんぼの発祥の地として知られている。
 日本にさくらんぼが入ってきたのは、明治維新により西洋化の流れが進んでいた1868年のこと。北海道の農・畜・蚕業の基礎を築いたといわれるドイツ人のR・ガルトネル氏が、渡島国七重村(現在の北海道七飯町)を開墾した際に、果樹栽培をはじめとした本格的な西洋農場を試みた。さまざまな果樹や花きを試植し、そのなかで6本のさくらんぼを植えたと記録されている。しかし、このときはうまく根付かなかったという。

 

古くから生薬としても利用されていたというさくらんぼは、私たちが桜と呼ぶ樹ではなく、セイヨウミザクラと呼ばれる樹に生る。写真提供/山形県農業総合研究センター園芸試験場


 

 その後、北海道開拓頭取兼顧問としてアメリカからやってきたホラシ・ケプロン氏の助言により、1872年に各種果樹の苗とともにさくらんぼが導入され、国の事業として栽培がスタートする。

 

ホラシ・ケプロン氏。写真提供/山形県庁農林水産部園芸農業推進課


 

山形にさくらんぼが入ってきたのは、その3年後。内務省が全国に苗木を交付し、山形県にも3本の苗木が届き、当時の山形県庁の構内に試植された。全国に試植されたさくらんぼは、台風や霜、豪雨などの影響もあり、北海道や東北以外の地域では、うまく実がならなかったという。その中でもとりわけ山形は気候や土壌との相性がよかったのか、栽培実績をあげることに成功したのだった。

 

県内での本格的な栽培がスタート。果樹王国・山形の礎を築く。

 山形県の初代県令・三島通庸氏は、北海道開拓長官・黒田清隆氏を通して、さくらんぼやりんご、ぶどうの苗木300本を取り寄せ、山形市香澄町に植栽。1878年には、産業試験場「千歳園」を現在の山形東高等学校の場所に設置し試験栽培も開始した。

 

三島通庸氏。写真提供/山形県庁農林水産部園芸農業推進課


 

 また、三島氏が黒田氏を通してさくらんぼの苗木を取り寄せる際に同行した、寒河江市の井上勘兵衛氏も、同じく苗木を譲り受け自宅に植栽。寒河江市でのさくらんぼの栽培も時を同じくしてスタート。井上氏は、1878年から山桜を台木として苗木づくりをはじめ、普及を図ったという。

 

全国に流通していく山形のさくらんぼ。需要の増加とともに農地も拡大。

 鶴岡生まれの庄内藩士で、明治維新を機に西村山郡役所書記となり、のちに寒河江町長となる本多成允氏は、1887年頃より自宅周辺でさくらんぼの栽培を試み普及に努めたという。1888年には、本多氏と寒河江市在住だった渡辺七兵衛氏が中心となり、柴橋村(現在の寒河江市柴橋)に郡立の農産物試験場を設立。さくらんぼやりんご、キャベツなどの西洋農作物の試験を行い、栽培作物を拡大していった。
 さくらんぼの品種も生産量も徐々に増えていた1895年には、寒河江市のさくらんぼ栽培をスタートさせた井上氏が、さくらんぼの缶詰加工を自宅で始める。缶詰加工されたさくらんぼは、遠く横浜まで販売されたという。

 

当時の缶詰工場の様子。1937年には日東食品が寒河江市に誘致され、さくらんぼの缶詰工場が始まる。戦後、需要の拡大とともに工場も増え、最盛期には出荷量の8割が缶詰用として利用された。写真提供/山形県庁農林水産部園芸農業推進課


 

 1901年には奥羽南線が山形まで開通し、県外出荷がさらに増加。さくらんぼの耕地面積も拡大していった。そして大正が始まった1912年、東根市の佐藤栄助氏が、今も全国に名を轟かせるさくらんぼの主要品種「佐藤錦」の育成を始めるのだ。

 

現在の主力品種であり、トップブランドに君臨する、あのさくらんぼがついに誕生。

 数あるさくらんぼの品種の中でも高い人気を誇る「佐藤錦」だが、その苗木が売り出されたのは1928(昭和3)年のこと。「佐藤錦」は、大正元年に東根市の佐藤栄助氏が、酸味は多いが果肉が固く日持ちする「ナポレオン」と甘いが果肉が柔らかく、保存の難しい「黄玉」を掛け合わせたことに始まる。

 

佐藤栄助氏。写真提供/山形県庁農林水産部園芸農業推進課


 

 明治41年に家業の醤油醸造業を廃業し、果樹園の経営を始めた佐藤氏は、収穫期の雨によるさくらんぼの実割れや腐れに困り、品種改良に乗り出すことに。研究と育成を重ねて、大正11年、のちに佐藤錦と名付けられる新品種は初結実を果たす。そこからさらに良いものを選び抜き、最終的に一本に絞ってそれを原木とした。
 品種改良を始めてから実に16年。生まれた新品種は、親である両種の長所を受け継ぎ、風味が良く、日持ちし育てやすいことから、多くの生産者を救うことになった。こうして「佐藤錦」は少しずつ生産量をのばし、1970年代頃から生食用の需要が高まったことを機に、一気に全国区へ躍り出ることになる。
 その後、さくらんぼ栽培は県内でさらに普及し、官民一体となっての努力も実り、山形県のさくらんぼ生産量は全国の約7割を占めるまでに至っている。地域への経済効果が高く、今や「山形といえばさくらんぼ」とも言われるようになっているが、「佐藤錦」がこの現状を作り上げたことは誰も疑わないだろう。

 

山形県のさくらんぼ栽培面積は約3,000ヘクタールで日本一を誇るが、その約7割を「佐藤錦」が占めている。写真提供/東根市役所経済部ブランド戦略推進課


 

「佐藤錦」が生み出され、広まるまで、長い年月を支えた育種家の努力。

 佐藤栄助氏とともに、新品種の開発に情熱を傾けてきた人物がいる。佐藤氏の友人であり、苗木商を営んでいた岡田東作氏だ。佐藤氏の品種改良を支えた岡田氏は「佐藤錦」の名付け親でもあり、その苗木を育成し、拡販に努めた。

 

佐藤錦原木のそばに立つ岡田氏。氏は果樹苗木の生産、販売を営む中島天香園(現・株式会社天香園)を大正2年に創業した。写真提供/株式会社天香園


 

 当初、新品種を「出羽錦」と名付けようとした佐藤氏に対し、岡田氏は「佐藤錦」としてはどうかと提案。砂糖のように甘かったこと、なにより、発見者の佐藤氏が作ったものだからという理由だったといい、その言葉で「佐藤錦」に決まったという。
 研究熱心で、佐藤氏から信頼されていた岡田氏。岡田氏の努力で普及が進み、佐藤錦はさくらんぼを代表する品種へと成長した。彼らの情熱と努力の結晶たるその実を、今年も多くの人が楽しみに待つ。

 

天香園敷地内には、佐藤錦の原木の碑(左)とともに、佐藤錦誕生の歴史を説明したモニュメントパネルが建っている。


 

 

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