特集の傍流

2019.10.9

それは、ある監督の山形への移住がきっかけでした。

2019年11月号(181号)やまがたと映画祭。
認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭 理事/プロジェクトマネージャー 髙橋卓也さん
山形県山形市

 第1回の映画祭は、山形市制施行100周年記念事業として1989年に開催。当時、NHK記者や県内テレビ局の要職を経て、開局直後のFM山形で社長を務めていた田中哲さんは、芸術文化の分野にも通じ、同時に上山市に移住し映画制作をしていた小川紳介監督とも親交が深かった。そのような縁もあり、小川監督や田中さんらが提唱し、ドキュメンタリーをテーマとした映画祭の開催へと企画が進んでいったという。

 

小川紳介監督 写真提供/山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局

 

行政と市民を結んだ監督。支える力となった映画の縁。

 現在、映画祭理事でプロジェクトマネージャーを務める髙橋さんは、「小川監督が上山市で撮影し、1982年に発表した『ニッポン国 古屋敷村』がベルリン映画祭で受賞したことなどもあり、ドキュメンタリー映画への機運が高まっていました。私は当時、山形県映画センターに勤め小川監督作品の上映会に携わっていましたが、監督の働きかけで映画祭にも関わるようになりました」と当時を振り返る。
 主催者側の行政と、高橋さんら市民を結んだのは小川監督だった。「私たちには、上映会でできた地域とのネットワークがありました。映画館もないような場所に住んでいた人たちの欲求と、映画を地域で見るという動きが重なりあい、徐々に映画祭を支える力となっていきました。我々もボランティアという意識はなく、活発に意見を出し、より良いものにしようと躍起に。『自分たちがこの映画祭を支えて行くんだ』という気持ちでした」と高橋さんは話す。
 小川監督作品によりできた縁が繋がり、市民が主体となった映画祭を支える大きな力となり、現在も広がっているのだ。

 

1989年当時の、市民有志の活動の様子。当時築かれた交流が、今日の市民が支える映画祭スタイルの礎に。 写真提供/山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局

 

激動の時代に産声をあげた、ドキュメンタリー映画祭

 第1回が行われた1989年は、天安門事件やベルリンの壁の崩壊など、社会のシステムが大きく変わるタイミングだった。そのような時代だったため、中国国内の緊張の高まりなどで、中国をはじめとしたアジアの作品はほとんど呼ぶことができなかったという。一方で、ペレストロイカを機に、民主化が進んだ東欧、旧ソ連の監督らは、自分の映画がようやく解放された喜びを爆発させていた。高橋さんは、「話し始めると止まらない監督もいました。あまりの勢いにこちらがなだめることもありましたね」と笑いながら当時を振り返る。第2回以降は、アジアの作品も多く集めた。アジアで初めて行われた国際的なドキュメンタリー映画祭ということで、アジアの視点を持ち続けることを現在も大切にしている。

 

世界に認められるまでに成長を続けた映画祭

 

2013年の閉会の挨拶で、「ユネスコ創造都市」の認定を目指すことを宣言。 写真提供/山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局

 

「私たちは映画祭の継続を山形の創造的発展につなげたいと、2013年の閉会式でユネスコ創造都市加盟を目指す宣言を出しました。それは前市川市長の想いとも重なっていました」と振り返る高橋さん。現在の佐藤市長も積極的に活動し、2017年に認定。「最近では、国内外からオファーをいただきます。今回は、日台国際共同プログラムや笹川平和財団協力でインド北東部特集など。責任を感じますね」
2018年には米アカデミー賞の公認映画祭にも認定された。山形から広がる、アジアの視点が今後も世界から期待される。

 

2018年の米国アカデミー賞の認定を受け、コンペティション2部門の大賞受賞作品(ロバート&フランシス・フラハティ賞、小川紳介賞)は、次年度のアカデミー賞長編ドキュメンタリー部門へのエントリー資格が無条件で与えられることとなった。 写真提供/山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局

 

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